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2 森の住人


「ん……」


 パチパチと、何かが爆ぜるような小さな物音で、シフィアは目を覚ます。


 ……生きて、る……?


 はっきりとしない意識の中目を開けると、ぼやけて定まらなかった視界は徐々にしっかりと像を結んだ。


 何が……。


 そう思った瞬間、シフィアは瞠目した。自身の目と鼻の先から、黒い瞳が彼女を見つめ返していたからだ。


 一瞬シフィアの思考は停止し、そして自然と口が開く。


「い――」


「シッ」


「んぐ……!」


 しかし叫び声を上げようとしたシフィアの口を、黒い瞳の持ち主の手が塞いだ。


 『黒獣』……!?


 更に混乱しながらも素早く起き上がろうとしたシフィアの両手を、黒瞳の何かは馬乗りになり両膝で押さえつける。


「アー、えっト……」


 目を白黒させながら更に藻掻くシフィアを押さえつけたまま、それは更に辿々しいながらも言葉を発した。


 ……言葉?


 恐怖と混乱の只中にあったシフィアの思考は、その声を聞きやや冷静さを取り戻す。

 黒獣は言語を解さない。しかも、考えてみればわざわざシフィアが目覚めるまでじっと様子を見てなどいないはずだ。

 それに、シフィアの上に跨がるその姿は――どう見ても人間そのものだった。


 ボサボサの長く伸びた黒髪に、黒い瞳。

 上半身には何も纏わず、下半身にボロボロのズボンだけを身に着けている――若い青年。


 シフィアはそれまで見開いていた瞳を、更に大きくする。


 ――【漆黒(シュバルツ)】。


 呆然とそう思ったシフィアの上で、謎の青年は顎に手を当て何やら思案していたかと思えば、うんうんと頷き改めてシフィアにその黒瞳を向けた。


「ゴメン、でも? オオ、こえ? ……は、よくなイ。ココが、みつかったら、ニゲバガ、なく、なる」


 言い聞かせる様に言われ、シフィアは口を塞がれたままこくこくと頷く。


「……つうじ、ル?」


 首を傾げながら問われ、シフィアはもう一度こくこくと頷く。すると、青年は嬉しそうに前髪から覗く口元を綻ばせた。


「アバれるのもヤメてもらえるト、タスかる、な」


 これは……言語の習得が拙いというよりも……話し慣れていない?


 青年の声に頷きながらも、シフィアはそう考える。彼の言葉選びは間違えていない。ただ、声に出す事に苦心している様子だ。まるで言語は知っているが初めて誰かと会話したような、もしくは長年誰とも言葉を交わしていなかったかのような――


 まさか……生存者?


 そこまで考え、シフィアは彼が何者なのかに思い至った。

 自分が『黒死の森』へと引きずり込まれたのは間違いない。だとすればここは黒死の森の何処かではあるはずだ。では、目の前の彼は一体何なのか。


 おそらくは、生き延びていたのだ。十年前の大災害で、半ば見捨てられたこの地に取り残され、それでも黒獣が跋扈する森の中、生き続けていた『黒の民(ノワール)』の一人――それが、彼なのかもしれない。


 しかしあり得ない話だ。

 長く伸びた髪に隠れ瞳以外は判然としないが、それでもこの青年はかなり若いだろう。十年前に取り残されたのだとすれば、まだほんの子供だったと思える程の年齢のはず。

 そんな子供が、『黒祓い(カラーズ)』ですら危険極まりないこの森で生き残っていたなどにわかには信じがたい事実だ。


 ただただ驚愕する事しかできないシフィアの上で、青年は少し困ったように頬をかく。


「……はなす、れんしゅうは、さいきんはサボってた、から……わかりにくかったら……ゴメン」


 そして、ゆっくりとシフィアの口から片手を離した。シフィアは周囲へと視線だけを走らせる。


 薄暗い洞窟のような空間を、近くで焚かれた焚き火の灯りが照らし出している。何やら雑多な物が散らばっており、剥き出しの岩肌の壁に青年とシフィアの影が踊っていた。


 ……地下室……?


 シフィアは自身の状況を少しずつ把握し始める。元々、この地には黒の民の街が存在していた筈だ。ここはその街にあった地下室か何かだったのではないだろうか。そこをこの青年は棲家としているのだ。


 おそらくにこやかな笑みを向けているであろう青年に、シフィアは視線を戻し、恐る恐る口を開いた。


「貴方は……黒死の……いえ、森の中で、生き延びていたのですか?」


 ゆっくりと、会話に不慣れであろう青年に伝わるようにそう問いかける。


「うん、そう!」


 すると、青年は指を鳴らし頷いた。


「たった一人、で?」


「たぶん……? この、もりには、ぼくいがいにだれも、いない、とおもう?」


「そんなまさか……十年、も……」


 シフィアが信じられず思わず声を漏らすと、青年は不思議そうに首を傾げる。


「……じゅうねん……? ああ、そんなにたつのか……」


 そして、感慨深そうに自身の両手を見下ろした。どうやら喋り方を思い出してきたのか、徐々に口調は滑らかになりつつある。


「わしも……えーと、としをとったのぅ?」


「…………」


 ……え?


 そして、何故か微笑みながらシフィアにそう訊ねてくる。彼が何を求めているのか、何故急に老人のような言葉遣いになったのかシフィアには理解できなかった。


「……あ、そう、なんでしょうね?」


 しばしの間瞳を瞬かせていたシフィアは、何かを期待しているらしい青年にぽつりとそう答える。しかし思っていた反応と違ったのか、青年は首を傾げる。シフィアも首を傾げた。


「……なるほど、じょうだんは、むずかしいね」


 あ、冗談を言ったつもりだったんですか……何故このタイミングで……。


 ただでさえ混乱気味であったシフィアは、青年の言葉に更に困惑する事になった。とても十年も黒死の森で生き抜いた人間には思えない行動だ。


 ……もしかして、私を落ち着かせようとしてくれたのでしょうか。


 どこか能天気さを感じさせる青年に、ふっとシフィアの肩から力が抜ける。少なくとも、敵意や悪意を感じる人物ではない。

 シフィアは未だ自分の上でしきりに首を傾げている青年に、微かな笑みを向けた。


「あの、貴方が助けてくれたんですよね? ありがとうございます」


「……よきにはからえ?」


 これも冗談のつもりなのでしょうか……。


 きっとそうなのだろうなと思いながら、シフィアは笑みを深めておいた。彼なりに場を和ませようとしてくれているのだろう。長年人との関わりがなかった青年なりの配慮を、それも命の恩人のものを無下になどできるわけがない。

 微笑んだシフィアを見た青年は、どこか満足げに頷いていた。


「それで、その、もう暴れたりしないので、そろそろ退いてもらえると助かるのですが……」


 そう頼むと、青年はハッとしたように直ぐにシフィアを解放する。


「ごめん……いたくなかった?」


「あ、はい。大丈夫です」


 彼の押さえ方が上手いのもあったのだろうが、よくよく見てみればシフィアは古いベッドの上に寝かされていた。汚れや劣化が多少目立つが、その機能はぎりぎり失われてはいないようだ。


「よかった」


 ほっとしたように息を吐きそう呟いた青年は、ベッドから下りて近くの焚き火の元に向かう。


 さて……彼には色々と話を聞く必要がありそうですね。


「っ……」


 青年の姿を視線で追いながら、シフィアはゆっくりと身を起こす。冷静さを取り戻した身体には森に突っ込んだ故か痛みが奔り、かなりの疲労感があったが、ゆっくりと寝ている場合でもないだろう。


「……」


 しかし、顔を顰めながらも上体を起こしきったシフィアは、しばしの間沈黙せざるを得なくなった。かけられていたボロボロの毛布の下の自分は、何も身につけていなかったからだ。


 起き上がったシフィアの上半身を隠す物は、何もなかった。


 彼女は一度一糸纏わぬ自身の身体を無言で見下ろした後、焚き火の方へ顔を向ける。


 青年は、目を逸らすことなくじっとその黒瞳をシフィアに向けていた。

 徐々にシフィアの顔は赤く染まり、彼女は静かに膝元に落ちた毛布を引き上げて身体を隠す。

 青年は、不思議そうに首を傾げていた。


「……あつい?」


「……いえ」


 真っ赤な顔を俯かせたまま、シフィアは青年にぽつりと答え、訊ねる。


「……あの、何故私は裸なんでしょうか……」


 すると、青年は得心がいったかのようにぽんと手を打った。


「あんしんして、へんなことはしてない」


「あ、はい……そうですか、そうですよね」


「からだのすみずみまでしらべただけ」


「待ってください一気に安心できなくなりました」


 シフィアは頭痛を覚え額に片手を当てる。青年は心底不思議そうに首を傾げていた。


「え……え……? 何故そんな事を……」


 意識のない内に服を全て脱がされ、身体を観察されていたシフィアは、もはや顔から火が出そうな程の混乱と羞恥を感じていた。そんな彼女に対して何とも呑気な様子で顎に手を当てていた青年は、何か思いついたように一度頷くと、両手を上げる。


「オレ、オマエ、タベル」


 そして、やたらと低い声で唸るようにそんな事を言った。


「……」


「オレ、オマエ、タベル」


「…………」


「オレ、オマエ、タベ――」


「待ってください」


 シフィアはそんな青年の声を、片手をかざしてやや強い語調で遮る。


「今冗談はいらないです」


 そして、真顔でそう訴えた。

 徐々に目に涙が溜まり始めたシフィアと、両手を上げたままの姿勢で止まった青年は、しばしの間無言で見つめ合う。パチパチと、焚き火の中で木の枝が爆ぜる音がいやに二人のいる空間に響いていた。


「ふむ……」


 やがて青年は顎に手を当ててそう小さく呟く。シフィアに向けていた片手を下げ、両手で毛布を持った。


「まじめな話しをすると」


「はいお願いします」


「けががないか確かめた」


「あー……」


 シフィアの身体からどっと力が抜ける。


 なんだ……そうだったんですか考えてみればそう……いやいやちょっと待ってください、だからといって……。


 一瞬安堵しかけたシフィアは、行われたであろう行為を想像し再び顔を染めた。


 いえ、彼は心配してやってくれたんです……純然たる善意からの行動で正しい行いですそんな彼に対して恥ずかしがるなんて失礼ですし心から感謝するべき事なんですそもそもこの程度で羞恥を感じるなど私が未熟だからに他なりませんもし大怪我を負ったとしてその際服を脱がされたからと私は恥ずかしがるのですかこの程度の事を気にするなど心構えが全く足りていません――


「それに、ぬれてたし」


「そうですよね」


 ほらそうですよ濡れたままの服で寝ていたら体調を崩す可能性が大きいですだったらどうするかといえばとりあえず脱がせるに決まってます毛布もかけておいてくれたみたいですし変なこともされていないならいいじゃないですか大体減るものでも――


「アイツらの糸だらけだったし」


「そうですよね」


 そうそう私は謎の糸に絡め取られていたんですからそれを処理しなければならなかったわけですしたがって――


「いろいろと、きれいにしておいた」


 服の話ですよね?

 そうに決まってます色々なんて今彼は言っていないですし言っていたとしてもありがたく思うべきで恥ずかしがる必要は――


「したぎは、下はあめいがいでもぬれてよごれてたから」


「…………」


「いちおう洗ったけど、べつのがいいならそこらへんにあると思う」


「…………」


 恥ずかしがる……ひつ、よう、は……。


「たくさんあるから合う、サイズも……ん?」


 ぷるぷると震えながら、最早シフィアは耳も首も真っ赤に染めて、涙目で俯いている事しかできなかった。

 羞恥に悶えている彼女に気づいた様子の青年は、一度首を傾げると何かを察したように黒瞳を見開く。


「だいじょうぶ」


「…………」


「恥ずかしい、ことじゃない」


「………………」


 青年はうんうんと頷きながら長い髪の隙間から窺える口元を綻ばせた。


「僕、も、アイツらにはじめておそわれた時とか、なんどかもらしたこと、はある」


「…………そう、ですか……」


「慣れてない、ならしかたない」


 懐かしむような口調で青年はシフィアの失態をフォローする。だが、シフィアとしてはそっとしておいてほしかった。非常にそっとしておいてほしかった。


「次はだいじょうぶ。はずかしいことじゃないよ」


「…………お心遣い痛み入ります……」


 ニッと口角を釣り上げた青年にシフィアはぷるぷると震え、これ以上ない程に縮こまりながら蚊の鳴くような声でそう返すのだった。

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