3 秘密の地下室
「ここは……何のために造られた空間だったんでしょうか……」
青年が綺麗にし乾かしておいてくれた自身の衣服一式をしっかりと身に纏ったシフィアは、ゴツゴツとした岩壁に手を当てそう呟く。
服は多少破れなどが目立ったが、着られない程ではなかった。
改めてしっかりと確認した青年が住処にしているらしい空間は、シフィアの想像していたものよりも広く、朽ちた様々な形状のベッドが幾つも散乱していた。
その他にも色々と乱雑に物が散らばっているが、それは青年が外から拾い集めてきた物も多いらしい。岩肌が剥き出しになっている天井と壁には、しかし人工的にランタンやロウソクが取り付けられるよう細工がしてある。床も今は殆ど朽ちてしまい、こちらも岩肌が覗いているが、元は板張りとなっていたのが見て取れた。
そんな地下室には扉が二つほど存在し、一つは地上へと出る為の通路に続くものと、もう一つはシフィアも確認したが、用を足す為の小部屋になっている。とはいっても、それは床に穴がぽっかりと空けられただけのものであり、穴からは下方に黒い波しぶきが窺え、ここが海岸沿いの崖の中に造られた施設だった事は理解できた。
よくよく聴いてみれば、波音は絶えず地下室に響き渡っている。
宿……しかし何故こんな場所に隠すように?
それに他に部屋はないようですし……わかりませんね……。
用途不明の地下室の隅には、幾つもの衝立が置かれている。もはや布や板は破れ、ただの大きなゴミと化しているそれは、青年曰く元から地下室に置かれていた物らしい。邪魔だったので片付けて纏めたそうだ。
あれでベッドとベッドの間を仕切っていたのでしょうか……だとすれば個人のものではなく何らかの施設だったと思うのですが……治癒院……?
しかしやはり何故わざわざ地下にという疑問が浮上しますね……。
何やら不審な香りがする。
シフィアはそう思った。
少なくとも真っ当な用途に使用されていたとは思えない。どうにもおおっぴらにはできない何かがここでは行われていたようだ。
そんな場所が救いとなるなんて、皮肉というやつですかね。
何か手がかりになりそうな物がもっとあれば良いのだが、残念な事に地下室には『黒死の森』の影響で黒く太い根が幾本も張り出しおり、かつての姿は既に失われている。シフィアが触れている岩肌も、黒に染まっていた。
まあ、今はここを造った人たちに感謝です。
例え犯罪行為が行われていたのだとしても、そのおかげで繋がった命もある。
シフィアは少し複雑な心持ちになりながら振り返った。
部屋の中央、焚き火の側では例の生存者の青年が何やら手に持った破れ朽ちかけの紙をじっと見つめている。焚き火の煙は海側の壁の上部に空けられた隙間から外に流れていた。シフィアが発見したのはこの漏れ出た煙だったらしい。青年が言うには、地上から覗いてもこの隙間は迫り出した岩が覆い隠しており見えないようになっているそうだ。
やはりこの地下室は秘匿された場所だったのだろう。
ころり、とシフィアは咥えていたキャンディを口の中で転がし、その青年を検める。
やはり、【漆黒】で間違いありませんね……。
黒い髪に瞳。よくよく見てみれば、汚れているのではなく爪の色も黒。
魔力の色は、その者が保有する魔力が多ければ多いほど容姿に表れやすい。体毛や瞳や爪――その中でもシフィアのような【混色】ではなく、今世界で原初の魔力とされている五色。
赤、青、黄、白、黒。
これらの内、いずれかの色が濁ることなく美しく表出した者は【至純の魔】と呼ばれ、その身に宿す魔力は他の者よりも純度が高いとされている。
実際、至純の魔は非常に秀でた能力を有した者ばかりであるが、その数は少ない希少な存在だ。
中でも黒――漆黒はこれまで存在しないとされてきた。
いや、厳密に言えば『黒の民』の中から幾人か時代と共に生まれ確認されてはいたが、魔力の彩色と同時に廃人と化すか、直ぐに死亡したと記録されている。
しかしこの青年は黒の魔力に微塵も呑まれていない。それどころか、この死地とも言える森でたった一人生き延びた。
いえ……違いますね。
純度の高い黒の魔力に負けない心と身体だっからこそ、生き延びられたのでしょう。
シフィアはそう思い直し、微かに自虐的な笑みを浮かべた。
それに比べて私は……。
卑屈になりかけたシフィアは、一度軽く頭を振り気持ちを切り替える。
とにかく、彼は様々な面から見ても特別な存在だ。そうでなくとも、『黒祓い』としてこの森から彼を救出しなくてはならない。
幸いシフィアの魔術ならば、この位置からならいかに黒死の森といえど脱出するのに苦労はしないだろう。
今度は自分が彼を助けなければ。
「よし……」
シフィアが小さく呟いて自身の頬をペチペチと叩いていると、青年が紙から顔を上げた。
「落ちついた?」
「あ、は、はい」
とりあえず状況確認とシフィアが落ち着くまで、余計な口は挟まないでいてくれた青年に、シフィアはこくこくと頷く。彼の言葉遣いは未だ完璧とは言えないものの、この短い間に随分と流暢になっていた。やはり、話し方を忘れていただけらしい。
今ならスムーズに会話もできるだろう。
そう考えたシフィアは、彼から色々と話を聞くために歩み寄る。すると、青年はポンポンと自身の隣を叩いた。見ればいつの間にやらくたびれ過ぎたクッションが用意してある。焚き火を挟んで対面に座るつもりだったシフィアは、少し戸惑いつつも、彼の隣に遠慮がちに腰を下ろした。
……まあ、十年も独りでいたのなら、人恋しいですよね。
「とりあえずこれ」
「え?」
シフィアが口を開こうとすると、青年は先程まで見つめていた朽ちかけの紙を彼女に手渡す。
「ここが何なのか、気になってた、みたいだから。多分、それを見れば、君、ならわかるんじゃないかな。残ってて、良かった」
「はぁ……」
再び戸惑いながらも、紙を受け取ったシフィアはそれに目を落とす。殆ど掠れ、破れもあり読みづらいが、紙には何やら文字が書いてある。
青年もここが元は何の施設なのかはわからないと言っていたが――
「…………」
眉根を寄せ、目を細めて紙に書いてある東大陸語を読んでいたシフィアは、そのまま非常に白けた表情にならざるを得なかった。
ああ、なるほどですね……。
『人には言えない特別な性――をお持ちの貴方へ
ここ――全てを同士と共に――さず、さらけ出し――か?
――では皆――仲間――す!
どん――特殊プレイだ――仲間――共有――で――ます!
妻にも恋人にも子供にも秘密の――店。【――――】』
そういうお店ですか、そりゃ隠しますね。
無駄に考察した時間を返してください。
何やら詳細な内容なども記載されているようだが、シフィアには最早どうでも良かった。そんな場所に救われた事に先程よりも複雑な心境になりながら、そっと紙を裏返して自身の隣に置く。
ああ、あの辺りの棚に色々と特殊な道具があったのでしょうか。
その際黒い根に呑み込まれた壁際の棚らしきものが目に入り、シフィアは空虚な笑みを浮かべる。
そうですね……貴方がたの秘密は守るべきですね……。
そして、この街に住んでいたであろう特殊な方々に心の中で感謝しながら、一度置いた紙を手に取り
「あー手が滑ったぁ」
「あ」
わざとらしくそう言いながら焚火にくべる。
青年が目を丸くしていた。
あっという間に燃え尽きたボロボロの紙を確認し、シフィアは青年に頭を下げる。
「すみません本当に」
「いや、別にいい、けど……何かわかった? 僕には、何かのお店、てことくらいしかわからなかった、んだけど。特殊、な」
ああ、やはりそっちの知識は疎いんですね。
子供の頃から一人こんな環境に居たのであれば、成長の余地はなかったのだろう。そんな余裕もなかったはずだ。
つい先刻の思い出すのも死ぬほど恥ずかしいやり取りの時のように、青年はシフィアに純粋な瞳を向けていた。
「……特殊、な……マッサージのお店だったみたいです」
「マッサージ? ……ああ、マッサージか」
シフィアが視線を逸らしながら誤魔化そうとすると、青年はピンと来なかったのか一度首を傾げ、その後理解できたように頷いた。
「気持ちよかったのかな?」
「……良かったんじゃないでしょうか」
「秘密にするくらい?」
「……誰にも教えられなかったんでしょう」
純粋な好奇心による非常に答えづらい質問を、青年はシフィアに投げかけてくる。
「そっか、特殊、プレイっていうのは――」
「私にもわかりません!」
流石にシフィアは話題を変える為に青年の問いを遮った。特殊プレイの話などしたくはなかった。勢い良く顔を上げたシフィアに、青年は目を丸くした後、ゆっくりと頷く。
「そっか……わからない、ならしかたない」
「ええ……わからないんです。わからないほうがいいと思います」
今はそんな話をしている場合ではないのだ。そんな話などする必要はないのだ。
シフィアはそう思いながら一つ息を吐いて青年に向き直った。そして、眉をひそめる。
相変わらず上半身には何も纏っていない、焚火の灯りに照らされた青年の身体は、改めて見てみると大小様々な傷痕だらけだった。引き締められ、極限まで無駄を削ぎ落としかのような筋肉質な上半身に、痛々しい傷の痕。それは彼がどれだけ壮絶な十年を生きてきたのかを物語っている。
しかし、そこにはどこか完成されたかのような美しさがあった。
「ん? どうかした?」
「あ、いえ……」
青年の身体にいつの間にか見惚れていたシフィアは、そう問われ慌てて顔を逸らす。
何を、何をまじまじと見てるんですか私は……。
そう思いながら少し熱くなった頬をペチペチと叩き、シフィアは再び青年の方に顔を向ける。
「あの……話しづらいので……何か羽織ってもらえませんか」
しかし一度意識してしまうとやはり青年を直視し辛くなり、視線を彷徨わせながら小さな声でそうお願いする。
「ああ……何か、着たほうがいいか……言われてみれば。お客さんの、前だしね。ごめん、慣れて、ないから」
「いえ……」
青年は自身の身体を見下ろし納得したように立ち上がると、崩れ落ちた一つのベッドに歩み寄る。その上には、古びた衣服などが集められていた。
彼がその中から服を選ぶのを眺めながら、シフィアはもう一度息を吐く。
まったく、あの広告のせいで変に意識してしまうじゃないですか……切り替えないと。
男性の上半身を見たからなんだというのか。その程度なら別に日常生活でも見る事はままあるし、特段意識するようなものでは――
いえ……そう言えばあまり憶えがありませんね……へへ……。
そもそもあまりまともな人付き合いのないシフィアだ。異性の身体など殆ど見た記憶がないことに気づき、自身の人生経験の浅さに自嘲気味な笑みを浮かべた。
はぁ……だからなんだと言うんですか……。
そしてこの状況でくだらない事を考えた自分にほとほと呆れ果て、シフィアは口中の飴をコロリと転がす。
しかし……女性用の下着が沢山あったのも、そういうお店だっから、というわけですね。
青年が漁っている衣服の山の隣には、これまた女性用の下着が小さな山になるほど朽ちたベッドに積み上げてある。何故女性用の下着ばかり無駄に数があったのかという疑問は、とりあえずシフィアの中で解消した。当然だが、不気味だったのでシフィアはその中からは選ばず、自分の下着をきちんと身に着けている。
「これで、どう?」
「…………」
と、青年がシフィアの方を向いて両手を広げた。ピチピチのネグリジェのような物を着て。
「……なぜ、それを選んだんですか……」
「肌触りが、良かった」
「はぁ……それは女性用です」
「……ふむ」
顎に手を当てて呟いた青年を見て、シフィアは腰を上げる。このまま彼に任せるより自分が選んだ方が早いだろう。
「あと……髪も整えませんか? 今のままだと顔がよく見えませんので。何か理由があるのならそのままでも構いませんが……」
青年の元に歩み寄りながら、シフィアはふとそう思い提案する。伸びっぱなしの黒髪を青年は指先で検めるようにつまんだ。
「そうだね、そろそろ、切ろうとは思って、たんだ」
青年は頷くと、腰の辺りからナイフを素早く取り出す。そして手の中で二回ほど回すと、自身の髪に無雑作な手付きで刃をあてがった。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「ん?」
その躊躇いのない動きに、シフィアは慌てて待ったをかける。青年は根本付近からばっさりと髪を切り落とそうとしていたからだ。
身だしなみに気を使う必要などないからだろう。とはいえシフィアからすれば信じられない適当さだった。
「せ、せっかくなので、私に整えさせてくれませんか?」
別段シフィアも散髪の技術があるわけではないが、青年よりはマシだろう。確かポーチにはハサミも入っていたはずだ。
自身の髪にナイフの刃を当てたままだった青年は、シフィアの提案を聞くと手を下ろしてナイフをゆっくりとしまった。
「じゃあ、お願いしようかな。水浴びは、したばかりだから、汚くはない、はず」
「はい、任せてください」
シフィアがほっとしながら笑みを浮かべると、青年も口の端を綻ばせる。
「渋めでお願い」
「……お任せでお願いします」
そして何か注文をつけてきた青年に、シフィアは不安になりながらそう言うのだった。