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6 至純の魔


 死にたい……。


 一瞬そんな事を考えてしまったシフィアは、ぶんぶんと頭を振る。


 いえ、良い方に考えましょう。


 せっかく救ってもらった命だというのに、そんな事など考えるものではない。


 もう、これ以上の恥はないでしょう。


 見方を変えて無理やり前向きとなったシフィアは、大きなツボに貯められている水に、ボロ布の切れ端を浸した。そして持ち上げ、一瞬眉をひそめる。布は真っ黒に染まっていたからだ。ポタポタと滴る黒い水。本来ならば浄化するべきだが、シフィアは小さく息を吐いて布を絞った。

 今は安全だとは思うが、念には念をだ。シフィアにとっては害にならないものであるし、どちらにせよ乾けば色は消える。


 シフィアはそう思いながら粗相により汚れてしまった自身の身体を、濡れた布で丁寧に拭っていった。黒い水によりやや肌も汚れたように見えるが、本当に汚れているわけではない。むしろ綺麗になっているはずだ。

 最後にシフィアは乾いたぼろ布の切れ端で水気を拭い、とりあえずサイズの合った比較的まともなデザインの下着を穿く。誰の物であったのかもわからない、やや派手なそれに抵抗はあるが、この際致し方ない。そして、これまた適当な古いズボンを身に着けると、ツボの中の水をこれも欠けの目立つ深い陶器の器に小分けにした。


 ブーツまで浸水していないのは幸いであったが、ショートパンツもタイツも下着もだめだ。

 シフィアは腕まくりすると、無言でそれらを小分けにした水でジャブジャブと洗い始めた。


 水が汚れれば、目の前の扉を開いて穴が空いているだけのトイレにそれを捨て、同じ事を何度か繰り返す。


「ふ、ふふ……」


 遠い目をしたシフィアの口から、妙な笑いが漏れる。もう笑うしかなかった。


 なんて、惨めなんでしょう……。


 初めて黒化領域に踏み込んだ者がこうなってしまうのは珍しくない事だとは知っている。しかし、日に二度もやらかす者は居ないだろう。それも、まだ直接『黒獣』と対峙したわけでもないのにだ。


「ふへ、へへ……」


 シフィアは勝手に漏れ出る妙な笑みを浮かべたまま、洗い終えた衣服を振って水気を切った。パン、というシフィアの心情とは対照的な小気味の良い音が響くのがまた虚しかった。


「へへ……はぁ……」


 盛大にため息を吐き、シフィアは最後の水を捨て、重ねて置いていたボロボロの衝立を退かす。


「……お待たせしました」


 そして、焚き火の側に腰を下ろし待っていたシエルへと、洗った衣服を持って死んだ目で歩み寄る。


「洗ったやつはここに干しとくといいよ」


「……何から何までご親切に……へへ……」


 シフィアが色々と処理を済ませていた間に、シエルは朽ちたベッドの材木などを使い、簡易的な物干しを焚き火の側に組み立てたらしい。シフィアは相変わらず妙な笑みを浮かべ、そこにショートパンツとタイツをかけさせてもらった。シエルは何も思っていないだろうが、下着は一応ショートパンツの下にはさみ見えないようにした。


「大丈夫?」


「大丈夫です、へへ……」


 手をパンパンと払ったシフィアは、流石に様子がおかしいと感じたのか首を傾げるシエルに答え、彼の隣に空虚な笑みを浮かべたまま腰を下ろし膝を抱えて座る。


「そっかじゃあ改めて、はい」


「ありがとうございます……へへ……」


 シエルから真っ黒なお茶の入ったカップを渡され、シフィアはお礼を言ってから一口飲む。

 心に染みた。


「あれ、そのままでいいの?」


「ああ……別に私もシエルと同じで黒の魔力を持ってますから、大丈夫なんです。やったほうが良いのは間違いないんですけどね……」


 教えたばかりの浄化を施さなかったのが不思議だったのか、シエルは再度首を傾げた。シフィアはカップを膝の上に置くようにして、その中身の黒いお茶に視線を落とす。


「黒の魔力持ちは、『黒化』に対して非常に強い耐性があります。ですから、長時間黒化領域での活動が可能ですし、黒の魔力を摂取しようが余程でもない限りは問題ありません」


「なるほど……僕がここで生きられたのもそういうことか」


「はい、他の魔力であれば黒化に耐えられたかはわかりません。もっとも、シエルの場合はあなた自身の強さがあったからこそ、でしょうけど」


「黒の魔力でも、浄化はできるの?」


「可能です。それこそが、黒の魔女の魔力と人の持つ黒の魔力が別物だという証でしょう。黒獣などとは違い、人の持つ黒の魔力は他者を黒化させることもありません」


「じゃあ……黒の魔力って『黒祓い(カラーズ)』の中ではもしかして優秀だったりする?」


「……はい、扱う事さえできれば、黒化に耐性があるため、黒祓いには向いている、と言えるでしょう」


 そこで、シエルは「ふむ」と呟くと前髪を一度指でつまみ、自身も古びたカップを口に運んだ。


「でも、嫌われてるわけか」


 その言葉に、シフィアは僅かに眉を歪める。


「……嫌われている、程度ならばまだマシでしょうね。今の世では、黒の魔力持ちは人としてすら見られませんから」


「……そこが、ちょっとわからないんだよね」


 シエルはカップを置くと、そう言って顎に手を当てる。


「いや、さっきシフィアから聞いた話から考えても、まあ黒の魔力持ちが迫害される理由はわかるんだ。黒の魔女は随分な事をやらかしたみたいだから。でも、僕ら――いわゆる『黒の民(ノワール)』との関係は、改善しつつあったんじゃないの? そういう事が書かれた、多分新聞やらビラ? が、結構街の跡には落ちてたんだけど」


「……そうですね。黒の民は長い間この東の地に隔離されていましたが、その魔力が危険ではなく有用である事が判明し、また穏やかな気質の者が多かった事もあり、世界に受け入れられつつありました。……シエルが拾って読んだそれらは、大々的に行われる筈だった、黒の民と他の民を繋ぐ大きな式典の開催を告げる物などではなかったですか?」


 憂いを帯びた瞳を湯気を立てるカップに向けたまま、シフィアがそう訊ねると、シエルは指を鳴らす。


「そうそれ! そんな感じの事が書いてあった。いやーだから、てっきりわだかまりはなくなってたのかなと思ってたんだけど……シフィアの話を聞く限り、むしろ酷くなってない?」


「……十年前の、大災害が原因です」


「え、それって黒の民のせいなの?」


「いえ、黒の民が何かをしたわけではないでしょう。……その証拠に、あの大災害で一番の被害を被ったのが黒の民ですし」


「だったら何で? 僕は詳しい規模はわからないけど、世界中が混乱する程の黒化が起こったわけだよね?」


「……はい、ある日何の前触れもなく、再び世界中が黒の魔力に呑まれました。今ではこの大災害は『黒魔の再誕』と呼ばれています。本当に黒の魔女が復活したのかは未だ不明ですが……双子大陸も東部の大部分が突如黒の魔力に満ち、西部に至っては全域が黒化したと言われています。現在も西大陸への立ち入りはできず、東大陸との境は黒祓いの最前線となっています。その他の大陸や島々も、調査の結果では完全に黒の魔力に呑まれた可能性が高いです。難を逃れた地もあるかもしれませんが……どちらにせよ、現状ではこの双子大陸への対処だけで手一杯な状況です」


「だとしたら……なおさら黒の魔力持ちは必要とされると思うけど……」


 心底不思議そうに、シエルは顎に手を当てたまま首を傾げた。

 そんな彼を見て、ふっと儚げな笑みをシフィアは浮かべる。シエルは頭が悪いわけではない。むしろこれまでの話から、正確に状況を把握し、世界の現状を理解しつつある。やはり地頭は良いのだろう。


 しかし、人との関わりがなかった彼は思い至れないのだ。


 人の心というものは、決してそれ程単純なものなどではないという事に。


 確かに、こんな状況ならば黒の魔力持ちは重宝されるべきだ。合理的に考えれば、黒の魔女の魔力に最も強い耐性を持つ者たちを、迫害するなどあり得ない。

 だが、人の感情とはいかんともし難い。


 頭では多くの者が理解はしているだろう。

 悪いのは黒の魔女であり、黒の魔力を持つ者ではないという事を。

 しかし理不尽に様々なものを奪われた者たちの憎悪は、その矛先は、黒の魔力持ちに向けられた。


 必要だったのだ、世界中の憎しみを向けられる存在が。満ちに満ちた黒の魔女の魔力には、力ない者の怒りや悲しみや嘆きはぶつけられない。ぶつけたとしても、理解も及ばず心があるのかもわからないそれらの反応では、復讐心は満たせない。心は救われない。

 だから、そこに膨らんだ憎しみが向けられるのは必然だった。


 理解でき、感情を持ち、憎悪をぶつければ泣いたり苦しんだりする――同じ人間に。


 誰のせいでもないこの大災害を、誰かのせいにする必要があった。そうしなければ、人の心は不条理に折れてしまうから。


 だから……私たちを虐げる人たちも、悪ではないんです。


 仕方のない事。

 誰も悪くはない。

 シフィアはそう思いながら口を開く。


「……シエルにも、その内理解できてくると思います。人とは、それ程強いものではありません。だから頭ではわかっていても、わかりやすく心の鬱憤をぶつける相手を欲するんです。でもそれは、決して責められない事なんですよ」


「…………よくわからないけど、その相手が僕たちだったってわけか。うん、まあ別物とはいえ同じ黒の魔力だしなぁ……」


 シエルは一頻り首を傾げた後、うんうんと頷いた。なんとなくは伝わったのだろう。全く落ち込んだ様子がないのが、シフィアにとってはせめてもの救いであった。


「シフィアが僕に一番知って欲しかったのはそこかな?」


「……やはり、シエルは賢いですね」


 直ぐにそう訊ねられ、シフィアはふっと彼に微笑んだ。


「この森から出る前に、今の世界が黒の魔力持ちにとってどれだけ生き辛いものかは、知っておかなければよりショックを受けますからね」


「なるほど、これが人生は甘くないってやつか」


「いえ、まあ……まあ……はい」


 本当に大丈夫だろうか。

 指を鳴らしてそう言ったシエルを見て、シフィアは少し不安になる。


「特にあなたは、【漆黒(シュバルツ)】ですから、外に出れば私よりも余程大変かもしれません」


「漆黒?」


「やはり、知りませんか?」


 シエルの集めた本の中にはそれぞれの魔力について書かれた物もあったが、ページの大半はボロボロだった。

 それに彼の様子を見ていても、黒の魔力持ちの中でも特別だという自覚があるとは思えない。


 シフィアは自身の髪を指でつまんだ。


「私の髪を見てください」


「綺麗だ」


「それはどうでもいいです」


 そう言いながらも、シフィアはやや頬を染める。


「誰でも魔力が容姿に表れるわけではありませんが、見てわかる通り私は白と黒、二種の魔力を有する【混色】です」


「二つも魔力を持ってるんだ。凄いね」


 感心した様に言われ、シフィアはやや目を伏せた。


「いえ……魔力を複数持っている者が優れている、というわけではありません。特に私のような混色は、それぞれの魔力を分けて扱えませんから、組み合わせ次第ではむしろ発揮できる力は弱くなります。……私の場合は白と黒、最悪ですね」


「そうなの?」


「はい、これは魔力の特性が関わってくるのですが……ひとまず置いておきましょう。私と比べてシエルは、非常に綺麗に黒の魔力が表出しています」


「シフィアも綺麗だけど」


「それは、どうでもいいです」


 くるくると、シフィアは指先で自身の髪を弄りながら説明を続ける。


「それは『至純の魔(トゥルーカラー)』と呼ばれる、より純度の高い魔力を宿した特異体質である者の特徴です」


「見た目だけでわかるものなの?」


「一目でわかる程に、鮮やかさが違いますから」


「でも僕はシフィアの方が綺麗だと思う」


「すぉ……それは、どうでもいいでふゅッ」


 噛んだ。

 シフィアは鋭く奔った舌の痛みに口元に手を当てた。

 どうにもシエルは調子を狂わせてくる。今までそんな事など言われたことはないシフィアは、羞恥と戸惑いと痛みに涙目になった。


「大丈夫?」


「……はい」


 そして、別に何も悪い事はしていないが、シエルにやや恨みがましい視線を向ける。と、不思議そうにしている彼の左手に、血が滲んでいるのが目に入った。

 先程の事を思い出し、シフィアははっと口元から手を離す。


「……シエルこそ、大丈夫ですか? その、手は……」


「ん? ああ」


 申し訳なさから目を伏せながらシフィアが問うと、彼は左手を顔の前に持ち上げる。


「これくらいならなんともない。それに僕は傷の治りは早いんだ」


 確かに笑みを浮かべたシエルの手は、血は滲んでいるが噛み傷は塞がりつつあるように見えた。強がりでもシフィアを安心させるための方便でもなく、本当に異常な程の早さだ。


 ……これも、漆黒故なのでしょうか……黒の魔力持ちは傷の治りが特別早いなど、聞いたことがありませんが……。


 それはまるで、黄の魔力持ちを彷彿とさせる程の治癒力だ。シフィアは驚くと共に少々の疑問を覚えながらも、今はそれよりもと彼に改めて頭を下げる。


「すみません。私のせいで」


「いいよいいよ、気にしないで」


「……ありがとうございます」


 頭を上げシフィアはふっと微笑むと小さく咳払いをする。舌はぴりぴりと痛むし申し訳なさも未だ感じるが、脱線してしまった説明を続けよう。シフィアはそう思いながら再び口を開いた。

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