勘違い
「ムーグリィ!」「ムーグリィさん!」
クエルとフリーダの口から同時に声が上がった。女子の更衣室から、真っ白な水着に着替えたムーグリィが、こちらに手を振っている。その水着はというと、胸元と下半身が別々に分かれていて、ほとんど裸としか思えない。
「その水着――」
フリーダの問いかけに、ムーグリィはさらに胸を突き出して見せる。
「これは北領式の水着なのです。北領は夏が短いので、なるべく裸で日差しを一杯受けるのです」
その凶悪な存在感にクエルは戸惑った。それに気づいたフリーダがクエルをにらみつける。
「何をガン見しているの!」
クエルは慌てて視線を外した。だが執事姿で微動だにしないラムサスを除けば、全員が水着姿の女子だ。どこに目を向けていいのか分からない。
「旦那様から水練をしていると聞いたのです。どうしてお茶を飲んでいるのですか?」
ムーグリィはパラソルの下に座るクエルたちを見ると、首をひねった。
「ちょうど天気もいいですし、私が事務方にお願いして、お茶会をさせていただくことにしました。北領公もぜひ一緒にいかがですか?」
「ムーグリィは北領公という名前ではないのです!」
「これは大変失礼いたしました。ではムーグリィさん、こちらへお座りください」
いつの間にか椅子を用意したラムサスが、ムーグリィに椅子を引く。そしてムーグリィが席に着くと、やはりいつの間に用意したのか、白磁のティーカップへポットからお茶を注いだ。再び爽やかな柑橘系の香りが辺りに広がる。
「ムーグリィさん、お菓子を焼いてみました。いかがですか?」
それを聞いたムーグリィが、ラムサスが皿に置いたマドレーヌを一口で頬張る。
「これは、とってもおいしいのです!」
ムーグリィはいかにも嬉しそうな顔をした。
「アイリスは寝ている間に、料理がとっても上手になったのですね!」
「さあどうでしょう?」
アイリスが小さく首を傾げて見せる。
「でもお口に合ってよかったです」
「フリーダもとっても料理が得意なのです」
「えっ!」
その発言にクエルは驚いた。少なくとも今まで、フリーダが自分に差し出した食べ物で、まともに食べられたものなどない。クエルにとってそれは食べ物ではなく、警戒すべき別の何かだ。
「そうなのですか?」
アイリスの問いかけに、ムーグリィが頷く。
「フリーダのお母さんが作ってくれた、クッキーとサンドイッチを頂いたのです。とってもおいしかったのです。なのでフリーダもきっと上手なのです」
「え――っ!」
クエルの口から悲鳴が漏れた。セシルでさえも驚いた顔をして、ムーグリィを見つめている。
「是非にフリーダさんの手料理を頂いてみたいです」
アイリスの発言にクエルは焦った。間違いなく壮大な勘違いが起きている。フリーダはと言うと、事態を全く理解できていないのか、きょとんという顔をしていた。
「あ、あの、それはちょっと――」
クエルがいかに直接的な表現を避けつつ、どう言えばそれを避けられるか悩んでいると、ムーグリィが顔の前でパンと手を叩いた。
「いい事を思いついたのです。今度の見学会で、グラハムから何かしろと言われていたのです」
「見学会?」
それを聞いたアイリスが、ラムサスの方を振り向く。
「国家人形師養成学校見学会でございます。学校を支援する有力者の皆様に、学生たちが感謝を込めて、色々と催し物をする場になります」
「そこで、アイリスとフリーダの二人に料理を作ってもらって、みんなに食べてもらうことにするのです」
「それはムーグリィさんが、晩餐会を主催されると言う事でしょうか?」
アイリスの問いかけに、ムーグリィは頷いた。
「そうなのです。晩餐会をするのです!」
「ムーグリィさん、ちょっと待ってください!」
フリーダが椅子から立ち上がった。流石のフリーダも、おえらいさん相手に晩餐会の料理を作るのは無理だと思ったらしい。クエルがほっと息をついた時だ。
「分かりました」
フリーダが言葉を続けるより先に、凛とした声が響いた。
「まだ料理を始めたばかりの初心者ですが、ムーグリィさんの顔をつぶさぬよう、がんばります。フリーダさんも一緒に頑張りましょう」
アイリスはフリーダに微笑んだが、その瞳は王族らしい有無を言わさぬ威厳に満ちている。
「フリーダの料理は絶対に美味しいから、何の心配もいらないのです」
「えっ、そう思います!」
ムーグリィのセリフに、フリーダはまんざらでもない顔をした。
「それよりも、今日はとっても暑いのです。一緒に泳ぐのです!」
そう声を上げると、ムーグリィはフリーダの手を掴んだ。そのままプールに向かって、あっという間にフリーダの体を引きずっていく。そのままフリーダと一緒にプールへ飛び込んだ。盛大な水しぶきが上がる。
『まずい!』
クエルは椅子を蹴って立ち上がった。そのままプールへ飛び込む。すぐにフリーダがプールの底へと沈んでいくのが見えた。その口からは盛大に息が漏れ、それが白い泡となって昇っていく。
『フリーダ……』
クエルはフリーダの体を抱きしめた。だがパニックになっているのか、目をつむって暴れるだけだ。クエルはフリーダの唇へ自分の唇を重ねると、そこへ自分の息の全てを吹き込んだ。
アイリスはクエルがフリーダをプールの縁へ担ぎあげるのを、興味なさげに眺める。
「やっぱり手強いわね」
アイリスのつぶやきに、ラムサスが耳元へ口を寄せた。
「問題があるようでしたら、私の方で物理的に排除いたします」
それを聞いたアイリスが、ラムサスへ呆れた顔をする。
「何を言っているの。私が手強いと言ったのは彼のことよ。死にかけの体じゃなくなっても、世の中思い通りにならないことはたくさんあるのね」
そう告げると、アイリスは組んだ手に顎を乗せた姿勢で、プールから上がってくるクエルをじっと見つめた。