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4 シエル


「……自分が、誰だかわからない……?」 


「うん」


 青年の髪に試行錯誤しながらハサミを通していたシフィアは、思わず手を止めてそう呟いた。


「僕は……多分、記憶喪失ってやつだね」


 顎に手を当てながら、シフィアの前に背を向けて腰を下ろしている青年は、なんでもない事かのようにそう言った。


「目が覚めたら瓦礫の下に倒れてて、その下にここに続く道があったんだ」


「……それで、とりあえず逃げ込んだんですね……」


「そうだね、でもいざ落ち着いてみると、自分が誰なのか、わからない事に気づいた」


 そこで青年は一度振り返り、まだ整えられていない前髪をかき上げる。初めて露になったその顔は、シフィアが想像していたよりもずっと優しげなものだった。整ったその面貌は、美男子と言っても過言ではないだろう。もし黒の魔力持ちでなければ、惹かれる女性も少なくはないと思える程だ。しかし、その綺麗な顔には額に抉れたような大きな傷痕があった。


「多分、これが原因」


 僅かに眉をひそめていたシフィアに、青年はにっと笑みを向け、前髪を下ろすと再び焚火の方を向く。


「何だっけ……その、えーと、にち、にち……」


 そして、顎に手を当てて何か思い出すかのようにぽつぽつと呟く。シフィアは止まっていた手を再び動かしながら、彼の言いたい事を察して訊ねた。


「……日常生活?」


「そう、それだ!」


 青年はスッキリしたような声を上げ、手をぽんと打つ。


「日常生活ってやつを送れる程度の記憶は、多分あったんだけど、名前も、歳も、それ以外は何も思い出せなかったんだ」


「そう、だったんですか」


 シフィアは青年の髪を切りながら、彼が想像していたよりもずっと過酷な状況に置かれていた事に胸を痛めた。本人はあまり気にはしていないようだが、周りから見れば悲惨としか言いようがない。自身が何者かもわからず、独りこの森に取り残されるなど、下手をすれば死ぬよりもずっと辛いだろう。それも、まだほんの子供の頃にだ。


 ちらりと、シフィアは地下室の隅に視線を向ける。そこには青年が集めてきたという本が積み上げられていた。どうやらあれでそれなりの知識は頭に入っているらしい。とはいえそれは幾分偏りのあるものだろう。シフィアも数冊めくってはみたが、絵本や娯楽小説も多かった。


 言語に関しても、最初は酷く辿々しかったのも納得だ。記憶がないというのであれば、彼にとってはシフィアが初めて会話した相手のようなものなのだから。不慣れという言葉では足りない。

 それでも、青年は学ぶ事も、生きる事も諦めずに、孤独にこの森で長年過ごしてきた。それは彼がいつの日か、『黒死の森』を抜け出す事を夢見て生活していた証だ。


 どうして……そこまでできたのでしょうか……。


 自分ならばそんな事はできなかっただろう。記憶もなく、この森で決して諦める事なく生き続ける事など。青年の異常とも言える強さが、シフィアには不思議であった。


「今も、結局何も思い出せてない」


「どうして……」


「ん?」


「あなたは、そんな状況でも生きようと思えたんですか?」


 シフィアが訊ねると、青年は少しだけ顔を上げる。


「一つだけ、憶えてる事があったんだ」


「え?」


「――大きくなったら、一緒に世界を旅しよう」


 そして、優しげな声でそう言った。


「誰に言われた言葉だったのかも、今ではわからないけど……手を引かれて、僕はきっとその子が大好きで、嬉しかった」


 自身の手を見つめながら、青年は満ち足りたような声で語る。


「僕にとって大切な人で、大切な思い出で、大切な約束だったんだと思う。その言葉だけは、ずっと頭の中に残ってて、だから、生きた」


 たった一つのその思い出だけを柱にして、青年は生きてきたのだという。一途な青年の強さに、しかしシフィアは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 青年が大切だという約束の人物は、既に亡くなっている可能性が高いからだ。黒死の森に巻き込まれたこの街の住人は、半数以上が死亡している。行方がわからなくなっている者も多く、この森に既に青年以外の生存者は居ないというのならば、死亡しているのだろう。


 今では『黒の民(ノワール)』は少数しか生存しておらず、その黒の民の集落にシフィアは立ち寄ってきたが、若者は殆ど居なかった。十年前の災害で殆どの子供が亡くなったからだ。当時は世界中が混乱の只中だったため、生存者など全員を正確に把握できているわけではないが、例え別の地に逃げ仰せていたのだとしても、今の世で黒の魔力持ちが生きていけたとは思えない。


 約束の言葉から考えても、その相手はおそらく青年と同年代の相手だったはずだ。

 だとしたら……彼の約束の相手はおそらくもうこの世には居ない。


 シフィアは自分でも気づかない内に、顔を悲しみに歪めていた。言いようないやるせなさが彼女の胸中には広がる。


「まあでも、多分もう会えないよね」


「……え」


「なんとなくわかってた。ここ以外も、大変な状況になってるんだろうなって事は」


 しかし、青年は明るい口調でそう言った。


「街は壊れてて、誰も居なくて、誰も助けには来ない」


 シフィアは唇を噛み締める。

 青年は決して馬鹿ではなかった。この森に取り残されながらも、状況を理解していたのだ。


「何が起こったのかはわからないけど、多分……沢山の人が死んで、それはここだけじゃなかったんじゃないかな、って。合ってる?」


「……はい。十年前の災害により、世界中が混乱に陥りました」


「やっぱりか……じゃあ……」


「この地に住んでいた人は……おそらくあなたと同じ年頃だった子供は……殆どが死亡、または生死不明となっています」


「十年、生死不明……か。つまり……」


 やはり、青年の頭の回転は早い。

 シフィアは拳を握り締めた。


「はい……おそらく……既に亡くなっている、可能性が高いです」


 青年はシフィアの言葉を聞くと、静かに息を吐き出す。


「そうか……やっぱりもう居ないのかな」


「…………」


 少しだけさみしげに呟いた青年の背中に、シフィアはかける言葉が見つからない。彼の心情は、シフィアには想像する事すらできなかった。


「うん、でもそれなら仕方ない」


「え……」


 しかし、青年一つ頷くと明るい声を発し、シフィアは瞳を瞬かせる。


「ずっと会ってみたかった。会えば、何か思い出すかもしれないとも思ってた。間違いなくその人との約束は生きる支えだった」


「…………」


「だから、会えなくても、僕はその人にずっと感謝し続けるよ。そうするべきなんだと、思う。僕に生きる理由を与えてくれて、ありがとうって。例えその人がもうこの世界に居なくても、僕の恩人である事は変わらない」


 青年が、今一体どんな表情を浮かべているのかシフィアにはわからない。けれど、彼にできるだけの事をしてあげたいと思った。


「……まだ、可能性が全くないとは言えません」


「ん?」


 それは無責任に無駄な期待を持たせるだけの言葉かもしれない。しかし、シフィアは自然とそう言っていた。


「ここを出て調べれば、その人は見つかるかも、しれません」


「……そっか」


「はい、ですから私を頼ってください。ここからあなたを連れ出して、必ず約束の人物を見つける手助けをします」


「ありがたいけど、いいのかな。僕は何もお礼なんてできない、けど」


 ふっと、シフィアは微笑んだ。


「いいんですよ。だってあなたは――私を救けてくれたじゃありませんか」


 そして、青年の髪を整えながらそう言うのだった。







「ほぅ……ふぅむ……」


 欠け汚れ曇り、辛うじてその機能を維持している姿見の前に立ち、髪を整えられまともな服を選んでもらった青年は、顎に手を当てながら自身の姿に感心したかの様な声を漏らす。


 しっかりと顔が見える程に黒髪が短く整えられた青年は、その容姿が元々整っているおかげでかなり小綺麗な印象を受ける。

 着ているのは比較的破れや解れなどの少なかったシャツにズボン、それに革製の上着だ。腰に巻いたベルトには、ナイフと元々青年の持ち物が詰まった小袋が下げられている。


 額の傷痕を隠すかシフィアは訊ねたが、青年は「別にいい」と答えたので前髪も綺麗に整えられていた。こうして見ると、かなりの好青年に見える。ただし、それは黒髪黒眼でなければの話だ。


 そう、青年は例えこの森を出られたとしても、決して安らかな日々は送れないだろう。その身に宿る魔力が黒である限りは、まともな人生は望めない。【漆黒(シュバルツ)】であるのならば尚の事だ。


 青年が森を出て、人としての扱いを受けられる唯一の道は、シフィアと同じ『黒祓い(カラーズ)』となる事だろう。黒祓いになれば最低限の身分は保証されるし、各地に赴く事もできる。とはいっても、それでもまともな扱いは受けないが。

 それに黒祓いは命の危険もある仕事だ。だがそうする以外に道がない以上、シフィアは青年を一度『中央(セントラル)』に連れて行くつもりだった。


 能力的には申し分ないだろう。

 むしろ、慢性的な人手不足である現状では、喉から手が出る程に欲しい人材のはずだ。それでも受け入れられるか不安は残るが……。


「これが、夢にまで見たお洒落、か」


「いえお洒落ではないです……」


 最低限の身だしなみを整えただけである。

 シフィアはキメ顔を向けてきた青年にそう答えた。髪も服も間に合わせもいいところだ。しかし青年はいたく気に入ったのか、上機嫌な様子で焚火の元へ歩いてくるとシフィアの隣に腰を下ろした。

 過酷な環境下を生き抜いてきたにしては、青年は相変わらずどこか能天気さを感じさせる。


「これで異性をキャーキャー叫ばせるんだね」


「お洒落にどんなイメージを抱いてたんですか。違いますから」


 しかしだからこそ、シフィアも肩の力を抜いて接する事ができるのだ。

 どこまで本気で言っているのかわからない青年に一つ息を吐き、シフィアは微かな笑みを向けた。


「では、次は私の事を話しますね。といっても、あまり話すことはありませんが……」


「いよ! 待ってました!」


「やり辛くなるのでやめてください」


 おっさんのように盛り上げてきた青年に、シフィアは薄目を向ける。そして、もう一度軽く息を吐き、改めて口を開いた。


「私は、黒祓いのシフィア・レイミリルと言います。今では黒死の森と呼ばれるこの森の調査のため、この地へ派遣されてきました」


「シフィア……シフィアか」


「はい、できれば名で呼んで頂けるとありがたいです。黒祓いはわかりますか?」


「あー……えっと『黒化』を止めてる人たち?」


「はい、その認識で概ね間違いありません」


「おお……凄い人だ」


「やめてください。尊敬の眼差しを向けないでください。簡単な調査の初任務でいきなりヘマした人間にその目は効きます」


 青年の純粋な瞳に耐えられなくなり、シフィアは気まずく顔を逸らした。自分など全く大した人間ではないのだ。間違いなくこの青年にも敵わない。そもそも彼は何故、自分が命を救わなければ死んでいた相手を尊敬できるのだろうか。青年に悪気はないのだろうが、非常に惨めで情けない気持ちになってくる。


 シフィアは気持ちを落ち着かせる為に一つ息を吐き、青年に向き直る。彼は不思議そうに首を傾げながらそんなシフィアを見ていた。


「とにかく、その様子ならあまり説明は必要なさそうですね」


「いや……」


 シフィアがそう言うと、青年は難しそうに眉を顰める。そして立ち上がると積み上げられている本を数冊抜き出して、それを持って焚火の元に戻ってきた。


「僕の知識は多分、かなり中途半端だと思う」


 そう言いながら、シフィアに青年は数冊の本を差し出す。それを受け取ってパラパラと捲ってみたシフィアは、なるほど、と合点がいった。


 青年がシフィアに渡した本は、黒の民の歴史や、黒祓いについて、また、この世界の歴史や魔力について書かれたものであった。

 しかし、本来ならば知識を得る為の充分な資料になりそうなそれらは、改めて捲ってみるとどれも破れや汚れなどで欠損が酷く、読み取れない部分がかなり多い。

 確かに、これでは青年の言う通り中途半端な知識にしかならないだろう。


 極めつけはこの世界の成り立ちを知る上の根幹となる、『双神』、それに『色彩の魔女』と『五柱の竜』について書かれた書物は、子供向けの絵本であった。

 これではなんとなくは理解できても、詳細を知る事は叶わなかったはずだ。


 ここまでのやり取りを鑑みても地頭の良い青年の事だ。ある程度の事情や情勢は察している事だろう。しかし改めてこの森から出る前に、彼は知っておく必要がある。


 この世界の事を。

 黒の魔力を持つ者が、世界中からどんな目で見られるかと言う事を。

 この森を出ても、決して過酷な人生からは逃れられないだろうという事を。


 シフィアは青年から渡された本を閉じ、脇に置いて彼に向き直った。


「では……簡潔に説明しておきます。今の世界がどうなっているのかを。どうして、そうなってしまったのかを」


「うん、頼むよシフィア」


 と、彼女に真剣な眼差しを向けた青年は、何か思いついたような表情を浮かべたあと、思案するかのように顎に手を当てる。


「どうかしましたか?」


「いや……うん」


 シフィアが訊ねると、青年は深々と頷いた。


「やっぱり、僕にも何か名前があったほうが、やりやすいと思うんだ」


「え? はい……まあそれは確かに」


 やや唐突ではあるが、シフィアもその方がやりやすいのは間違いない。どうするのかと首を傾げていると、青年はただ黙ってシフィアを見つめていた。


 何か期待するかのような瞳で。


「……え」


 青年の意図を察し、シフィアは思わず両手を顔の前で振る。


「わ、私につけろと言うんですか? そ、そんなのできませんよ流石に」


「なんで?」


「なんでって……」


「仮にでいいんだ。とりあえずの名前でいい」


「そ、そういう問題では……」


 しかし、困惑するシフィアから青年はじっと瞳を逸らさない。


「うぅ……」


 やがて根負けしたシフィアは、息を吐きながらがっくりと肩を落とした。


「……わかりました。でも、あくまでも仮名ですよ。一人の人間の名付けなんて責任は負えません。それに、あなたには元々の名前だってあるわけで――」


「流石シフィア!」


 食い気味にそう言ってパチンと指を鳴らした青年に、シフィアは再び息を吐き出しながら肩を落とす。


 私の何を知っていると言うんですか……。


 しかしそんな事をこの青年に言っても無駄だろう。そもそも、彼はそれでいいのだろうか。

 そんな事を考えながらシフィアは、半ば自棄になりながら非常にわくわくしている様子の青年に窺うように視線を向けた。


 綺麗ですね……。


 吸い込まれるような美しい黒。

 まるで透き通った夜空のようなその髪と、穢れなく輝く瞳。

 それは、どこか真冬の澄んだ星空を思わせた。


 ――シエル。


 次の瞬間には、自然とシフィアの中にそんな言葉が浮かぶ。

 しかし、それ程単純に決めてしまってもいいものなのだろうか。それに、何かシフィアは気恥ずかしさを覚えた。


「…………それでは、シエル、というのはどうでしょうか……」


 だから、青年から顔を逸らして、呟くようにもにょもにょとそう提案する。


 すると――


「何ですかその顔は、不満ですか不満なんですか。別に不満なら構いませんけど」


 青年は何とも微妙な表情をしていた。


「いや……響きが強そうじゃない」


「何ですか子供ですか注文が多いんですよ」


「シフィアとちょっと被ってる」


「全然被ってませんし意図したものじゃありません注文が多いんですよ」


 そう不満を漏らした青年に、思わずシフィアは頬を膨らませる。すると、今度こそ青年はいい笑顔を浮かべた。


「冗談」


「……んむ……」


 してやられた。

 シフィアはそう思い熱くなった顔を伏せる。

 もしかするとこの青年は、色々覚えてしまえばシフィアでは手に負えない程に、口達者になってしまうかもしれない。今の多少妙な所はあるが純朴なままでもいいのに。


「シエル、シエル……うん、シエル……僕はシエル」


 やたら照れくさくなり、顔を伏せているシフィアを他所に、青年は何度も胸に染み入るかのような声でその名を呟いた。


「いい名前だ。ありがとう」


「……お気に召したのなら、良かったですね」


 ふいと顔を逸らして、シフィアは口を尖らせて小さな声で応える。


「それじゃ改めて、よろしくシフィア」


 青年が差し出した手をシフィアは横目で一瞥したあと、一つ息を吐いてゆっくりと握った。


「はい、よろしくお願いします――シエル」


「うん!」


 そして、嬉しそうにはにかむ青年――シエルを見て、シフィアはやや呆れながらも笑みを返すのだった。

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