炎上
放課後、クエルは学生服の上に黄色いエプロンを羽織って、フリーダの前に立っていた。フリーダも学生服の上に、真っ白なエプロンを着て立っている。クエルの横には、今日は肩がけの長めのエプロンをしたセシルと、同じエプロンを着たフローラもいた。
フローラが手伝いを申し出てくれたのはありがたい。クエルは心からそう思った。自分の忠告など、フリーダは聞く耳を持たないだろうし、セシルは間違いなく我関せずだ。
「では、はじめたいと思います」
フリーダの緊張した声が厨房に響いた。厨房と言っても、クエル達の宿舎や学校の食堂の厨房ではない。来賓館にある普段は使うことがない厨房だ。そのためか、厨房はとっても立派だし、置かれた道具も、銅製のとても高価な物が揃っている。
それだけではない。世界樹の葉を駆動源とした冷蔵室まで備えてあった。これらは料理の練習用にと、アイリス王女がラムサスを経由して手配してくれたものだ。
「いきなり晩餐会の料理を考えるのも無理だから、先ずはこの厨房に慣れるためにも、マドレーヌを作りたいと思います」
そう宣言すると、フリーダはクエルの方をじろりと睨んだ。クエルは壊れた水のみ人形みたいに頷く。今日は絶対に逃げられない。クエルは覚悟を決めた。
「まずはバターを溶かすのね」
「レシピがなくても大丈夫ですか?」
バターの入った缶を渡しつつ、フローラがフリーダへ問いかけた。
「一応は母さんが作っているのを側で見ていたから、大体は頭に入っていると思うんだけど……」
「全部頭に入っているだなんて、流石はフリーダさんですね!」
二人のやり取りに、クエルはセシルと顔を見合わせた。セシルに最悪の事態に備えるよう、目で合図する。
「クエル、何をぼーっとしているの。コンロの火力を上げて頂戴」
フリーダの呼びかけに、クエルは竹で出来た筒で、コンロの下で燃える薪に息を吹きかけた。その横ではまだ何も分かっていないフローラが、目を輝かせているのが見える。
「それでは行きます!」
その一言と共に、フリーダは缶の中にあったバターの塊全部を、フライパンの上へぶち込んだ。
「あ、あの!」
フローラが叫び声を上げる。クエルの頭の上で、パチパチと油が弾ける音が聞こえてきた。慌てて立ち上がると、フライパンの上には広大なバターの海ができている。すでに溶けた部分は沸騰している一方で、まだ解けていないバターの塊が、黄色い海の上をぷかぷかと漂っていた。
「量が多すぎですし、火も強すぎです!」
「そうなの。いっぱいあった方が、足りなくなるよりはいいと思ったんだけど……」
慌てるフローラへ、フリーダはそうつぶやきつつ、首をひねった。
「それに、焦がせばいいんでしょう」
その言葉にフローラが絶句する。その間にもフライパンから上がるパチパチと言う音は、さらに激しさを増していた。次の瞬間だ。
ポン!
跳ねた油に引火したらしく、フライパンからいきなり赤い炎があがった。
「えっ、なんで!」「キャ――!」
フリーダの慌てる声と、フローラの悲鳴が厨房に響く。その横を素早くセシルが動いた。セシルはフライパンをコンロから降ろすと、その上に大きな金属製の蓋を被せる。
バ――ン!
大きな金属音と共に、燃え上がっていた炎が消えた。
「あー、びっくりした。セシルちゃん、ありがとう!」
フリーダはセシルの両手を掴んで飛び跳ねた。しかしすぐに怪訝そうな顔をする。
「まだ音がする気がするんだけど……」
「ク、クエルさん、燃えています!」
フローラの震える声に、クエルは自分の体を眺めた。黄色いエプロンの裾から、白い煙が上がっている。そこから瞬く間に火が燃え上がった。
バシャン!
クエルの体へ盛大に水がかけられる。水浸しになった髪をかき上げると、桶を手にしたセシルが、肩をすくめて見せた。
「クエルのせいで、エプロンが焦げちゃったじゃない」
「僕のせい……?」
「クエルがぼーっとしているからよ。でもこれじゃマドレーヌは無理よね」
「はい、無理だと思います」
そう告げたフローラに、フリーダが残念そうな顔をする。でもすぐにいつもの笑顔へ戻った。
「失敗は成功の元よ。セシルちゃん、新しいバターを冷蔵室から持ってくるから、手伝ってくれる」
「はい、フリーダ様」
セシルがフリーダから見えないところで、うんざりした顔をしてその後をついていく。二人の後ろ姿を見送りつつ、クエルが大きなため息をついた時だ。
「クエルさん!」
フローラが深刻な顔をしてクエルへ声をかけてきた。
「もしかして、フリーダさんて……」
「うん、料理は思いっきりへたくそだよ。それも壊滅的にね」
エプロンに空いた穴を眺めながら答えたクエルに、フローラは思いっきり息を飲んだ。