8 魔杖
『魔杖』とは、人々が『魔術』を行使する際に必要不可欠となる神の力を宿した杖の事だ。
かつて杖を用いて魔法という力を自在に行使したという魔女に倣い、便宜上、杖とされているが、魔杖に決まった形は存在せず、担い手に最も相応しい形状へと変化する。
その元となるのは、未だ大陸東部中央に存在する『神魔樹』に実る果実――『ニアの瞳』、その種子だ。
ニアの瞳を食した者がその種子を植え魔力を注ぐと、一日から数日程で成長し、魔杖となるのである。何故そのような現象が起こるのかは解明されていないが、一説では、今やかつてと比べその殆どの力を失ったニアは、人々に残った力を分け与える事で、魔杖を通し未だ世界を見守っていると信じられている。故に、その果実はニアの瞳と呼ばれていた。
あまり数の採れないニアの瞳は貴重であり、『黒祓い』になる資格のある者だけが、その神の果実を与えられる。つまるところ、魔杖とは黒祓いの証でもあるのだ。
魔杖がなければ人々は魔術を行使する事ができない。それは誰であろうが覆す事のできない世界の理だ。
人は自身の体内で魔力を操る事ができても、何も介さずそれを放出する事はできない。触れたものに魔力を注ぐ事は可能であるが、一部の者を除きそれで超常的な力を発揮することは不可能である。
しかし、魔杖は違う。所持者の魔力に感応し、その力を何倍にも高め、人の身だけでは成し得ない奇跡のような術を行使する為の鍵となるのだ。
それはまさに、魔力を持ちながらも魔法を扱えない非力な人類に与えられた、神からの贈り物だった。
黒祓いにとっては自身の命と同等の価値とも言えるものであり、常に肌見離さず持ち歩き、紛失または破損するなど、言語道断である。
魔杖を失う事は最も愚かな行いと言われ、それ即ち黒祓いとしての失格を意味していた。
◆
「ふ、ふふ……へへ……初任務で……それも内容は簡単な調査だったにも関わらず……魔杖をなくすバカなんて居ませんよ……あ、居ましたねここに。私ですね……へへ……居るところには居るものですね……そんな信じられない大バカが……いえ、バカという言葉では到底足りないですねこれは……なんと言うんでしょうか……ゴミ以下の人間に相応しい言葉はなんでしょう……あ、いえいえこれではゴミさんに失礼ですね……ゴミさんは仕方なく出てそこにあるだけで、それ以上誰かを失望させたりはしませんから……それにゴミさんは何かが必要とされ消費された結果生まれる尊い存在なわけで、私なんかと比べられるなんて心外にも程があるでしょうね……やはり相応しい言葉なんてありません……そもそも相応しい言葉があると思うその考え自体がおこがましいですよ……しかし、いよいよそんな私すら見捨てなかったマスターロエリスの顔にも泥を塗る事になってしまいました……こんな教え子を持っていたなんて汚点にしかなりません……へへ……ごめんなさい……へへ、へ……どうするんですかこれ……どうするんですか本当に……任せてくださいなんて言っておいてこれですよ……もう本当に消えた方がいいんじゃないですかね……私とはなんなんでしょう……ねえ、私ってなんなんですかね……あなたはどう思いますか?」
「シフィア、それ壁だよ」
ぶつぶつぶつぶつと、虚ろな瞳で膝を抱えて岩壁に向かって呟き続けていたシフィアに、流石にシエルが声をかけた。肩に置かれた手にゆっくりと視線を向けたシフィアは、再び非常に緩慢な動作で壁へと向き直る。
「……ふふ……やはり何も言ってくれませんね」
「壁だからね」
「そりゃそうですよね……私如きにかける言葉なんかあるはずがないですし……すみませんでした……」
「シフィア、シフィア、おーい」
半笑いのような表情で壁との会話を再開し始めたシフィアを、シエルが強引に振り向かせた。
「シフィア、壁だよそれ。壁なんだそれは」
そして、シフィアの頬を軽くペチペチと叩きながら彼女に言い聞かせる。しばしの間、何の反応も示さず彼に頬を叩かれながら死んだ目で虚空を見つめていたシフィアの瞳に、やがて徐々に徐々に光が戻り始めた。
「……シエル?」
「うん」
相変わらずペチペチと頬を叩かれながら、ようやく視点を彼に合わせたシフィアは、ぽつりとそう声を漏らす。どうやらあまりのショックで意識が飛んでいたらしい。未だぼんやりとする頭で、シフィアは訊ねた。
「私は、何を……?」
「壁と友達になってた」
「そうですか……壁と……壁?」
シフィアは一度振り返り、すぐ側の岩壁を確認して眉間を指で揉む。
いくら気が動転したからといっても、それはないでしょう……。
自分の行動にもはや激しい頭痛すら覚えてきたシフィアは、のろのろと壁際に置かれていた荷物の中からキャンディを取り出し、咥える。そして、再び膝を抱えて座り直した。
口内に広がる甘さが、これ以上ない程に落ち込んだシフィアの精神を少しだけ安定させてくれる。
「すみませんシエル……期待させておいて……」
小さな声で謝罪するシフィアの前に、シエルは困った様な表情でかがみ込んだ。
「まあ、まだ見つかる可能性はあるよ。僕は近くに落ちてた物を拾ってきただけだし、急いでたから見落としもあったかも。シフィアの引っかかってた付近を探せば、案外直ぐに見つかるかもしれない」
その励ますような言葉に、はっとシフィアは顔を上げる。シエルの言う通りだ。何故そんな単純な事にすら直ぐに頭が回らなかったのか。本当に自分は愚か者だと思いながらも、まだ希望は残されている事に心が僅かに軽くなる。
「そ、そうですね! では直ぐに探しに行きましょう! 近くにあれば、持ち主にはわかりますから! 案内を頼めますか!?」
「ああうん、それはもちろんだけど」
ずいと身を乗り出し訊ねるシフィアに、シエルは再び困った様な表情で頬をかく。
「もう夜だから、明日にしたほうがいいかな。大切な物を今すぐ探しに行きたい気持ちはわかるけど、夜は黒獣も他の生き物も活発になるから危ないんだ」
「ですが……」
「やめた方がいい」
それでも食い下がろうとしたが、真剣な眼差しでピシャリとそう言われ、シフィアは少し冷静になる。シエルがこれほどの顔をするという事は、夜の森は余程危険なのだろう。あの『核』の放っていた空気を思い出したシフィアは、逸る気持ちをぐっと堪え、眉尻を下げてその場に座り直す。
そんな彼女の肩に、ふっと表情を緩めたシエルがそっと手を置いた。
「大丈夫、きっと見つかるよ。僕もできる範囲で手伝うからさ」
「……はい、ありがとうございます」
情けない。
結局シエルに頼るしかない自分に、シフィアは心底から嫌気が差した。口内の飴をカリと軽く噛み砕く。そして表面が少し欠けた飴をコロコロと口内で転がした。
今はとにかく落ち着いて身体を休め、気持ちを切り替えるべきだろう。
「……もしも」
「ん?」
「魔杖が見つからなかった場合は、他の脱出方法も考えなければなりませんね」
シフィアは努めて冷静になるよう心がけ、言いようのない不安を押し殺し、そう呟いた。想像したくもない事態だが、考えておかなければならないだろう。そうなった時でもいいかもしれないが、どうせこのまま眠れそうにはなかった。
考え事をしている間は、少なくとも不安と恐怖は忘れられる。
だから、シフィアは無理矢理な笑みをシエルに向けた。今は少しでも会話をして、気を紛らわせたかった。
「そうだね」
察しているのかいないのかはわからないが、シエルはそう言って頷くと、思案するように顎に手を当てる。変わらない彼の態度が今のシフィアには有り難かった。
「でも、シフィアが帰らなかったら他に助けが……ああ、そうか」
「はい……私を捜索する為に他の黒祓いが送られてくる事はまずないと思います。というよりも、とっくに死亡したと報告されている事でしょう」
頭の回転が早いシエルは、黒の魔力持ちの扱いから何も言わずともそこに辿り着いたようだった。だが、自身の気を引き締め直すためにも、あえてシフィアは自身の価値の低さと状況を口に出して説明する。
そう、十中八九助けは来ない。
おそらくは既に死亡報告書が書かれている事だろう。『中央』にそれが届くまでに時間はかかるだろうが、どちらにしろシフィアはもう死んだものとして扱われている筈だ。
わざわざ黒の魔力持ちの為に、未開の『黒死の森』へ捜索隊は派遣されない。それは例えシフィアがレイミリルであってもだ。
つまり助けは期待できない。
この森を脱出するには、シエルとシフィアの二人でどうにかするしかなかった。
「となると……難しいな。僕も実はこの森での行動範囲は広くないんだ」
それはそうだろう。
もしもシエルがこの森を知り尽くし、自在に動き回れていたのならば、いくらでも自力で脱出できた筈だ。
この地点からは、魔色壁もほぼ真逆に位置している。辿り着くには黒死の森を横断しなければならず、おそらく、というよりも間違いなくシエルはその存在すら知らない。
「多分、僕はまだ森のほんの入り口程度をうろつくくらいしかできてない」
「……ここから、真逆の位置に魔色壁という、この森を食い止める為の巨大な壁が存在するのですが、なんとかそこに辿り着けないでしょうか? そこまで行けば、常駐している見張りの黒祓いに助けを求める事も……」
いや、助けを求めたところで難しいかもしれませんね。
少なくとも付近に黒獣が居れば、彼らは私達の為にわざわざ森の方へ降りては来ないでしょう。
だとすれば、完全に安全な状態で――つまり最低でも黒獣に一切追われていない状態で、魔色壁まで辿り着かなければならない。
最悪、というより自力であの高い壁を登る事を考えた方がまだいいだろう。
シフィアがその難易度と過酷さに眉を歪めると、シエルも眉根を寄せた。
「真逆か……厳しいね。森の奥に入ったらここにも戻って来られないだろうし、そもそも生き残れる気がしない」
「奥地が危険ならば、海沿いに森の外周を辿って行くというのはどうでしょうか? 距離的には長くはなりますが」
まあ、できるのならばシエルはとっくにやっていただろうが。
そう思いながらも、シフィアは難しそうに唸っている彼に一応確認する。
「どちらにしろきつい、かな。そもそもあまり長い間森の中に居ること自体が危ないんだ。黒獣に囲まれれば終わりだし、対処するにしても派手に魔力を使うとあいつが寄ってくるから」
「ですよね……」
想像して、シフィアは思わず小さく身震いした。当然森の中には核以外の黒獣も蔓延っている。それだけで厄介であるにも関わらず、黒死の森の核は魔力を感知すればそこにやって来るのだ。つまり、この森を横断するには、実質的に常にアレに追われなければならない。
現実的に考えて、そんな中で生き延びるのは不可能だ。
「いっその事、イカダなどで海に出るというのは……」
まあそれも、とっくにシエルは試しているだろうが。
そう思いながら、念の為シフィアは彼に訊ねる。
「シフィアって水中で戦えたりする?」
「いえ……」
なんとも軽い調子で問われ、シフィアは首を横に振った。そもそもシフィアは地上で魔術が使えても、戦闘面には自信がない。
「だよね……ならやめた方がいいかな」
シエルは深く頷いてそう言った。
つまり、あの周囲の黒い海の中にも何かが潜んでいるという事だろう。シフィアはもう一度身震いする。
しかし、やはり黒化領域自体が広がる事がないというのは何故なのだろうか。
当然ながら海には魔色壁は存在しない。
食い止めるものは何もないのだ。にも関わらず、黒死の森は海の方に広がっていく動きすら見せない。だからこそ半ば放棄されていると言ってもいいが、その理由は不明だった。
やはり、この地に何かあるのでしょうか……?
思えば核の異常な程の魔力感知能力も、何かを探し出す為のものなのかもしれない。それにどちらかといえば、海といい、ここは中のものを逃さないよう特化しているとも思える。
シフィアは長らく情報のなかった黒死の森の特性が、少しだけ明らかとなった気がした。
そして同時に、目の前で頭を悩ませている様子の青年に、改めて視線を向ける。
まさか……シエルを……?
「ん? どうかした?」
「い、いえ……」
彼と目が合い、シフィアは頭を横に振った後唇に手を当てる。
いくらなんでもそれは考え過ぎだろう。これまで核が何かに固執したなど聞いたことがない。それに、シエルは偶然この場所に取り残されただけだ。この地の黒化と共に死んでいた可能性の方が高かった。
いえ……彼が生き残っていたからこそ、核もここに留まった……?
だとしたら、この地の核はもしかすると――
「……?」
最悪の想像が頭をよぎり、愕然と顔を上げたシフィアを、シエルは不思議そうに見ていた。
記憶を喪っても、忘れなかった約束。
ならば、その相手も相応に、彼を想っていても不思議ではない。
そして黒獣とは、濃縮した黒の魔力からの自然発生、または――人が完全に黒化した場合に生まれる存在だ。
「シフィア?」
「あ、は、はい」
呆然とシエルを見つめていたシフィアは、目の前で手を振られてはっと意識を戻した。
「本当に大丈夫?」
「はい……」
…………あり得ません。
シフィアはそう思い直しペシペシと自身の頬を叩く。
今日は嫌な想像ばかりしてしまう。
第一、『黒の民』であったのならば、黒化には強い耐性を持っていた筈だ。黒の魔力持ちが黒獣化したなどそれこそ聞いたことがないし、黒獣化してしまえば、それはもうかつての人間とはまるっきり別の存在だ。
人を襲いただ黒の魔力で周囲を染め上げていくだけの、災害でしかない。
たった一人の人間に固執するなどあり得ないのだ。
シフィアの想像などあまりにも荒唐無稽で、誰が聞いても一笑に伏す程度の馬鹿馬鹿しいものだった。
ただの考え過ぎですよね……。
やはり激動の一日を過ごしたせいで、少し疲れているのだろう。だからあまりにも馬鹿げた推測などしてしまうのだ。とはいえ、まだ眠る気にはなれないが。
そう結論し、シフィアは一つ息を吐いてシエルに向き直る。
「すみません、何でもありませんから話し合いを続けましょう」
「……? まあ、シフィアがそう言うなら」
シエルは怪訝そうにしていたが、シフィアが軽く微笑むと頷いて、それ以上追求しようとはしなかった。
「とはいえ……直ぐにいい案は出てきそうにありませんね」
「うーん、まあ二人ならなんとかなるよ。そんな気がする」
魔杖がなければ自分など、足手まといにしかならないと思うが。
シフィアはそう考えながらも、気楽な様子の彼にほんの少し心が軽くなる。
そのまま二人でしばしの間頭を悩ませていると、ふとシエルがシフィアをじっと見つめながら言った。
「そういえば、それって美味しいの?」
「え? ああ……」
正確には、彼はシフィアの咥えているキャンディを見ていたようだ。ずっと気になってはいたのだろう。シフィアは少し躊躇い、口からキャンディを取り出す。あまり行儀の良い行動とは言えないが。
「飴は初めて見ますよね」
少し欠けて小さくなっているキャンディを彼に見せながらシフィアが訊ねると、シエルは何か思い出しているかのように顎に手を当てた。
そのまま、まじまじと唾液の付着したキャンディを眺められ、シフィアは少々の気恥ずかしさを覚える。
「……いや、最初の内はここにあった食料とか、街の跡に落ちてた物を拾って食べてたから……昔食べた事があった気がするな……ただ味はどんなのか覚えてない」
なるほど、当時はこの地下室にもある程度備蓄はあったらしい。とはいえ、それは直ぐに無くなってしまっただろう。外に落ちている物は尚の事だ。
シフィアは自身の荷物を一瞥し、悩む。
まだ数はあるし、明らかに興味津々なシエルに分けてあげたいところだが、今後の事を考えるとそういう訳にもいかなかった。
キャンディが全て無くなれば、シフィアは本当に彼の足を引っ張るだけの存在となってしまう。
悩みに悩み、シフィアはじっとキャンディを見つめているシエルに、おずおずとそのまま舐めかけのものを差し出した。
今はもう落ち着いているし、これ以上は自分には必要ないだろう。とはいえ、こんなものを差し出すのもどうなのか。
そう思いながらも、シフィアはチラチラと彼の様子を窺いつつ、ぽつりと言った。
「…………こ、これでよければ、食べてみますか……?」
シエルが目を丸くする。
「え! いいの!」
「い、嫌ですよね! 汚いですよね! すみませ――え?」
自分は何を言っているのか。
シフィアは慌ててキャンディを引っ込めようとしたが、それよりも早くシエルは既にそれを受け取っていた。
今度はシフィアが目を丸くし、シエルは喜々とした様子でキャンディを何の躊躇いもなく口に入れる。
「あ」
ぽつりとシフィアの口からそんな声が漏れる中、次の瞬間には彼はかっと目を見開いた。
「甘い!」
「…………」
ただの味の感想でしかないのだが、シフィアは妙に気恥ずかしくなり、顔が熱くなる。
「これ凄く甘いよシフィア!」
「……そうですか」
「何ていうか……これは溶ける」
「…………飴ですからね、舐めたら溶けますよ」
「そうじゃなくて、身体が溶けるみたいな美味しさなんだ」
「………………そうですか」
「ずっと舐めてられそうだ」
「……………………」
わざとやっているわけではない。
よくよく考えてみれば、この過酷な森で生きてきたシエルが、誰かの食べかけ程度の事を気にするはずが無い。
彼は純粋にキャンディの味に感動しているだけだ。
しかし、そう思ってもシフィアの顔はどんどん赤く染まっていった。シエルはそれに気づく様子もなく、瞳をきらきらと輝かせている。
「最高だよシフィア!」
「……それは、何よりです……」
はしゃぐシエルがキャンディを舐め終わるまで、シフィアは真っ赤な顔を俯かせている事しかできなかった。