忠告
チャポーン!
天井からしずくが落ちてきた。フリーダは湯船からそれを眺めつつ、思いっきり腕を伸ばす。続けて肩を自分でもみ始めた。
「もう、腕も肩もパンパン!」
「お疲れさまでした」
同じく湯船に浸かっていたフローラが、フリーダに相槌を打つ。
「暑い厨房に籠って、フライパンを振りっぱなしでしょう。流石に疲れもするわ」
そう告げると、フリーダは自分の二の腕をつまんだ。
「しかも、ずっと味見をし続けているから、ダイエットにもならないし……。だけど、火の通し方はだいぶ分かった気がする」
「もう完璧だと思います。ですが、フィリップさんがあれだけ手際よく料理を作れるだなんて、本当にびっくりしました。マクシミリアン様といい、私は閥族の方々を誤解していたみたいです」
「でもフィリップさんて、教えるのは上手なんだけど、やたらと近すぎるのよね」
口を尖らせたフリーダに、フローラが苦笑いを浮かべた時だ。誰かが風呂場に入ってくる気配がする。
「セシルちゃんかしら?」
そうつぶやいたフリーダの目の前で、扉が勢いよく開いた。そこから意外な人物が姿を現す。
「ブレンダさん!」
「もう消灯に近い時間だから、誰かと思ったら、あなただったの」
そこでフリーダは相手が卒業生で、士官候補生なのを思い出した。
「し、失礼しました」
湯船から立ち上がろうとしたフリーダに、ブレンダが手を横に振る。
「生徒の入浴時間に来たのは私の方だから、別に謝ることじゃないわよ。それにお風呂場で敬礼なんてやめてね」
ブレンダはそう快活に答えると、タオルで体を隠すことなく、堂々と入ってきた。
「久しぶりね。元気にしていた?」
体を洗い始めたブレンダが、フリーダに声を掛けてくる。
「おかげさまで……」
「こちらもやっと人形の修理が終わって、事務方の手伝いから解放されそうなの。ヴィクターは書類仕事が得意だからいいけど、私やイクセルはもううんざり」
それを聞いたフリーダはバツの悪そうな顔をした。その人形を壊したのは、他でもない自分たちだ。
「でも工房の人がたまたま居たから助かった。正式な修理に回したら、自弁しろとか言われかねないもの」
「そうなんですか!?」
「例の件は自主演習扱いだから、そうなるわね。だけど流石はアルツ工房の職人よ。私たちも手伝いはしたけど、ほとんど一人で直しちゃった」
「もしかして、スヴェンさんですか?」
頷いたフリーダに、ブレンダは少し考えこむ顔をした。
「そう言えば、あの子は北領公に付きまとわれているけど、あなたたちがらみ?」
「人形省で人形師登録をする際に、偶然にムーグリィさんと一緒になりました」
「偶然って?」
「受付でだいぶ待たれたみたいで、そのお手伝いをしたのがきっかけです」
「人形省の受付に行くだなんて、北領公らしいと言えばらしいけど……。どこまでが演技で、どこからが本気なのか分からない人ね」
「演技……?」
当惑するフリーダに、ブレンダが首を横に振った。
「独り言よ、気にしないで。北領公がらみと言えば、今度の見学会で、晩餐会の料理を作るんだって?」
「ど、どうしてブレンダさんがそれを……!」
慌てるフリーダへ、湯船に浸かったブレンダが片目をつむって見せる。
「知っているに決まっているじゃない。偉い人たちがたくさん来るから、事務方は大騒ぎよ。おかげで残業続き」
「そんなに偉い人たちが来るんですか?」
フリーダの問いかけに、ブレンダの方が慌てた顔をした。
「もしかして知らなかったの? チェスター家当主のカルロス伯に、人形省事務次官ジークフリード卿。彼はローレンツ家の次期当主でもあるわね。それと枢密院顧問のルイス卿もいる。ルイス卿はウルバノ家の大番頭だから、御三家そろい踏みの、それはもう錚々たるメンバーよ」
それを聞いたフリーダが、湯船の中で硬直する。
「ヴィクターから聞いたんだけど、あなたもかなりの有名人じゃない。だって、『王都の赤い薔薇』なんでしょう?」
「や、やめてください!」
フリーダの悲鳴に、ブレンダはカラカラと声を上げて笑った。
「やっぱり恥ずかしいんだ。でもあなたを見ていると、そう呼びたくなるのも分かる。それでもこれまで政治的な活動をしなかった北領公に、アイリス王女も絡んでいるとはいえ、ちょっと信じられない面子よ。あなたって、実は王家の隠し子なの?」
「ただの庶民です!」
「ほんとうかしら? それともう一人、いやな奴が来るから気を付けなさい」
「いやな奴?」
「エドワード内務卿。一代貴族の成り上がりで、ともかく虚栄心が強い男なの。内務省で成り上がったのも、王家へのごますりと、相手の揚げ足取りに終始した結果よ」
ブレンダはそこで言葉を切ると、真剣な表情をした。
「前にも言ったと思うけど、閥族以外の女性がここにいるのは、決して楽なことじゃない。それにエドワードにとって、あなたみたいな子はまさに勲章よ。いつ私みたいな目に合うか分からないから、気をつけて」
ブレンダはそう告げると、フリーダの隣にいるフローラを眺めた。そこで小さく首を傾げて見せる。
「脱衣所に置いてあったのは、あなたの車いす?」
「は、はい。フローラと申します。庶民なので苗字はありません」
頭を下げたフローラへ、ブレンダが手を差し出した。
「ブレンダ・アーカム元士官候補生よ。人形師には見えないけど、どうして国学に?」
「兄が補欠合格したのですが、まだ選抜で負った傷が癒えていないため、代理入学させていただきました」
「私たちは一緒の班なんです」
フリーダの言葉に、フローラが頷く。
「へぇー、そんな制度があったんだ。そう言えば侍従服を着た子は?」
「セシルちゃんですか? 厨房の後片付けをしています」
「一人で?」
それを聞いたフリーダが、ばつの悪そうな顔をした。
「私たちも手伝うと言っているんですけど、片づけは侍従の仕事だって、譲ってくれなくて……」
「ふーん、あの年で侍従をしているうえに、国学に入ってくるぐらいだから、やっぱり変わった子なのね。あの子ならどこかの太鼓腹が寄り付いて来ても、蹴り飛ばしそうだけど、あなたこそ見学会に来る連中が、いかにも目を付けそうな子よ」
心配そうに眺めるブレンダに、フローラは首を横に振った。
「私はすでにとある方の愛人ですから、ご心配は無用です」
呆気にとられた顔をするブレンダに、フリーダは目立たぬよう、そっと頷いた。