1 黒死の森
灰色の箒に乗って、一人の女性が空を飛んでいた。
箒に横座りになり、頭には大きなベルトを巻いたようなキャスケット帽、顔には無骨なゴーグル、ショートパンツから伸びる脚にはタイツを着用しており、大きめのブーツを履いている。シンプルなシャツと革の上着、更にその上からは自身の身の丈程もあるローブを羽織り、やや小柄とも言えるだろう女性は軽快に空をかけていた。
眼下には砂の海が広がり、乾いた風を受けて靡く肩の辺りで切り揃えられた灰色の髪と、ローブの下からは、腰のベルトに括りつけられたいくつかのポーチが窺える。
女性は咥えていた細く短い棒を革のグローブを嵌めた手でつまんで口から出し、軽く布で拭き取ってポーチにしまうと、そこから一本の棒付きキャンディを取り出して、包み紙を綺麗に剥がし再び口に咥えた。
そして、前方に見える長大としか言いようがない、赤と青と黄の三色で構成された壁を目指す。砂漠を断つように突如現れる大壁は、その上に更に建造物が建っており、幾人かは壁上に立って飛来する女性の方を向いていた。その険しい表情に女性は少々辟易とした気持ちになり、厚いゴーグルの下の目を細め、カリと軽く口中の飴を噛み締める。
「はぁ……」
一つ疲れたように息を吐き、女性は気を取り直した様に三色の壁へと速度を上げた。
まさか、撃ち落とされるなんて事はないでしょうが……。
流石にあり得ないだろうが、内心でそんな事を僅かに警戒しながらも女性は大壁へと接近し、その上にゆっくりと降り立つ。そして、片手に短い灰色の杖、もう片手には逆さに立てた同色の箒を持って、壁上に集っていた者達と向き合う。
待っていた四人の内の一人、リーダーであろう男性が一歩前に出ると同時に、女性はその顔を覆っていたゴーグルを外して首にかけた。
髪と同じ大きな灰色の瞳と柳眉、通った鼻筋、艶のある小振りな唇。まだ幼さを感じさせながらも、整ったその面貌は固く引き締められている。
「『黒死の森』監視の任に就いている『鉄の盾』、部隊長のケルマ・アシリッドだ」
嫌悪感と警戒心を隠さないどころかぶつけてくるようなその声と瞳に、女性は眉を顰めたくなるのをぐっと堪えて顔を上げた。
まあ……名乗ってくれるだけマシですね。
そして、そう思いながら口を開く。
「中央から調査の為に派遣されてきました。『黒祓い』のシフィア・レイミリルです。よろしくお願いします」
「所属は?」
「……ありません」
シフィアがそう答えると、ケルマはふんと馬鹿にするかのように鼻を鳴らした。
「だろうな」
じゃあ訊かないで欲しいですね……。
シフィアはそう思い僅かに帽子を深く被り、目の前の四人の様子を窺う。
茶色の髪を後ろでくくったケルマは、恐らく白の魔力だろう。そのすぐ後ろに立っているショートヘアの女性は爪の色から見て赤の魔力。この二人は一際強い憎悪の瞳をシフィアに向けているので容易に推察できる。最後方で不安そうな表情を浮かべている明るい茶髪の女性が黄の魔力。彼女は他と比べてもシフィアに対する視線がやや弱い。黄の魔力の持ち主は、基本的には平和主義者で誰に対しても友好的な者が多い。となれば、残った緑の髪の少年のような男性は消去法とその容姿からして青の魔力だろう。
なるほどいい部隊だ。
バランス良く各色の魔力持ちが集まり、隊長であるケルマとの会話に余計な口を挟んで来ない事からも、それなりに練度は高いのだろう。
中央を発つ際に読んだ資料によると、もう一部隊程が監視の任務に就いている筈だが、そちらは挨拶するつもりもないのか、観測基地から出てくる気配もなかった。
「しかし……連絡は受けていたが、本気でこんな混じり者の新人一人だけを寄越すとはな」
ぼんやりとシィフィアがそんな事を考えていると、ケルマが不満を顕にしてそう言った。シフィアは帽子のツバを持ち、顔を隠すように更に深く被る。
「……私の魔術は、その……調査にうってつけですので……」
「私たちは不適任だと?」
そんな事は言っていない。
シフィアはそう思ったが、この程度の嫌がらせは慣れている。
「いえ……ですが、上空からの観察で何か発見できる可能性を鑑みて……」
「ふん、飛行能力か」
ぶつぶつと呟くシフィアの声を遮って、ケルマが腕を組みながら再度鼻を鳴らす。そして、シフィアの持つ灰色の箒へと視線を向けた。
それだけではないのですが……。
内心でそう思いながら、しかし説明してもどうせ面倒事にしかならないのでシフィアは口を閉ざす。
「鳥竜は黒化領域上空には近づきたがらんからな……とはいえ、黒混じり如きに任せるのは些か不安だな」
「…………」
明白な嘲弄の言葉に、しかしシフィアはそれでも言葉を返さなかった。ただぼんやりと、帽子の下から壁上観測基地の側に繋がれている何頭かの鳥竜を見る。
成人男性二人分程の、羽毛に包まれた体躯と長い尻尾を持ち、頭部には飾り羽と嘴。鉤爪のついた鱗のある後脚に、前脚と翼が一体化しているその生き物は、来客が物珍しいのか美しく洗練されたその姿に、何処か不釣り合いな粒らな瞳でじっとシフィアを見返している。「クルル……」と微かに喉を鳴らす翼竜からは、撫でたくなるような愛嬌が感じられた。
やっぱり可愛いですね……。
ピリピリとした敵意を向けられる中、シフィアは鳥竜にわずかに癒やされる。何とか触らせては貰えないものだろうか。無理だろうな。そんな事を考えながら、最早ケルマの刺々しい言葉は聞き流していた。本来なら新人であり部隊にも属さないシフィアは彼の指揮下に入り、よく話を聞くべきなのだが、どうせ大半は無駄な辛辣な言葉をぶつけられるだけだ。
ケルマはその後も何やらシフィアを侮辱するような事を言っていたが、鳥竜と見つめ合う彼女には最早何も響かない。
「……チッ、おい、聞いているのか」
「あ、はい……」
ふと舌打ちが聞こえ、シフィアは慌てて顔を上げる。どうやら無駄な時間は終わったようだ。
「まったく……このような僻地に送られた上、お前のような者の相手をせねばならんとはな」
眉を顰めたケルマは、愚痴のようにそう零してシフィアを睨めつける。
その姿からは今の任務に不満がある事がありありと見て取れた。
「……何だ、その目は」
「え、いや……」
しまった。
思わずケルマに対して僅かに咎めるような目を向けてしまったシフィアは、慌てて帽子を下げて顔を隠す。自分は何と言われてもいいが、この場を護る事に不満を抱いている彼に軽い失望を覚えてしまった。
そう思うのは今の世ならば仕方ない。何もケルマが悪いわけではないのだ。しかし、黒祓いとしては口に出すべき事ではないだろう。
「申し訳ありません……目にゴミが」
ぐしぐしと痛くもない目を擦りながら、シフィアはそう言って誤魔化す。突き刺すような視線を向けていたケルマは、そんな彼女を見下しながら尊大な態度で腕を組んだ。
「まあいい。さっさと仕事を済ませてこの場を去れ。あまり長く留まられると魔色壁が穢れる」
「……はい」
シフィアは俯いたまま小さく返事を返す。
やはりこの観測基地への逗留は許されないらしい。中央から遥々東の果てまで旅して来たばかりのシフィアに対して、あまりにも酷い仕打ちであった。
しかし、シフィアはその言葉に内心ほっと胸を撫で下ろす。こんな針のむしろにしかならない場所になど彼女としても留まりたくはなかった。少し休んでいけと言われた方が逆に困る。それに、予めこのような扱いを受ける事など重々承知の上だ。前日にシフィアはしっかりと休息は取っていた。
言われるまでもなく早速仕事に取り掛かり、調査を終わらせて今日の内にこの場から去るつもりだ。もう余計な会話すらしたくはない。報告書は別の場所で纏めればいいだろう。
まあ……黒混じりにろくな居場所はないですけど。
シフィアは微かに帽子の下で自虐的な笑みを浮かべると、視線を砂漠とは逆の大壁の向こう側へと向けた。人が四、五人程は楽に並んで歩ける程に分厚く、陸地の端から端まで伸びる壁の向こう側には、黒々とした海に囲まれた全てが黒に染まったような広大な森林が広がっている。
『黒死の森』――この森林の上空からの調査がシフィアの初任務であった。
「言っておくが、もしお前に何かあろうと我々は助けには行かない」
というより、来れないでしょうね。
同じく黒死の森へと視線を向けながらのケルマの辛辣な言葉に、シフィアは無言で頷く。
彼らはもう数年はここに居るが、調査の為に壁の向こう側に降りたのは数える程しかない。それも、ほんの入口まで。
森の奥地へと足を踏み入れれば、間違いなく生還はできないからだ。しかし幸いながら黒死の森は十年前からその領域を広げていない。見た限りでは魔色壁への侵食もないようだ。
しかし、だからといって何時までも現状維持というのは……。
シフィアは不気味な程に静まり返っている黒き森林を目を細めながら眺め、やるせない気持ちになる。東の果てのこの地は、現状無理をして取り戻す程の価値を見いだされていない。故に、十年にも渡って半ば放棄されているような状態だ。加えて、この辺りは元々『黒の民』の領地であった。それが、何よりもこの地が後回しにされている理由だ。
海洋資源を天秤にかけても、優先すべきではない、と……。
理不尽な話だ。
現状この大陸のみで手一杯であり、外洋に進出する余裕など何処にもないとはいえ、海岸沿いのこの地はどう鑑みても、取り返すべき場所だ。しかし、黒の民の領地だったという理由で重要視されていない。
魔色壁があるとはいえ、もしも突然黒死の森が侵食を始めれば、今度こそ黒の民の居場所はなくなるだろう。その時は、恐らく黒の民は切り捨てられる。
万が一黒死の森が広がり出したとすれば流石に対処せざるを得ないだろうが、その際の犠牲は折り込み済みというわけだ。ここに配置された人員が少ないのも、異常が起これば食い止める為ではなく火急の事態を一刻も早く知らせるため。故に最低限の監視のみで積極的な調査は行わない。
一応『鉄の盾』という部隊名から考えても、防衛の方が得意ではあるのだろうが、命を懸けてまでこの地の民を護ろうとはしない筈だ。
だからこそ……私が何か見つけられればいいのですが……。
少しでも情報を集め、黒死の森攻略の糸口でも掴む事ができたのなら、黒祓いもこの地の奪還を視野に入れ本格的に動き出すだろう。
「森へは絶対に入るな。高度もあまり下げるな」
シフィアがそう考えているとケルマがぞんざいな口調で言った。少し意外に思い彼にシフィアは視線を向ける。
「森へ落ちた場合は死亡したとみなし、一応報告書を書く――手間をかけさせるなよ」
そして、僅かにでも期待した事に後悔する。
ケルマの言葉はシフィアの身を案じた忠告などではなかったからだ。
……わかってましたけどね。
「はい」
シフィアは表情を変えずに、ただ彼の言葉に頷いた。
ケルマに対して怒りや恨みを感じはしない。黒の魔力持ちは、今の世では忌み嫌われて当然であり、それが普通なのだ。彼の心根が悪いわけでも、そう思うのが悪いわけでもない。ケルマのシフィアへの対応は、至極真っ当なものに過ぎなかった。
誰が悪いというわけでもありません。
シフィアは気持ちを切り替えると同時に、再び新しいキャンディをポーチから取り出して咥える。
「では、仕事に取りかかれ」
「はい」
「……ん? そういえばお前、レイミリルと言ったか」
「……はい」
ふと、何か思い出した様なケルマに問われ、シフィアは帽子を深く被りながら小さく頷く。そこには触れて欲しくはなかった。
「まさかとは思うが……あのレイミリルか」
「…………」
何も答えないシフィアを見て、ケルマと彼の仲間たちは一度僅かに目を見開く。
「……嘆かわしい事だな」
額に手を当てたケルマの呟きに、シフィアはカリと口内の飴を噛む。
「…………今、私の家の話は関係ないと思いますが」
「ああそうだな――『灰かぶり』」
「…………」
こんな場所まで噂が広まってますか。流石に嫌になりますね……。
シフィアの灰色の髪を改めて嫌悪感を顕にした表情でケルマ達は見る。髪を結っていれば良かったとシフィアは後悔した。
「ふん……」
ケルマは三度鼻を鳴らすともう用はないとばかりに振り返り観測基地の方へ歩き出し、仲間たちもそれに続く。最後まで黄の魔力持ちであろう女性だけが、シフィアに少し申し訳なさそうな表情を向けていた。
そんな彼女に、シフィアはふっと微かな笑みを向ける。すると、彼女は小さく頭を下げて仲間たちを追っていく。
「ふぅ……」
シフィアは一つ疲れたように息を吐いて、身体の横に浮かせた箒に腰を下ろした。
そして、自身の髪の毛先をくるくると指で弄ぶ。
「お手入れはしてるんですけどね」
冗談めいた口調でそうこぼし、笑みを浮かべてふわりとシフィアは高く浮き上がる。
「さて、行きますか」
一度口内で飴をコロリと転がすとゴーグルをかけ直し、シフィアは黒死の森の調査へと向かうのだった。
◆
「これは……上からではさっぱりですね」
黒死の森の調査を始めてからしばらく経ち、シフィアは灰色の箒の上に立ち肩を落としてそう呟いた。
眼下の黒々と広がる森林を見下ろしても、何一つ得られる情報はない。
立ち並ぶ大木の樹冠は隙間なくその全容を覆い隠しており、上空からでは内部を覗き見ることなど不可能だ。
黒死の森は広大ではあるが、シフィアのように空を飛ぶ事が可能であれば横断に時間はかからない。しかし、シフィアはもう何度も端から端をぐるぐると行き来しているが、その不気味に静まり返る黒き森から何も発見できてはないなかった。
あまりにも動きがないため、シフィアには最早その森が大地にぽっかりと空いた大穴にすら見える程だ。
おまけに、ポツポツと雨まで降り出した。
シフィアは持っていた手帳とペンをポーチにしまい、上からローブで覆うとフードを被って箒に座り直した。降り出した雨は直ぐにその激しさを増し、あっという間に土砂降りとなる。
それはまるで無駄な事をしているとばかりに、彼女を嘲笑っているかのようだった。
土砂降りの雨に打たれながら、シフィアはフードの下で薄い笑みを浮かべる。
「あの人たちも、今頃バカだと私を笑っているんでしょうか……」
離れた魔色壁の方をぼんやりと眺めながら、シフィアはふっとそう呟いた。
一応大きな異変がなければ調査は終えても構わない。シフィアに与えられているのはごく簡単な任務であり、ここまで粘って何の動きもない森を目を皿のようにしてまで調べる必要はないのだ。
しかし、シフィアはもう長い間黒死の森上空に留まり続けていた。
「ダメですね……卑屈になっては」
シフィアはもう一度呟くとゆっくりと頭を横に振る。勝手に嫌な想像をして落ち込んでいても仕方がない。それに、そんな風に考えてしまうのは彼らにも失礼だ。
自身が黒の魔力を持っていると判明してからの悪いクセだと、シフィアは自責して眼下の黒死の森へ改めて視線を向けた。
激しい雨に打たれようが、その黒き世界はやはり静まり返ったままだ。
やはり内部に入らなければ何も得られそうにありません……。
とはいえ、単独で森の中へと踏み入るなど馬鹿のやる事だ。シフィアは愚か者ではない。それに、そもそもシフィアはまだ戦闘面に関しては自信がなかった。
まあわかってはいましたが、私一人程度で何か変えられるわけがないですね。
つまり、お手上げだ。
黒死の森に対して、シフィアができる事など何もない。あとやるべき事は異常なしと報告書を纏め、中央へと無事帰還するくらいだ。
そう考えながらじっと黒死の森を見つめていたシフィアは、しかし眉を僅かに歪める。
そして、少しずつ、高度を下げて森へと近づき始めた。
ケルマの忠告は頭に残っていたが、やはりどうしても諦めきれない。
このまま何の成果もなく帰還すれば任務は達成できるが、この地は最後まで後回しにされてしまう。
大丈夫です……ちょっと森の葉を調べるだけ……直ぐに離れれば大丈夫……。
せめて、それぐらいだけでも。そしてあわよくば、接近する事で何か発見できれば。
シフィアは馬鹿なことをしていると自覚しながらも、手を伸ばせば木々の葉に触れられる程の距離までゆっくりゆっくりと高度を落とした。
震える手を慎重に伸ばし、黒き葉にちょんと指先で触れたシフィアは素早く上昇する。
「……はぁ」
そして、自身の指先を見つめながら煩い心臓を落ち着ける為に一つ息を吐き出し、表情を引き締めた。片手のグローブを外し再び高度を下げて黒き森の葉に手を伸ばす。今度は何度か、その一枚程がシフィアの掌程もある肉厚の丸みを帯びた葉の表面を撫で、質感を確認した。
手触りは普通の木の葉と大差なし……でも、これは黒の魔力の塊……中は……。
シフィアは眉根を寄せて森の中を除き見ようとするが、幾重にも重なる黒き葉は多少掻き分けた所で意味がなさそうだった。
「結局、得られたものなし、ですか……」
まあ仕方がない。
これ以上はシフィアには本当に何もできないのだ。
悔しさを感じながらも、シフィアは最後にもう一度周囲を見回し――
……煙?
一度見開いた目を細めた。
慌ててゴーグルを外して首にかける。
黒死の森の端、まさに大陸の東端とも呼ぶべき方向から、細い煙が立ち上っていたように見えたのだ。土砂降りの雨に潮風で直ぐに消えてしまったが、長い間動きのない森を観察していたシフィアには、それははっきりとした異変であった。
あの位置ならば、魔色壁から発見する事は難しいだろう。十年に渡り沈黙していた黒死の森から、情報を得られる可能性がある。
しかし、今はもう煙は見えない。
見間違いでしょうか……いえ、どちらにせよ行ってみるべきですね。魔力は……まあいいです。
帰りの魔力が回復するまで、吹きさらしの壁上で待つのはごめんだが、今はそんな事を言っていられない。
シフィアは興奮を抑えながらも、森の端を目指そうとした。
だが――
「え?」
目的地を目前に、シフィアは呆然と声を漏らす。箒が、ガクンと何故か動かなくなったのだ。
何事かと視線を向け、ぞわりと、シフィアの背筋に怖気が奔った。
「ぁ……」
震える口から声が漏れる。
灰色の箒の柄には、すぐ下の森から伸びた幾本もの黒く細い糸が張り付いていた。目先の事に夢中になり、高度を下げたまま飛行したシフィアの致命的なミスであった。
いつの間に……!
瞬間、箒が凄まじい力で黒死の森に引き寄せられる。
「うわ……!」
焦燥にかられたシフィアは咄嗟に立ち上がり箒から宙空へと跳び上がる。彼女が離れると灰色の箒はふっと消え、張り付いていた黒い糸はバラバラに舞った。それを見ながら、シフィアは懐から灰色の短杖を取り出す。心臓は破裂しそうな程にバクバクと鳴っていた。
再び灰色の箒を創り出そうと、シフィアは杖を振り――
「そんな……」
その杖を握った左手にも、黒い糸が付着していた事にようやく気がつく。愕然と声を上げた彼女は、それだけでなく自身の身体のあらゆる所に糸が張り付いていた事を確認して、恐怖と絶望に表情を歪めた。
同時に、ぐんと、シフィアの身体が糸に引かれる。抗い難いその力に、彼女は半狂乱になって杖を振った。
「う、わぁあッ! この……!」
灰色の杖の先から同色の拳大の炎が数発射出されるが、黒き糸に命中しても強靭なそれは焼き切れない。シフィアの抵抗など、まるで無意味であった。
やたらと時の流れが緩やかに感じられる中、それを見たシフィアは、ふと冷静さを取り戻す。
――ああ、終わりですか。
しかしそれは、どうしようもない諦観から来たものであった。
やはり森に近づくべきではなかったのだ。馬鹿なことをしたものだとシフィアはぼんやりと考え、薄い笑みを浮かべると再度杖を振った。
先程よりも大きな灰色の火球が黒き森の樹冠に直撃し、しかしふっとかききえる。
シフィアは目を閉じた。
無力、あまりにも無力だ。
「本当に……」
ぽつりと、シフィアは口内の飴を転がしてそう呟いた。
――私は何の為に生まれてきたんでしょうね。
ぼんやりとそう思いながら、シフィアは黒き糸に引かれ、黒死の森へと墜落した。
一章は基本的にシフィアの視点で話が進みます。