前夜
「あれ?」
宿舎の前で、クエルはズボンのポケットに手を入れつつ、当惑した声を上げた。部屋に入るためのカギが見当たらない。あるのは借りている来賓棟の裏口の鍵だけだ。慌てて上着のポケットに手を入れたが、やはり鍵は見当たらない。
クエルは焦る気持ちを落ち着かせると、最後に鍵を見たのがどこかを必死に考えた。そこでかまどの前に屈みこむ際に、鍵が邪魔で、ポケットから取り出したのを思い出す。
「まずい!」
もう消灯時間近くで、宿舎の一階の明かりは消えている。クエルは背後を振り返ると、来賓棟のある建物へ通じる小道を駆け出した。ありがたいことに、昇った月が足元を照らしてくれる。
クエルは来賓棟の裏口にたどり着くと、鍵をポケットから取り出した。そこで裏口に鍵がかかっていないことに気づく。
「戸締りを忘れたのかな……」
今日は明日の本番に向けて、料理の修行と仕込みに明け暮れた。疲れ果てて忘れてしまったのだろう。クエルは指先に切り傷とやけどを負いながらも、必死に料理に励むフリーダと、車椅子の上で、その手伝いをするフローラの姿を思い出した。
ついでに、フリーダの背中越しに手を握るフィリップの姿も浮かぶ。クエルはそれを頭の中から追い出すと、廊下を厨房に向かって進んだ。
「あった!」
かまどの縁に小さな鍵があるのを見て、クエルはほっと胸をなでおろした。本番前に門限遅刻で謹慎処分を食らったら、フリーダに合わせる顔がない。
「さっさと戻らないと……」
そうつぶやいて、クエルが宿舎へ戻ろうとした時だ。
カチャ……。
どこかから、陶器の触れる音が響いてくる。
『ネズミ!?』
クエルは慌てて足元を見まわした。何かが動く気配はしない。代わりに一筋の明かりが見えた。それは奥にある食堂の方から漏れてくる。
『誰だろう……』
職員の誰かが、明日の準備をしているのかもしれない。邪魔しないよう、クエルが扉から背を向けた時だ。
カタ、カタ……。
再び陶器の触れ合う音が響いた。クエルは足音を忍ばせると、扉の鍵穴から中を覗き込む。穴の先に見えるのは、まだ幼さを残した侍従服姿の少女だ。
『セシル!?』
その姿にクエルは驚いた。レモンをたくさん盛った皿を、テーブルへ置いている。たとえ離れていても、頭の中に小言を言ってくるセシルが、クエルが近くにいるのすら気づいていない。
カタ……。
レモンがわずかに動き、バランスを崩したスープ皿が微かな音を立てた。それを見たセシルが顔をしかめて見せる。その姿勢のまま、テーブルの反対側に置かれた鏡へ視線を向けた。
「背筋がわずかに曲がっている。そのせいか……」
再び盆の上に皿を置くと、今度は背筋をピンと伸ばして立った。その姿勢を維持したまま、テーブルの周りを素早く、しかし急ぐ仕草は見せずに動いていく。
「同じだ……」
クエルの口からつぶやきが漏れた。その練習に勤しむ姿は、一心不乱に料理に打ち込むフリーダと何も変わらない。人形と人で、何が違うと言うのだろう?
「セシル、がんばれ!」
そう小さく声を掛けると、クエルはセシルの邪魔にならぬよう、そっと厨房を後にした。
「マスター、我への思い、しかと受け取った」
豪華な調度品が置かれた食堂に、セシルの声が響いた。その顔は人であれば、生気とでも呼ぶべきものに満ち溢れている。
「成長したな。それこそが我への集中であり、無意識での同期だ」
そう告げると、チーク材のテーブルに置かれた白磁の皿を眺めた。
「我の本身ではこうはいかぬ。核の神経節が作るまがい物とはいえ、この体はよく出来ている。しかし所詮は化身のはず。あの男がそれを定着させる体を作ったのも信じられぬが……」
セシルが鏡に映る己の姿をじっと見つめる。
「本身とつながる疑似核で、ここまで神経節の成長が可能なものなのか?」
鏡に映る少女が首を横に振った。
「穢れと同様に、肝心なことは何も思い出せん。我も実は穢れなのかもしれぬな」
フンと鼻をならすと、テーブルの上に置かれた皿へ手を伸ばす。
「どうでもいい話か……。我にとってはマスターこそが全てだ。赤毛みたいに、他の男に触れられたりはせぬぞ」
セシルは満足そうに頷くと、完璧な侍従らしく、ピンと背筋を伸ばした。
* * *
革張りの長椅子に身を預けていたアイリスは、ラムサスが差しだしたハーブティーを受け取ると、その香りを楽しむように目を閉じた。カーテンの隙間から差し込む月明りが、白磁を思わせる肌をより白く照らし出す。
「放っておいてもよろしいのですか?」
ラムサスの言葉に、アイリスは目を開けると、灰色の瞳をラムサスへ向けた。
「彼のこと?」
「はい。チェスター家の跡継ぎにも関わらず、アイリス様の権威を無視しております」
それを聞いたアイリスが、口元に笑みを浮かべる。
「王女とはいえ、死にかけていた者に権威なんてあるのかしら?」
「もちろんでございます。アイリス様の意向に逆らうなど許されません。チェスター家に抗議すべきです」
「上が分家の養子とは言え、形式上は三男坊よ。『世間知らずで申し訳ございません』、ぐらいが関の山ね」
「ですが……」
食い下がるラムサスに対し、アイリスは首を横に振った。
「彼らは私の邪魔ではなく、手伝いをしてくれているみたいだけど?」
そう告げると、サイドテーブルに置かれた封書を差し出す。
「チェスター家から私宛への私信よ」
ラムサスは一礼して、アイリスから封書を受け取ると、素早くその中身に目を通した。
「これは……?」
「片手で握手をしながら、片手で相手の腹を刺す。流石は閥族の中の閥族と言われるチェスター家ね」
「私の思慮が足りず、申し訳ございません」
「そんなことより、明日の仕込みは大丈夫?」
「はい、アイリス様のご意向に沿うよう、すべて手配してございます」
「それはよかった。これで彼も少しは私のことを見てくれるかしら……」
アイリスはそうつぶやくと、少し冷めたハーブティーへ口をつけた。