恋のゆく方
やる気がないのはわかってるし、練習するよりゲームやチャットをしてる方が楽しいんだろうけど、レッスン中にスマホの着信音が何度も鳴るのは勘弁してほしい。それがイラッとするような外れ方じゃあね。
この子を引き受けたとき、音大に進ませたいからって母親は一生懸命だったけれど、習い始めたらすっかり安心してしまったような気がする。あたしはあたしで、音大なんか行ってもお金がかかるばかりで、どっかのマンガじゃないけど、「不良債権」になるのはわかりきってるよなんてことを教えたもんだから、無気力を加速してしまったのかもしれない。
でも、だったらどうするの? ピアノをやめるのは親が許さないからできない?
自分の人生、しかもいちばんいろんなことができる時期じゃない。趣味で弾ければ十分? それならそれで、教えようはいくらでもある。
わりと簡単で華やかな曲をダイナミックに(デュナミークなんて洒落もんじゃなくて)弾いて、上手に聞こえるようにしたり、今流行ってるポップスをニュアンス込めてカッコ良く決めたり、そんなことを教えるって言うか、一緒にやってた方がよほどこっちも楽だ。薬指と小指のトリルだとか、7拍子の練習なんか確かにおもしろくない。
こんなことを考えるようじゃ、あたしももう若くないなって思う。しかも結局何にも言えないで、ニコニコしながら「また来週がんばってね」って生徒を帰した後、ソファにもたれてピアノから目をそむけたりしてるようじゃね。
日本のクラシック界では、ぶっちゃけ女は親の財力と美貌がないとやっていけない。それともちろん才能って言いたいところだけど、早く、正確に弾く技術だけ。それ以上のものは、財力と美貌が続いたときに問題になるだけ。財力が足りないって言うと、お父さん、お母さんごめんなさいだけど、美貌の方も寄る年波ってやつだから。
あたしだって国内のコンクールならいくつか賞は取りました。はい。でも、1位なしの2位とか、なんかそういう中途半端なものばかりで、新聞に載るような海外のコンクールまではやっぱり届かない。だからってひがんで言うわけじゃないけど、ふつうの人はコンクールってオリンピックとかワールドカップみたいなものだと思ってて、それが出発点にすぎないって知らない。でも、本当は正しいのかもしれない。いちばん注目を浴びて、お客も来てくれる時期だから。
あー、いやなこと思い出しちゃった。今度のコンサートのチケットまだごっそり残ってる。自分で自分のコンサートのチケットを引き受けて、売らなきゃいけないなんて絶対にプロじゃない。あたしが言うことにムキになって反論する人っているけど、チケットのことを指摘するだけで撃沈してた。
友だちで日本舞踊の名取の子がいるけど、それとあたしたちの世界があんまり似てるんで笑っちゃったことがあった。あっちの方が堂々としてて、豪勢かも知れないけど。
チケットがなんでこんなに残ってるんだろってずっと考えてたら、彼と切れちゃったせいだってわかって、そんなわかりきったことがなぜすぐに気づかないのか、あははって笑ってたら涙が出てきた。
さてさて、どうしますか?
50枚引き受けてくれてたスポンサー様がいなくなったのよ?
いえいえ、時には最後に残った2、30枚だって、笑顔でお金と交換してくれたんだからそれ以上でしょ?
昔は無理しなくてもまとめて買ってくれる男がいっぱいいたのよね。あの人に渡した分、ほとんど空いてるじゃないなんて、いい気になってステージのそでから眺めてた。……
思い出にひたっている場合じゃないのに誰かにツテを求めて電話するような勇気一つない。あたしよりちょっとおねえさんの、今度組むヴァイオリニストがもっと生徒取らなきゃダメよって言った意味がようやく身に沁みてきた。
きれいな音でさらさら器用に弾くだけで、あたしが曲の構造とか、アナリーゼとか教えてあげたくらいなのに、赤字を出さないとまではいかなくても、最小限にしてる分、あっちの方がプロなのかもしれない。LINEのグループがいっぱいで混乱するなんて、営業のプロだわ。
結局あたしは、ピアノに逃げ込んだ。ひさしぶりにプロコフィエフの戦争ソナタをバリバリ弾いて、スカッとしてから、ショスタコーヴィッチの前奏曲とフーガをテンポとか肘や肩の使い方をいろいろに変えながら弾く。心にも体にもいい運動になる。バッハのだと追い詰められそうになってしまうから、こっちの方が弾き疲れしない。
あたしは女の子(もうそうでないような人も)が好きなラヴェルとかドビュッシーとか、ましてやショパンなんて嫌いだ。正確には彼らの曲が嫌いって言うよりは、それが自分の感性だかに合ってるってほざいて弾く彼女たちが嫌いだ。
あたしも以前はこういうコンサートの定番をやらないわけにはいかなかったので弾いてたけど、無自覚に弾いてる女の子よりくやしいけれどうまくなかった。ユニークなドビュッシーだなんて、パイプくわえた髭面おやじが誉めてくれたけど、やりたいことが中途で挫折しただけ。……
そんなこともあったし、何より独奏だけでやっていく自信もなくなって、最近は歌曲とか室内楽で組むことが多くなった。何にもクラシックのことなんか知らないのに、弱気になっていたあたしを彼は支えてくれた。おカネだけじゃなく。
伴奏って呼ばれるのを愚痴っていたら、漫才と同じようなものかなんて言ってた。けっこう有名なソプラノ歌手が楽譜を読めないってことをバラしたら、カラオケで歌ってるやつはだいたいそうだろって言ってた。ピアノ四重奏とか五重奏だと気の合った中に入っていくのが大変って言ったら、3人も4人も相手してるのかとまじめな顔で言ってた。……
陽が暮れていく。秋の長雨がようやく上がって、大きな手で引っ掻いたような雲が幾筋も夕陽の方へ向かっている。
「これからどうしようかな」
次に弾く曲のことなのか、もっと大きなことなのかよくわからないまま、小さな声に出してしまう。
“Je te veux”を弾いてくれないか。彼の声が聞こえたような気がした。
大きな窓ガラスに映る光が少し震えたようだ。『おまえがほしい』なんてどうしたの? サティくらいは覚えたのね。
心の中でからかいながら、歌うような、踊るようなシンプルな曲を弾き始めた。目をつぶっていたって弾ける。この曲とともに本当に終わってしまったことを告げる透明な空を見たくないから。
我が恋は むなしき空に 満ちぬらし
思ひやれども ゆく方もなし
よみ人しらず・古今和歌集
「わが恋は」で始まる和歌はたくさんあり、中でも式子内親王の絶唱、
わが恋は 知る人もなし 堰く床の
涙もらすな 黄楊の小まくら
と慈円の名歌、
わが恋は 松を時雨の 染めかねて
真葛が原に 風さわぐなり
は有名でしょう。この2歌は新古今和歌集と同時代の作品です。
さて、この歌はすらすら読めるし、意味もわかりやすいように思いますが、「むなしい空に満ちる恋って?」と考え始めるとわからなくなってしまいます。
そこを無理に理屈で解釈すると「自分の気持ちばかりが大きくなってどうすれば相手に思いを伝えられるのかまったくわからない」といったことになるのかもしれませんが、それでは情趣がこぼれ落ちていると感じるのはわたしだけではないでしょう。
この歌の魅力は意味を超えた風情といったもので、それが後代に伝わったのだと思います。