厄日
カポーン!
風呂場に空になった桶の音が響く。その中身を頭から被ったフリーダが、まるで濡れた子犬みたいに頭を振った。今日は散々な目にあった、と心から思う。最初の水練の授業がいつの間にか、アイリス王女のティーパーティーに変わり、しかもムーグリィによってプールに投げ込まれもした。
良かったことは、クエルが助けに来てくれたことぐらいだ。もっとも、プールに投げ込まれた時点で、頭が真っ白で、その先のことはよく覚えていない。
「今日は大変な一日でしたね」
椅子に座って体を洗っていたフローラが、フリーダに声をかけた。今日のお風呂はフリーダとフローラの二人だけしかいない。セシルは用事があるとかで、部屋に残っている。
「本当にそう。厄日というのは、今日みたいな日のことを言うのね」
フリーダはフローラに苦笑いを浮かべた。
「ムーグリィさんがおっしゃっていましたが、フリーダさんのお母さんは、料理がお上手なんですか?」
「そうね……。きっと上手よね。みんな美味しいというもの」
「すごいですね。とってもうらやましいです」
「うん、今日のマドレーヌもよく作ってくれて、クエルと一緒に食べたから、ある意味懐かしい味かな。でもあんな立派な材料じゃないし、もっと素朴なやつよ」
「私は感謝祭の時ぐらいしか、お菓子を作る機会はありませんでしたけど、見かけ以上に難しいですよね。最初に焦がしバターを作るときに、すぐに焦げちゃいますし……」
「焦がしバターって?」
頭に石鹸を付けたフリーダが、フローラへ問いかけた。
「焦がしバターですか? バターが焦げる直前で火を――」
「なんだ、焦がせばいいのね。それなら得意よ!」
そう言って胸を張るフリーダに、フローラは焦った。
『もしかして、料理のことを何も分かっていないのでは?』
そんな疑念が、フローラの頭をよぎる。
「フリーダさん、ムーグリィさんの晩餐会では、どのような料理を作られるおつもりですか?」
「晩餐会? 絶対に無理って、断ったはずだけど……」
「フリーダさんがプールから上がられた後に、アイリス王女様とフリーダさんのそれぞれで料理を作る、という話でまとまりました」
「えっ!」
髪を洗っていたフリーダの手が止まった。
「その話って、まだ続いているの!?」
「は、はい。続いていると思います」
フローラは心の中で、『完璧に』と言葉を続けた。
* * *
クエルは宿舎のベッドの上で体をよじった。寝ようとしても中々寝付けない。理由はフリーダを助けた時に感じた唇の柔らかさを、まだ体が覚えているからだ。
「もう寝ないと……」
明日こそ本物の水練の授業が始まる。そう思って目を閉じた時だ。何かの気配を感じた。目を開けると、セシルが添い寝をするように、横からクエルの方をじっと見つめている。
『――今夜も現れたな』
クエルは心の中でため息をついた。触れることは出来なくても、その熱い吐息だけを感じることになるのか……。
「セシル、今晩は勘弁してくれ」
無駄と知りつつセシルの体へ手を伸ばす。その手がとても柔らかいものに触れた。
「えっ!」
単なる勘違いだろう。そう思って手を動かすと、柔らかいものが手の中で形を変える。
「どういうことだ!」
クエルは叫んだ。それを聞いたセシルが、ニヤリと口の端を持ち上げて見せる。
「マスター、お前から求めてくるとは、少しはマスターらしくなってきたな」
「な、なにを言っている……。それにどうして触れられるんだ!」
再び叫んだクエルに、セシルは口元へ指を立てた。
「うるさいぞ。他の部屋に聞こえるではないか。もちろん直接忍び込んできたからに決まっている。マスターがもっと精進すれば、繋がりだけで、我の化身に触れられるようになるぞ」
「いらない。そんな能力は絶対にいらない!」
「それが人形師としての真価だ。出来なければ、これから先は生き残れん」
「そもそも人形のはずなのに、どうして人と同じなんだ?」
クエルは日ごろから感じていた疑問を口にした。授業中にあくびはするし、マドレーヌだって普通に食べていた。そのどちらも人形にはいらないはず。
「我の身は人と同じだ。正しくは人もどきだな」
「人もどき!?」
「人形の体が化身を現実の世界に定着させている。それだけではない。深淵たる世界樹の実の神経節がそれを取りこみ、今ではそのほとんどを、人の臓器を模したものへ作り変えている」
セシルが己の胸の膨らみを指差す。
「だから人と同じものを食することだってできるし、マスターと男女の契りを交わすことだってできるぞ」
そう言葉を続けると、クエルの耳元にそっと熱い息を吹き込んだ。
「もっとも、完全に人と同じではない」
「どこが違うんだ? 僕には全く分からないけど……」
クエルはセシルの赤い唇を眺めながら首を傾げた。どこからどう見ても、人そのものとしか思えない。
「外見についていえば同じだ。しかし世界樹の神経節とそれをつなぐ基礎としての人形の体が、完全に失われるわけではない。裂いてみれば、人なのか人形なのかはすぐに分かる」
「結局、ほぼ同じということだろう?」
「違うぞ。この体は成長することもなければ、老いることもない」
「それって、セシルの見かけはずっと同じということ?」
セシルがクエルへ頷く。つまるところ、セシルはそのままで、自分だけが老いていくことになる。今はセシルと年は離れていないが、もっと年を重ねたら、どう思われるだろう。間違いなく変態扱いされるし、フリーダからは張り倒されるに決まっている。
「我の場合は化身が定着しているだけで、あくまで本身はセレンだ。人形を変えれば、この体を別の体に出来る。もっと胸が大きい方がマスターの好みであれば、変わってやるところだが、残念なことに、今はこの体を作れる者がいないようだ」
「よかった……」
変態扱いされる危険はあるにせよ、それは将来の話だ。妖艶な美女に姿を変えたセシルに迫られでもしたら、とても理性が持たない。
『もし父がいたら、成長したセシルの体を用意しただろうか?』
そんな考えが頭に浮かんだ。しかしその先を考える前に、セシルに胸倉を掴まれる。その表情はいつもの皮肉めいたものとは違い真剣だ。
「そんなことより、マスターに大事な話がある。あの男を見たか?」
「ラムサスのこと?」
「そうだ。どうして我が奴の前で、ただ座ってお菓子を食べなければならないのだ!」
「はあ?」
「我はマスターの忠実な人形にして侍従だぞ。それが他の者がマスターの世話をするのを、指を咥えて見ているだけなどあり得ん!」
素人のクエルから見ても、お茶会でのラムサスの振る舞いは完璧だった。次々とテーブルや椅子を出す姿は、奇術師にすら思える。
セシルはクエルの体を突き飛ばすと、馬乗りになった。パジャマの襟をつかみながら、クエルの瞳をじっと見つめる。
「そもそも、マスターが悪い!」
「僕が!?」
「マスターがもっと主人らしく堂々としておれば、我はもっと侍従らしく振る舞える。それをぼうっとしているから、我の出番がなくなるのだ」
「ここは国学で、そんな機会なんか――」
「ある!」
セシルが目を輝かせる。
「えっ、いつ?」
「ムーグリィの晩餐会だ」
「それって、話が続いているの?」
「もちろんだ。そこであのラムサスに、我の侍従としての格の違いを見せてやる!」
「厄日だ……、間違いなく厄日だ……」
ほの暗い何かを宿す暗紫色の瞳を眺めつつ、クエルは心の底からつぶやいた。
* * *
「以上が、アイリス王女からの要求事項です」
アイラはそう告げると、アルマイヤーの執務机に書類を置いた。
「ちなみに、北領公代理グラハム卿からも、晩餐会の正式な開催依頼が届いています」
アルマイヤーは二つの書類を両手に持つと、小さく肩をすくめた。
「グラハム卿からの依頼は、人形省を経由しているので、拒否するのは困難ですが、前者の料理対決など論外です」
眉をひそめつつ、アイラがアルマイヤーの執務机を叩く。
「非公式とはいえ、アイリス王女からの要請だぞ。それを拒否する度胸は俺にはないな」
「枢密院のつるし上げさえ、馬耳東風で聞き流していたくせに、どの口が言っているんです」
そう告げてから、アイラがしまったと言う顔をする。どうやらいつもの癖で、心の声が漏れてしまったらしい。しかしアルマイヤーはそれを気にすることなく、二つの書類に署名をした。
「お認めになるのですか?」
「王族や枢密院の連中が、ここに愛人をあさりに来る牽制になる。流石に北領公主催の、しかも王女が参加する場で、無茶な真似はできんだろう。俺がたたき出してやる手間が減る」
「分かりました。では事務方へ話を通します」
アイラはそう告げると、書類の写しを受け取った。敬礼してアルマイヤーの執務室を出る。
「これは例の可及的速やかな件よね……」
そう不満げにつぶやくと、事務棟とは反対の個室宿舎へ向かって、足早に歩き始めた。