8話-4 婚約破棄しようとしていたのはだあれ その4
そんなことを考えていても時間は進む。
私の足は自然とエディシスフォード殿下の執務室に向かう。
昨日渡された視察の資料でわからないところもある。
私が行かないと仕事が溜まってしまう。
エディシスフォード殿下がまた困ってしまうだろう。
何だか気持ちが重かった。
この頃は打ち解けてきたような気がしていた。
初めは嫌そうな態度をされて私も突っ返した。
しかしその日の夕食には笑ってくれた。
エディシスフォード殿下は思ったより話しやすかった。
「やあ、ありがとう。」
私が執務室に入ると極上の笑顔をくれる。
この頃ここにいるのが当然だと思ってしまっていた。
図書館に行って、ジェイデン様の実験室に行って、エディシスフォード殿下の仕事を手伝って…。
割と充実している。
カーラさんだって側にいてくれる。
目の前の人を見た。
金色の髪に手を当て、たまにグチャグチャとかき回す。
そして頭を三回人差し指で叩く。
困ったことやわからないことがあるとする殿下の癖だ。
そんな癖さえも分かってしまった。
それを見るとクスリと笑える。
自分がエディシスフォード殿下のすごく近くにいることを感じる。
「殿下、何かわからないところがありました?」
「ああ、申し訳ない。ここなんだが…」
こんなやり取りがうれしくて楽しい。
「ありがとう。ラティディアがいてくれてよかったよ。」
私はこの人に必要とされているのが好きだ。
エディシスフォード殿下の顔をみて、眉間にシワを寄せた。
どうしたらいい?
「そうだ。そろそろ家に帰るかい?記憶以外はもう大丈夫そうだ。」
私がいては邪魔?
一瞬暗い気持ちになった。
「いいかげん、宰相が煩いんだよ。会う度に耳元で叫ばれる。」
なんだかホッとした。
「お父様ったら。ふふふ」
「君は帰りたいかい?」
「えっ?」
戸惑った。
すぐに返事が出来なかった。
家に帰れるのだから手放しで喜びたいところだ。
どこに迷う必要がある?
しかしすぐに答えられなかった。
「おや?帰りたくない?」
「私が帰るとエディシスフォード殿下の仕事が進まなくなります。
それに仕事がもっとここに回ってきますよ。」
「それもそうだね。」
殿下は笑って答えた。
私は冷静を装った。
「そこは私と離れるのが嫌だと言って欲しいな。」
「えっ?」
私は驚いて赤くなった。
このところエディシスフォード殿下はたまにこんな風に切り返すことがある。
私の反応が面白いのかどうもそっちの方面からからかわれているように思う。
「言いません!」
「冷たいな。まあひとまず視察までの、一週間は家から王宮に通ってくれるとありがたい。」
「学園はどうするんですか?」
「まあ、行っても行かなくてもいいよ。好きにして。ただ書類が多いと学園に連絡してこっちに来てもらうかもしれないけど。それでも大丈夫かい?」
「ん…」
それはそれで面倒くさいな。
あの美味しい料理を食べられなくなるのは惜しい。
しかしきっと公爵家でも心配しているだろうし、お母様にも会いたいな。
どうしようか。
「それでは帰らせていただきます。」
「と、言っても一週間だけだよ。」
「は?」
「視察外交があるからね。」
「2泊3日でしたよね?その後は?」
「まあその時考えようか。」
考える必要はないと思います。
何やら企んでますね!
エディシスフォード殿下は手を頭の後ろで組んで目を逸らした。
「ねぇ、ラティディア、そろそろエディシスフォード殿下って長い名前で呼ぶの辞めない?」
突然何故話題が変わった?!
やはり何か裏がありそう。
しかし確かに長い。以前も言われたな。
「でも、王太子殿下に向かって失礼になりますから…」
「私達は結婚するんだよ。いつまでも他人行儀なのは辞めない?」
ん?結婚する??いやいやしないでしょう・・・。
「婚約は破棄され・・・。あ、いや、まだ結婚してないから…」
「その言い方だと私と結婚はしてくれるんだね。」
「あ、いえ。」
「まあ前向きに受け取るよ。しかしラティディアのおかげで仕事が早く片付くようになって助かるよ。こうやって君といる時間が増えたのもうれしいよ。」
何でそんなこと言って笑うんですか。
殿下は私なんて嫌なんですよね。
婚約破棄するんですよね。
私は顔を下に向けた。
「宰相には言っておくよ。支度とかあるから明後日の午後に一緒に帰るといいよ。」
「はい。」
「久しぶりにゆっくりしてくるといいよ。」
「ありがとうございます。」
「今日は少し早めに夕食にしよう。食事が終わったら話があるんだ。ゆっくりお茶でもしよう。」
焦げ茶色の瞳が私を見つめた。
私はバッと顔をそむけた。
昨日から…違うこの一週間くらいエディシスフォード殿下と一緒にいるとドキドキする。
記憶を失くした初日の印象は最悪だった。婚約破棄される覚悟も出来ていたし、して欲しかった。
でも今はこの人の優しさに救われている。
記憶を失くして不安だった気持ちもほとんど無くなった。
ジェイデン様にも救われてきた。
しかしエディシスフォード殿下が優しく微笑んでくれると安心する。
ここに私の居場所を作っていてくれているような気がする。
私はここにいたい・・・。
ジェイデン様の言う通り五年間のことはもう考えないでおこうと思っていた。
しかし私はしてきた5年間ことを無かったことにはできない。
殿下と私は婚約破棄するんだ。
そう仕向けたのは私。
だからしなきゃいけないんだ。
殿下もそれを望んでいる。
ダリア様のことはどうなっているのだろうか。
書類は揃う、とダリア様は言った。
つまり私はもう婚約破棄を言いわたされるだけ。
エディシスフォード殿下は私が記憶を失くした事でいろいろ考慮してくれて落ち着くまでまってくれているのだろうか。
さっき話をしようと言った。
じゃあ今日婚約破棄と、ダリア様との結婚を告げられるんだろうか。
目の前で私を見ているこのこげ茶の瞳は優しい。
その笑顔も優しい。
私は…自ら婚約破棄しようとしていた人間だ。
何を勝手なことを考えているのだろうか。
殿下が優しいのは同情だ。そうなんだ。
ここにいるのが楽しくて心地良くて忘れていた。
私は捨てられるように仕組んだ張本人だ。
私は目を閉じてゆっくり紅茶を飲んだ。
私はきちんと自分のしたことを受け止めよう。
殿下の前からは消えなきゃいけない。