付添人
馬車は王都を離れると、郊外の方へ走っていく。周りには麦畑が広がり、その先には濃い緑色をした針葉樹の森も見えてくる。常にしゃべっていないと息ができないとさえ思えるフリーダが、今日に限ってはクエルの横でずっと無言だった。
身じろぎすることなく、クエルの腕にそっと身を寄せている。クエルもフリーダに何かをしゃべってしまったら、全てが消えてしまうのではないか、そんな気分だった。それは永遠のように長くも、わずか一瞬のようにも感じられる。
馬車は麦畑を抜けると、さほど大きくはない湖のほとりへと出た。真っ赤に染まる広葉樹の林が、その湖面をも真っ赤に染めている。林の中を進むフリーダの姿はより美しく、より神秘的に見えた。まるで炎の女神だ。クエルは心からそう思った。
やがて馬車の正面に、白樺の木に囲まれた大きな建物が見えてくる。馬車はゆっくりと速度を落とすと、その白い壁で出来た館の入り口の前へと向かった。
「あ〜あ、とうとう着いちゃった。もうちょっと走っていたかったな」
そう言うと、フリーダは小さく唇を尖らせた。
「そうだね。本当にいい旅日和だった」
そう告げたクエルを見て、フリーダが「ふふふ」と小さく笑い声をあげる。こんなに素晴らしい時間を過ごせたのに、その程度しか言えない自分を、クエルは少し情けなく思った。
フリーダはクエルに腕を添えたままで上体を起こすと、クエルの顔を覗き込む。クエルの目の前には、フリーダの薄く化粧をした顔があった。
「クエル――」
その時だ。柔らかい何かがクエルの唇に触れた。思わず驚いて身を固くしたクエルに、フリーダが笑みを浮かべて見せる。
「今日は本当にありがとう。これは私からのお礼よ」
クエルは体中の血が沸き立ったかと思うぐらいの熱さを感じた。自分の顔は赤く染まった楓の葉に負けないぐらい、真っ赤になっていることだろう。
「お待ちしておりました。白鳥の館へようこそ」
クエルが何かを言う前に、その声と共に馬車の扉が開けられた。係の者が馬車の横に昇降台を置く音も聞こえる。クエルは慌てて昇降台を降りると、フリーダに右手を差し出した。クエルの手をとって、フリーダがゆっくりと昇降台へ降りてくる。だが一歩を踏み出そうとしたところで、足を止めてクエルを見た。
その視線に、クエルは差し出した手をフリーダの背中に、左手をその太ももへと回した。自分の腕にかかる重みに、思わず前のめりになりそうになったが、それでも足で必死に支える。クエルはドレスが皺にならない様に気をつけながら、フリーダの体をなんとか赤い絨毯の上へ下ろした。
「重かったでしょう」
フリーダがクエルの耳元で囁いた。
「そんなことはない」
「顔には『重かった』と書いてあるわよ。ちょっと待って」
フリーダがクエルの襟元へ手をやった。
「タイが曲がっている。今日はしゃきっとしてね。私の誕生日会の付き添い人なんだから」
そう言いながら、クエルのタイを締め直す。
「フリーダちゃん!」
親戚らしい中年の女性が、フリーダのもとへと駆け寄ってきた。
「本当に大きくなって、リンダの若い頃を思い出すわね!」
「エミリーおばさん! わざわざ来ていただいて、本当にありがとうございます」
フリーダが館の者の案内で中庭へと一歩入った瞬間、さらに多くの親戚や友人たちがフリーダを取り囲む。セシルはそれを魔法だと言った。だが間違いだ。フリーダの魔法は年頃の女の子が男の子にかけるだけの魔法ではない。多くの人に心からの笑顔をもたらし、幸せな気分にする、そんな魔法だ。
きっと自分はそれに触れ過ぎていて、いつの間にかそれが特別な魔法だと気づけなくなっていたのだろう。もしかしたら、自分はフリーダにとても長く、幸せな夢を見せてもらっているのかもしれない。
「フリーダ、誕生日おめでとう」
フリーダを取り囲む人垣の向こうから、父親のギュスターブが顔を出した。
「お父さん、こんな素敵な誕生日会をありがとう!」
フリーダが父親に抱きつく。その勢いに、ギュスターブが左耳につけている人形師の証、水晶のイヤリングが大きく揺れた。それは国家人形師の中でもその上級職、宮廷人形師を表す深い青色だ。
「クエル君も付添人を引き受けてくれてありがとう」
「こちらこそ光栄です」
「そうです。私の付添人になれたんだから、全身全霊で神様に感謝の祈りを捧げなさい!」
「フリーダ……」
ギュスターブが少し呆れた顔をしてフリーダを見る。
「お父さん、そんな顔をしないで。もちろん冗談よ」
「ギュスターブさん。お待たせしました」
後続の馬車から降りてきたリンダが、夫のギュスターブに声を掛けた。
「その通り皆さんもうお待ちだ。フリーダと一緒に挨拶を頼む」
三人が中庭を抜けて建物の中へと入っていく。それを眺めていたクエルは、誰かが自分の裾を引っ張ったのに気がついた。
見るといつの間にかセシルが自分の背後に立っている。
「セシル、馬車の中では大人しくしていたかい?」
「マスター、我の事を犬か何かと勘違いしていないのか? お前より我の方がよほど礼儀作法に通じておる。あれがフリーダの父親か?」
「ギュスターブさんだ。すごい人だよ。何せ王宮直属の宮廷人形師なんだから」
「何だそれは? 人形師は人形師だ。それは人形との関係でのみ成立するものだ。王宮だかなんだか知らぬが、余人の関与するものではない」
「そうじゃなくて、人形師としての格だよ。耳につけた水晶を見ただろう。人形師の証だ。色は深い青色で、導師を表す紫の次に位の高い人形師なんだ」
「くだらん。それなら、あの者たちも人形師だと言うのか?」
セシルはそういうと、中庭の真ん中でグラスを片手に歓談している若い男たちを指差した。男たちは銀糸や金糸の縁取りが入った、いかにも高級そうな礼服に身を包んでおり、耳には白い水晶をしている。それは人形と結合できた人形師ということを表していた。
おそらくフリーダの父親のギュスターブが、この誕生日会に招待した貴族の子弟たちだろう。もしかしたら、フリーダの縁談の相手なのかもしれない。そう考えた瞬間、クエルは胸にまるで冷たい氷の塊でも現れたような気分になった。
「どうした。顔色が悪いぞ。馬車にでも酔ったか?」
セシルが少し心配そうな顔をしてクエルを見る。
「なんでもない」
そう答えながらも、クエルは現実と言うものに打ちのめされていた。そうだった。覚めない夢などなかったのだ。
「お客様、フリーダお嬢様の17歳の誕生日会が始まります。どうぞ中へお入りください」
その呼びかけに、中庭で食前酒を片手に歓談していた客達が、一斉に館の広間へと入って行く。左耳に水晶をした若い男たちも、クエルの横を通ると、広間へと入っていった。
その中の何人かが、クエルのことを興味なさげな目でチラリと見る。その視線にクエルは恐れおののいた。
「マスター、お前は何を勘違いしているのだ」
立ち尽くすクエルを見たセシルが、首を傾げて見せる。
「そうだな。僕なんかはとても……」
「あんな石ころなど無意味だ。お前は我のマスターなのだぞ。あんなもどきなどではない。お前は真の人形師なのだ。それに今日はあの赤毛の付添人なのだろう。胸をはれ」
「クエル、何をしているの? クエルは私の付添人なんだから、一緒に来て頂戴!」
建物の方からフリーダの声が響いた。
「そうだな。セシルの言う通りだ。今日の僕はフリーダの付添人だった」
そう言うと、クエルはフリーダに手を振って、建物の方へ走っていく。
「やれやれ、本当に手間のかかるマスターだ」
セシルは、その背中に向かって「フン」と鼻を鳴らして見せた。