助っ人
フリーダは腕組みをしながら、厨房の作業台をじっと見つめていた。そこには細かな字でびっしりと書き込まれたレシピが、所狭しと並んでいる。
「献立を考えるのも大変ね」
フリーダの口からため息が漏れた。
「料理よりも、献立を考える方が大変とおっしゃる方は沢山います。それに今回は舌の肥えた皆さまが来られますし……」
フローラのセリフに、フリーダが頷く。
「そうなのよね。何を作ったらいいのか、さっぱりわからない」
そうぼやきつつも、フリーダは一枚のレシピを指さした。そこには他のレシピに比べて、とてもシンプルな内容が書かれている。
「ムニエル?」
クエルの口から当惑の声が漏れた。
「お母さんが作ってくれる料理の中で、これが一番好きなの」
「僕も好きだよ。でも普通の家庭料理じゃ――」
「相手は王女様よ。料理の凄さで張り合えるとは思えない。そもそも手の込んだ料理なんて、私たちじゃ作れないでしょう?」
フリーダがクエルの穴の開いたエプロンを指さす。
「それなら、私が食べたいと思う料理を作った方が、絶対に後悔しないと思うの」
「とってもいいお考えだと思います」
フローラもフリーダに同意する。
「お母さんのレシピ通りに、付け合わせはニンジンのグラッセとほうれん草のソテーにしましょう。もちろんデザートはマドレーヌよ」
そこでフリーダは困った顔をした。
「魚は白身魚なら何でもおいしいと書いてあるけど、食堂にお願いすれば、仕入れてもらえるのかな?」
「マドレーヌはここにあった食材で作れましたが、魚と野菜は人数分の仕入れが必要ですね。お客様はムーグリィさんを含めて6名です。よく考えれば、料理の準備も、私たちだけでは手が回らないと思います」
「フローラさんの言う通りよ。セシルちゃんには給仕役をお願いしないといけない上に、クエルはそもそも役立たずだし……」
「どんだけ息を吹き込んだと思っているんだ?」
クエルの突っ込みに、フリーダは小さく舌を出した。
「冗談よ。本気にしないで。でも手が足りないのは確かね」
「今から頼んで間に合うかな? それに……」
クエルはそこで言葉を飲み込んだ。こちらは庶民なうえに、相手はアイリス王女だ。手伝いを申し出る人がいるとは思えない。
「ないものねだりをしてもしょうがないわね。食材は私が試作分を含めて食堂にお願いする。ともかく手早く作る練習をしましょう!」
フリーダが元気よく声を張り上げた時だ。誰かが厨房に入って来る気配がした。
「すいません、すぐに片づけます!」
背後を振り返ったフリーダの体が固まる。その視線の先には、バラを手にした学生の姿があった。
「フィ、フィリップさん!?」
「料理対決をされると聞き、馳せ参じました」
フィリップはそう告げると、優雅に淑女に対する紳士の礼をして見せる。どう考えても、チェスター家の御曹司であるフィリップが、料理の役に立つとは思えない。
「特にお手伝いをして頂く必要は……」
フリーダは引きつった顔で声をかけたが、フィリップはそれを無視すると、足元に置いた籠を料理台の上へ置いた。そこから銀色に輝く大きな魚を取り出す。それはクエルが見たことのない魚で、目が横によっているユーモラスな姿をしていた。
「もしかして、流底魚ですか!?」
それを見たフローラが、驚きの声を上げた。
「流底魚?」
フリーダの問いかけに、フローラが頷く。
「幻の魚と呼ばれている白身魚で、確か王都の東の山上湖で、まれにしか取れないと聞きます。それもこの大きさだと、一体いくらするのか……」
「よくご存じですね」
いつの間にか包丁を手にしたフィリップが、フローラへ笑みを浮かべた。
「アイ姉にイベール家の夕飯の食材を調べさせたら、白身魚が多いとのこと。それでこちらを用意させていただきました」
「そんなことを調べたんですか!?」
それを聞いたフリーダが、悲鳴のような声を上げた。フィリップはフリーダの叫びを気にすることなく、料理を続ける。気づけば、魚のうろこと内臓はきれいにのぞかれており、その手際はとても素人の物とは思えない。
「僕ら閥族本家の人間は、意外と自分で料理を作るんです」
「どうしてですか?」
クエルの問いかけに、フィリップは肩をすくめた。
「飢えて死ぬことはないけど、毒を盛られて死ぬことはたまにあるんだ。そのための用心だよ。それと毒見役はアイ姉だったから、そんなことで死ぬのはもったいないしね」
そう告げつつ、今度はとげ抜きで丁寧に小骨を抜いていく。
「アイ姉は何でも手際よくできるのに、なぜか料理だけは壊滅的でね。焼けば間違いなく黒焦げだし、味付けは手元の調味料を全部ぶち込んじゃう。とても食べられたものじゃない」
それを聞いたフリーダが、妙に納得した顔をする。料理に関する限り、アイラとフリーダの二人は似た者同士らしい。
「それにフリーダさんの手伝いをしたいと思っているのは、僕だけじゃないですよ」
フィリップは籠の中から、綺麗な光沢のある紙袋を取り出すと、それをフリーダへ差し出した。
「これは?」
「厨房の入り口にありました。中身はかなり高級な小麦粉と香辛料ですね。提供者の名前はないけど、代わりにメッセージが書いてあります」
フィリップが紙袋の口を指さす。
「D組の友人へ? もしかして、ヒルダさんとルドラさん!?」
「D組と言うことはそうでしょう」
声を上げたフリーダに、フィリップは頷いた。そして手早く魚の切り身から水気を取り、小麦粉をまぶしていく。慣れた手つきでコンロの火を起こすと、バターをフライパンへ落とした。
それが解けるや否や、フライパンに切り身を並べていく。解けたバターを小麦の上に掛け回すと、魚の油の香りとバターの香りが混じり合い、食欲をそそる匂いがしてきた。そこにレモンピールとセージが振りかけられると、満腹なはずのクエルの口の中ですら、よだれがあふれてくる。
「皿の用意を!」
声を上げたフィリップが、すでにセシルによって並べられた皿に、出来上がったムニエルを乗せた。
「付け合わせはないけど、まずは食べてみてください」
フィリップが全員を見渡す。
「僕はもうお腹がいっぱいで――」
「クエル、せっかく作ってくれたんだから、いただきましょう」
フリーダに促されて、クエルも席に着いた。ナプキンの上に置かれたフォークとナイフで一口いただく。外側のサクッとした触感と共に、ぷりぷりとした身が零れ落ちてきた。
次の瞬間、まるで綿菓子でも食べているみたいに、口の中で身が溶けていく。続けて、何とも言えない上品な甘味が、舌の上に広がった。
「う、うまい!」「な、なにこれ!」
隣に座るフリーダの口からも、感動の言葉が漏れる。反対側に座るフローラは、あまりの美味しさに驚いたのか、フォークを口に入れたまま固まっていた。
「どうです? 普通のムニエルとは一味違いませんか?」
フィリップの問いかけに、クエルは思いっきり首を縦に振った。とても同じ料理とは思えない。明らかに別物だ。
「流底魚は、とても火加減がむずかしいと聞きました」
フローラも尊敬のまなざしで、フィリップを見つめる。
「人形を繰るのと同じで、慣れの問題ですよ。これなら、アイリス王女ともいい勝負になります」
それを聞いたフリーダはしばし考え込む表情をした。しかしすぐに立ち上がると、フィリップに丁寧に頭を下げた。
「フィリップさん、援助の申し出を頂きまして、本当にありがとうございます。ですが、私は普通の白身魚でムニエルを作りたいと思います」
「それでは勝てないと思いますが?」
フィリップの問いかけに、フリーダは頷いた。
「そう思います。ですが私は勝ち負けよりも、お母さんの一番美味しいと思う料理を、皆さんに食べていただければ、それで十分に満足です。いえ、そうしたいと思っています」
「なるほど……」
「食材の提供は抜きに、料理のご指導のほどを、よろしくお願い致します」
再び頭を下げたフリーダへ、フィリップは貴公子らしい、凛とした笑みを浮かべた。
「もちろんですよ。それに流石はフリーダさんです。確固たる信念をお持ちだ。『王都の赤い薔薇』と称えられるだけのことはあります」
「王都の赤い薔薇……?」
クエルは思わずフリーダの顔をのぞき込んだ。その視線を受けたフリーダの顔が真っ赤に染まる。
「か、勝手に誰かが言っているだけよ!」