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人柱

 厨房の椅子に座らされたクエルは、目の前で繰り広げられる戦場のような喧騒を、固唾を飲んで見守っていた。


「フリーダさん、濡れふきんの用意は出来ています。泡が細かくなっていくのを確認してください」


「はい、フローラさん!」


 フリーダはコンロの上からフライパンを下ろすと、フローラが用意したふきんの上に置いた。ジュッという音と共に、クルミを思わせる香ばしい匂いが漂ってくる。焦がしバターの完成だ。今度は焦がさずに済んだらしい。


「次は小麦粉と、ベーキングパウダーを振るいにかけます。ここからは正確さが大事です」


「どちらも分量はレシピ通りです!」


 元気よく答えたフリーダが、ボウルの上のふるいに小麦粉をそっと入れた。ふるいを細かく動かすと、小麦粉が粉雪みたいにボウルの中へと落ちていく。


「ダマにならないように、もう一度よね!」


 再び小麦粉とベーキングパウダーをふるいにかけた。


「クエル、卵をお願い!」


 フリーダの呼びかけに、クエルは卵を割ってボウルの中へ落とした。そこにフリーダが、砂糖とわずかな量のはちみつを加える。


「さあ、ここからは力仕事よ……」


 そう宣言すると、泡だて器で卵を素早くかき混ぜていく。


「こんなものかしら?」


 フリーダの問いかけに、フローラはうなずいた。


「粉を入れていきましょう。ここからは、ともかく優しくです」


 その指示通りに、フリーダが空気を含むよう、慎重に粉を振っていく。続けてへらで、生地をかき混ぜるのではなく、切るように練っていった。


「焦がしバターをいれます!」


 フローラが先ほど作った焦がしバターを、へらに添わせるよう、そっと注ぎ込んでいく。その動きに合わせて、フリーダは生地を底からすくい上げ、全体になじませた。その姿は工房の職人たちさながらだ。

 

「回ったかしら?」


「生地につやが出てきました。充分だと思います」


 フリーダが生地を流し込んだ型をオーブンへ入れる。額に浮かんだ汗をぬぐうと、粉だらけの顔をクエルへ向けた。


「クエル、出番よ!」


「了解!」


 クエルはオーブンの薪に向かって、竹の筒で息を吹き込んだ。逆流してくる煙が目に染みるが、ひたすら息を吹き続ける。


「皆様、クエル様がオーブンの世話をしている間、お茶はいかがですか?」


 不意にセシルの声が響いた。いつの間にか厨房の台には白いテーブルクロスがかけられ、ティーカップが置かれている。その前で、ティーポットを乗せた盆を手にしたセシルが、背筋をピンと伸ばして立っていた。


「どこかのお屋敷に招待されたみたい!」


 それを見たフリーダが、感嘆の声を上げる。


「丁度よかった。喉がカラカラよ。クエル、後はよろしくね!」


 女子たちがテーブルでお茶をしている間、クエルはオーブンと格闘し続けた。大型なのはいいが、それを維持するのはクエル一人だ。汗と煙で、自分の体が燻製になるかと思った頃、オーブンから香ばしい匂いが漂ってくる。


「そろそろ時間ね」


 いつの間にかクエルの横に来たフリーダが、砂時計を眺めながらつぶやいた。砂時計の最後の一粒が落ちていく。フリーダはオーブンから銅製の型を慎重に取り出すと、厨房の作業台へ乗せた。


「焦げてないといいんだけど……」


 その言葉にクエルも心から同意する。ここまで大量のマドレーヌになれなかった物を、「もったいないから、食べて!」の一言で、全部食べさせられている。味以前に、もう腹が苦しくてたまらない。クエルはフリーダとフローラが型を取り外すのを、祈る気持ちで眺めた。


「フローラさん、これって!」


「み、見事なマドレーヌです!」


 型を外し終えた二人の口から、驚きの声が漏れた。貝の形をした型の上に、黄金色の生地をした焼菓子が並んでいる。


「でも、まだ油断はできないわよね」


 フリーダは湯気を立てるマドレーヌをフォークに刺すと、それをクエルの前へ差し出した。


「クエル、口を開けて」


 胃はすでに限界を超えていたが、フリーダの真剣な表情に、クエルは素直に口を開いた。差し出されたマドレーヌを一口で頬張る。次の瞬間、いつもの絶望的な焦げの味ではなく、芳醇なバターの香りと、豊かな甘みが口の中に広がった。


「お、おいしい……」


 クエルの口から洩れた言葉に、フリーダが目を輝かせる。


「フローラさん、マ……マドレーヌが出来ました!」


 そう叫んだフリーダが、フローラに抱き着いた。フローラも涙を流しながら、フリーダの背中へ腕を回す。


「おめでとう、フリーダ……」


 固く抱き合う二人に、クエルも心から喜んだ。しかしその感動とは裏腹に、胃からは何かが逆流しようとしている。


「では皆さん、マドレーヌを囲んで、もう一度お茶会です!」


 セシルの呼びかけに、クエルは思いっきり首を横に振った。


「もう何も入らない!」


 クエルの言葉を無視して、セシルがマドレーヌを手際よく真っ白な皿に乗せていく。やがてそれは黄金色の山となって、クエルの前にそびえ立った。

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