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第二話「脱走」

取り合えず、書きたい様に書いてみた。

娼館に売られた日の夕方。ハウゼン等は早速、女主人監修の下、粧し込まれる。少女には薄い口紅と香料を、少年には香油を。客が喜ぶ様にその身を着飾るのだ。女主人がわんわんと泣き喚く子供の髪を引っ掴みながら、吠えたてる。


「いいかい、お前達!最初が肝心なんだ!いいね、お客は男であれ女であれ、初物を好む。特にウチは裕福層向けの高級店。普段味わえない若いのを中心に仕入れているから受けが良いんだ。泣くのも結構だがね!客に抱かれてからにしな!折角の化粧が取れたらどうするんだい!?」


彼女が叫ぶ度に泣き声が大きくなるが、後ろに控えている男の従業員がヌッと鞭を片手に睨みつけると「ひっく」としゃくり上げるだけで涙を我慢する様になる。一度、化粧部屋に運ばれる前に鞭の痛さを教え込まれたからだ。叫べば打たれる。簡単な躾だが、効果があった。少年少女達は素直に従業員達の手で素材を引き出す様な化粧を施される。ハウゼンもまた髪に香料を掛けられ、服装もそれなりに見栄えが良いものに変えられていた。


「君は泣かないから楽でいいね」

「‥‥‥」


ハウゼンの担当になった女性従業員は此処の売り子だったという。首元に輝く鉄枷が何よりの証拠だった。手先が器用で人当りが良いので多くが別店舗に売られる中、女主人が気にいり、手元に残したのだそうだ。「君もそうなれるかもよ」と微笑み掛けているのは少しでも希望を与えて落ち着かせるためなのかもしれない。


「うん。良い感じ。君、元々美形だから着飾ると貴族のお坊ちゃまみたいだね」


彼女は容姿を褒めた後「それにしても珍しい髪」とハウゼンの琥珀色の頭髪を撫でつけた。それが妙に擽ったいので、彼はその手を無愛想な表情のまま、払い退ける。


「あ」

「もう十分だろう」


ハウゼンは両手を拘束されたまま、ゆっくりと立ち上がる。女性は照れているのかと顔を覗き込むが彼が一切の気恥ずかしさを浮かべていないのを見るとむっと頬を膨らませた。


「ませてるね、君」

「貴方よりは年上だからな」

「ふふっ、何それ。冗談?」

「冗談に聞こえたのか?」



ハウゼンは「これ以上関わるな」と目線に軽く殺意を混ぜて睨み付ける。それだけで彼女は身を震わせて後退った。とても十二歳の少年がして良い目付きでは無かったからだ。動けないでいる女性従業員に女主人は舌打ちしつつ、ハウゼンの手を掴み引っ張る。


「ほら、そこ!準備が出来たらさっさと控室に行きな。もうじき予約されたお客様が来る。それまではそこで大人しくしているんだよ!」


ハウゼンは乱暴に背を小突かれ、化粧室を後にする。そんな彼の後ろには男の従業員が一人、付いて来ていた。彼と共に二階の階段に程近い一室に向かう。そこが控室だ。指名された奴隷の売り子は此処でその時まで待機しているのが決まりだ。当然、部屋にも明り取り窓はあるが、逃亡防止の鉄格子が嵌められている。


「此処で待ってろ」


男はそれだけ告げるとハウゼンを室内に入れて、部屋の前に立った。この男は最終的に客室の前まで付いて来て、その行為が安全に終わるまで空気の様に突っ立っているのだ。何か騒ぎがあればすぐさま室内に突入する役目を担っている。ハウゼンは静かに待機しながらこれからの脱走に付いて思考を巡らせていた。


(まずは客だ。過去の通りなら私を始めて買ったのは肥満体型の女性だったな。おぞましい相手だった)


幼気で無力な少年をいたぶるのが趣味の変態だったはずだ。殺すのに何の躊躇ないもない。ハウゼンとしては嫌な記憶ではあるものの、当時の事を鮮明に覚えている分、対策が立てられた。


(確か、あの女は非力そうなこの身体を見て従業員に手枷を外す様に言ったのだ)


自分で屈服させたかったのだろう。嗜虐思考のある奴に多い悪癖だ。だが、そこが付け入る隙になる。動作を確かめる様に軽く指を鳴らす。手枷さえなければ恐らく問題なく殺れるだろう。見張りも室内に誘き出せれば不意を付ける自信はあった。逃亡ルートは既に把握している。午前中、施設を案内された時にそこが前と変わっていない事は確認済み。決行は今夜だ。ハウゼンが決意を新たにしていると扉が開いて、屈強な男の従業員が顔を出す。


「出番だ。八号室に向かうぞ」


表情を読み取られぬ様に俯きながら、男に付き従う。手枷の鍵はコイツが握っているのだ。

怪しまれたらそれだけで面倒になる。今は無力な姿を演じなければならない。階段を上がり、二階の突き当り。悪癖を持つ客のために壁が一段厚く作られた部屋が目的地だ。男従業員がそのドアを静かに二回ノックする。


「マダム。連れて参りました」

「入って頂戴」


ねっとりとした低い声が返り、ドアが開かれる。中でベッドに腰かけ待っていたのは豪奢な夫人と言った格好の女性。分厚い脂肪を隠す様にゆったりとした衣服と厚い化粧をしていた。部屋に充満するのはキツイ香水の匂い。ハウゼンは思わず顔を顰めた。


「あらぁ、その子が今日入ったばかりの新人さんね」

「はい、マダム。ほら、挨拶しろ」


男性従業員に小突かれ、ハウゼンはマダムを直視しない様にして、なるべく平静に返事を返す。しかし、奴隷商人に見出され、娼館で見栄えを磨かれたハウゼンの容姿はその様な事で曇るものでは無かった。彼の美しい瞳と琥珀髪に吸い込まれたマダムが手を叩く。


「まぁ‥‥‥良いわね、良いわよ!これは期待以上ね!」


感極まった様に立ち上がったマダムはノシノシとハウゼンの下まで歩み寄ると顎を掴み、嫌がる彼の顔を見下ろす。そして、ニタリと笑みを深めた。


「そこの貴方」

「はい」

「この子の手枷、外して貰える?」

「しかし‥‥‥」

「安心しなさい。内緒にしてくれればいいの。貴方にもボーナスはあるわ」


マダムが服のポケットから数枚の銀貨を取り出すと男性従業員の胸ポケットに押し込んだ。それだけで男はコロリと態度を変え「なら問題ありません」と頷くとハウゼンの手枷に鍵を差し込んで外した。鍵束がゆっくりとベルトに戻される。その動きをハウゼンは横目で静かに追った。


「ではこれで」


男は外れた手枷を片手にマダムに会釈して部屋を退出する。この店で横行している公然の秘密であった。子供なりの弱々しい抵抗を期待しているのだろう。こうした趣味を持つ者に密かに応える事で従業員はチップを得ているからだ。


「さて、邪魔者も消えた事だし。楽しみましょうか、坊や」


振り返り、厭らしい笑みを湛えたマダムに対してハウゼンはその場で軽く跳ね、動きを確かめると彼女を鼻で笑う。


「嫌だね」

「なっ、この!」


マダムが怒りに任せて平手打ちしようと手を振りあげたタイミングでハウゼンは姿勢低く走り出すと驚く彼女の真下で跳ね上がり、彼女の顎下を平手で打ち抜く。視界がぼやけ、たたらを踏むマダムに追い打ちを掛けるハウゼン。覚束無い足先を踏みつけ、腹部に膝蹴りを叩き込む。


「ゲェッ」


蛙を潰した様な低い悲鳴と共に口から吐瀉物が噴き出るが、それを気にする間もなくふら付く脚を払われ横転してしまう。マダムはそのまま両肩を踏みつけられ、身動きを封じられた。第三者が居れば余りの手際の良さにハウゼンを見て目を瞠ったであろう動きだ。彼は僅かに掛かった吐瀉物を「汚いな」と上着で拭い、それを脱いで紐を作り出す。状況を読めず、苦しそうに呻くマダムは目の前の少年に擦れた声で疑問を呈した。


「ど、どうして、なんで、私が‥‥‥貴方、一体‥‥‥?」

「どうして、か。身を護るためだ。当然だろう。貴様は『嫌だ』と言ったら止めたのか?」

「ッ‥‥‥」

「なら、それが答えだ。精々今までの行いを悔いると良い」

「まっ、アガッ、イギッ!?」


ハウゼンは上着で作った紐をマダムの首に巻き付け、締め上げる。彼女は振り解こうと身を捩るが、元々太っていた性もあって両肩を抑えられては起き上がる事が出来ず顔を苦しそうに顔を赤く染める。やがて暴れていた手足は力を無くし、顔は真っ白になって泡を吹いていた。そこで漸くその場をどいたハウゼンは軽く息を吐きながら肩を回す。


「‥‥‥思ったより動くな。一撃で昏倒出来ないのは仕方ないが、子供の身体というのも敏捷性に富んでいて存外悪くない」


痛めた手首を労わりつつ、ハウゼンはドアに目を向ける。今のでバレないかという一抹の不安があった。だが、どうやら見張りは気付いていないらしい。


(まあ、当然か。このマダムは荒っぽいやり方が好みで防音性の高い八号室をお気に入りにしているくらいだ。少々騒いだところで問題ない。あるとすれば叫んで助けを呼ばれる事だったが、流石にそんな隙は与えない)


ハウゼンは勝者の特権と言わんばかりにマダムの私物を物色し始める。先ほどの従業員のやり取りを見て金銭があるのは確認済みだからだ。彼としては逃亡資金が欲しかった。金さえ積めばこの首の枷を外す協力者も居るかもしれないからだ。


「結構持ってるな」


ハウゼンはマダムのポケットから財布を見つけ、中を覗くと金貨が二枚、大銀貨が六枚、銀貨が二十枚入っていた。この裕福層向けの娼館は一晩銀貨八枚からの利用のため過分と言える。ハウゼンはその財布ごとシーツを噛み切って作った紐で腹に括り付ける。そして、余った布を素足に巻き始めた。靴が無いからだ。足裏を保護するためにはこれしかない。


「後は化粧品に、香水。書類に、手紙‥‥‥っとこんなモノまで持ち込んでたのか」


マダムのバックから出てきたのは刃渡り二十センチ程の短刀だ。どうみても護身用だが、大体こういう娼館では刃物の持ち込みは禁止とされている。その辺りは厳格に取り締まられているはずなのだが‥‥‥常連という事で顔パスされたのかもしれない。


「どちらにせよ、使えるな」


ハウゼンは鞘から刀身を抜き、刃が潰されていない事を念のために確認した後、ドアの前に立った。次やるべきは見張りの排除だ。相手は屈強な男で荒事に慣れている。不意を突かなければ難しいと思っていたが、思わぬところで武器が手に入ったため、難易度は下がるだろう。ハウゼンはドアの前に立ち、二回続けてノックした。これがこの店でのルール。客と従業員同士で用事がある際の合図だ。


「は、はい!マダムっ」


耳を当てればドアの向こうから少々慌てた声がくぐもって聞こえてくる。行為が終わるには早過ぎて予想していなかったのだろう。好都合だ。


「失礼します、ご用件は‥‥‥」


扉越しに尋ねてきた事を確認して、ハウゼンはゆっくりとドアを内側に開いた。男性従業員は解答も無いのに開いた事に訝しみつつ、室内を覗き、そこでマダムはこと切れているのを知り、目を見開いた。


「なんだ、一体何がッ!?」


そちらに注意が逸れた隙を突いてドアの裏で息を顰めていたハウゼンが壁を蹴って男の頭に飛びついた。そのまま、両足で太い首を拘束し、左手で顎上げさせながら口を塞ぎ、右手に持つ抜き身の短刀で素早く喉元を切り裂いた。


「カヒュ――」


声を上げる間もなく喉を掻き切られた男は僅かに痙攣した後、部屋の内側に膝から倒れ込んだ。ハウゼンはその死体を蹴り飛ばし、再度ドアを閉める。冷や汗を拭い、ハウゼンは見張りの胸ポケットから銀貨を、ベルトから鍵束を手に入れた。


「さて、此処からは時間との勝負だ」


ハウゼンは廊下の様子を伺い、娼館の屋根裏部屋(・・・・・)を目指して駆け出した。



少女は一人、窓から差し込む町の灯りを見下ろして目を細めていた。此処はとある娼館の屋根裏部屋。折檻室として扱われている此処では女主人の機嫌を損ねた奴隷が鎖で繋がれ、鞭で打たれ、拳を振るわれる場所。屋根を支える支柱に括り付けられた彼女は春先の寒さの中、素肌同然の貫頭衣姿だった。体中に残る痣が僅かに発熱して、漏れ込む外気の冷たさを誤魔化してくれる。しかし、


「へくっち」


突然、ブルリと身を震わせてくしゃみが飛び出る。どうやら誤魔化し切れてなかったようだ。耳が垂れ下がり、白い尻尾が力なく伏せる。彼女は獣人。猫族の獣人であった。帝国が領土拡大のために始めた南部亜人統一戦線終結から二十年。戦争の敗北者である獣人達は帝国の支配領域に置かれていた。亜人、という蔑称を与えられ、蔑まれた彼等は帝国の特産品、質の良い奴隷として人気を博していたのだ。勿論、公式には帝国の民という扱いになっているが、事実重い課税を掛けられ、半強制的に奴隷堕ちさせる悪質な統治が続いている。


少女の集落もそんな重税に耐えきれず、彼女を手放す事になったのだ。少女が奴隷として売られたのは数か月前、家族とも引き離され、金貨数枚で売られた。十一歳には過酷な運命だ。されど、彼女は決して諦めようとはしなかった。悪意に屈せず、暴力に屈せず、曲げる事のない強い意志で抗ってきた。何時か逃げ出してやる、と決意を固めて売られた先で暴れたのだ。


「じゃじゃ馬」と評され、二つの店を経由した後、とある奴隷商人の手でこの娼館に辿り着いた。此処でも反発して見せたが、ご覧の有様だ。他の店よりよっぽど厳しい対応である。


(風邪引いたらどうしよう)


温暖な故郷の南部とは違い、帝国本土に程近いこの港町は外気が冷え込む。薄着だと痩せ我慢も限界があった。けれど、人間の男に金で股を開くなど彼女のプライドが許さない。彼女は誇り高い、獣人族なのだから。そんな少女の耳に聴きなれない静かな足音が届く。


(床が軋んでない‥‥‥?)


折檻室になっている屋根裏部屋に入るのは何時もドカドカと足音の煩い女主人か、従業員ぐらいなものだ。皆、大人なので大概床材が重みで軋むのだ。けれど、ドアの前に立つのはもっと静かな気配だ。出入口に目を凝らせば開錠する鍵音が響き、ゆっくりとドア開く。


「さて、と」


堂々と入室してきたのは奴隷の首枷を付けた少年だった。琥珀色の髪、静謐を宿す青い瞳。凛とした立ち姿はその服装も相まってか、不思議と風格があった。呆然と仰ぎ見ていた白猫の少女と琥珀の少年の視線が絡む。途端に彼の目が一段と細まるのが分かった。彼はドアを閉めるとゆっくりと此方に近寄ってくる。


「フーッ!」


威嚇の唸り声を上げ、耳を突き立て、尻尾を逆立てる。拘束された状態で精一杯睨み付ける彼女に少年は苦笑を浮かべ、立ち止まった。見れば彼の袖口は赤く染まっており、手には短刀が握られていた。ドキリと心臓が跳ね上がるのが分かる。どうやってかは知らないが、彼は娼館に刃物を持ち込んだのだ。そして見張りを殺して此処まで来たのだと少女は察した。


「貴方、一体誰なの‥‥‥」


まだ成人すらしていない幼い子供が客を殺し、屈強な見張り殺し、脱走する。そんなの前代未聞の大事件だ。傷害事件を起こして店を移動してきた彼女だから分かる。普通じゃない。

睨み付ける視線と裏腹に白い尻尾が不安げに揺れた。そんな彼女の心情など露知らず少年は「そうだな、これは忌み名なんだが‥‥‥」と言いながら短刀を彼女の鎖に突き立てた。


刃先は鎖の脆い部分を砕き、火花を散らす。膝を付く少年の目が少女を捉えていた。


「私はハウゼン。奴隷騎士ハウゼン・ファーンだ」


少女は少年の目に魅入られた様に息を飲んだ。



ハウゼンが部屋を出た後、二階の部屋では他に二部屋が使用中であり、廊下に二人の従業員が立っていた。しかし、職務に忠実という訳ではない様子で二人して立ったまま話し込んでいる。この店ではよくあることだった。ハウゼンは足音を殺しながら素早く階段を駆け上がり、続く三階も登り、屋根裏部屋へと向かった。


地下室の無いこの娼館では屋根裏部屋が折檻室として扱われており、客に迷惑を掛けた者、女主人を怒らせた者などが此処で罰を受ける。顔に怪我さえ追わせなければ良いの精神で鞭や拳を振るわれるので、大抵の者は心折れて従順になってしまう。だが、ハウゼンの知る限りその罰を耐えきって尚、最後まで暴れた人物が一人居る。獣人の少女だ。



(しかし、彼女の場合、数日後に脱走失敗で死ぬ事になっていた。分かっていて死なせるのも目覚めが悪い)


少女の死はハウゼンにとってみれば一種のトラウマ。大人達に抗えば自分達はいとも容易く殺されるという象徴になる様な出来事だった。それを消し去れるのは割かし気分の良いものだ。ハウゼンは屋根裏部屋から下りてくる見張りを階段の途中で刺し殺し、自分の身体をクッションに音を和らげる。血油を男の衣服で拭い、屋根裏部屋のドアに立つ。


事前に入手した鍵束を取り出し、開錠。室内へと足を踏み入れた。中は埃っぽく、そして薄ら寒い。古い館だ。隙間風が入ってきているのだろう。中には折檻に必要な道具が一通り揃っており、どれも使い込んだ後がある。町の灯りと月明かりのみが頼りのこの部屋は暗く廊下からの灯りでハウゼンの影が伸びる程だった。


「さて、と」


目的の場所はすぐそこだった。脱走用に使う予定の壁面は長年手入れがされておらず、隙間風が侵入してくる程に崩れかかっている。かつてのハウゼンは此処で働かせられていた時、室内の掃除を命じられ、知らずに誤って壁面を崩してしまったのだ。長年放置された性で風化が進んでおり、子供が強く押した程度で壊れる耐久度。当然、すぐさま修繕が施され、壊したハウゼンは女主人に鞭で激しく打たれた。嫌な思い出だ。


(だが、お蔭で鮮明に記憶に残っている。押して崩れる箇所は小さいが、子供の身体なら通り抜けられるサイズだったはずだ。下で脱走に気付いて騒ぎ立てても流石にすぐには気付かれないだろう。そして‥‥‥あの子がそうか)


ハウゼンは目を細め、暗闇から目を光らせ此方を睨み付ける少女に歩み寄った。やがて互いの表情がはっきりと分かる距離にまで近づくと少女が少し怯えている事が分かり、苦笑した。流石に血痕の後が残る衣服を着て、刃物を持つ男が来るのは怖いと見える。


「貴方、一体誰なの‥‥‥」


少女の問いに、ハウゼンは膝を付き視線を合わせながら答える。忌み名ではあるものの、今の自分に相応しい名を。


「私はハウゼン。奴隷騎士ハウゼン・ファーンだ」


彼女を支柱に束縛する鎖を断ち切り、そう告げた。途端に彼女の目が一瞬、輝いたのが分かる。何か、琴線に触れたのだろうか。ハウゼンは深く追求する事なく、立ち上がると傷だらけの少女に手を差し出した。


「名は?」

「や、ヤスハ。猫族のヤスハ」


ヤスハと名乗った白髪の少女はハウゼンの手を掴み立ち上がる。奴隷、傭兵として大陸に広く分散する獣人族。その産出源となっているのは帝国南部アルネロイ地方からずっと南端に下った場所だ。そこにはかつて獣人達だけが暮らす楽園があった。最も、帝国に目を付けられ今は冷遇された統治下と聞く。彼女もそんな境遇から奴隷に堕ちたのだろう。


「そうか、ヤスハ。私は今から此処を脱走するつもりだ。君も逃げたいか?」

「っ、逃げる!私、こんなところに居たくないもの!」

「なら付いて来い。この町から逃げるところまでは協力しよう」

「うん!」


ハウゼンは鍵束から手枷の鍵を選び出し、彼女の手を自由にする。鍵束を持っている事に「う、奪ったの?」目を丸くする彼女だったが、ハウゼンが当然の様に「ああ」と答えるので深く尋ねはしなかった。二人はハウゼンがかつて見つけた壁面の風化部分の前に立つ。ちょうどその頃、真下から女性の悲鳴が上がった。どうやら、ハウゼンが殺した奴等が見つかったらしい。思ったよりも早かった。


「急ぐぞ」

「でもどうやって、出るの?」

「壁を壊す」

「え?」


目を瞬かせるヤスハを後目にハウゼンはシーツを巻いた足で壁の一部を蹴りつける。それだけで壁がボロボロと崩れ、穴が出来た。外への脱出口だ。


「嘘‥‥‥」

「行くぞ」

「あ、待ってよ!」


ハウゼンはヤスハを伴い、隣の娼館の屋根に飛び移る。そして屋根伝いに移動を繰り返していると、後方の娼館から女主人が上げる怒号が響き渡った。


「逃がすな!絶対に捕まえて落とし前を付けさせるんだよ!」


店から従業員と思われる男達がわらわらと飛び出してくる。彼等は周囲を見渡し、屋根を伝うハウゼン達を見つけて指さすと大声を上げた。どうやら簡単には逃がしてくれないようだ。ハウゼンは軽く舌打ちすると「どうするの!?」と焦るヤスハの手を引き、人混みに飛び込む。


「クソ!逃げ足の速い餓鬼だ!」

「絶対に逃がすな!追え!」


迫る追手を撒くため、何度も路地を曲がり、一人、また一人と追跡を躱していく。ハウゼンは子供特有の小さな体躯と俊敏性を活かして細い道を、混雑する人混みを掻き分け移動していた。やがて声ばかりで足音が聞こえなくなった頃、荒い呼吸を繰り返す二人は遂に色町と商業区の境にまで来ていた。


「此処までくれば……大丈夫、でも無いか」


主人を同伴していない奴隷二人に周囲から奇異の眼差しが集まる。脱走奴隷とばれると厄介なので「行くぞ」とまだ呼吸の整わないヤスハの手を引き、人通りの少ない路地へ移動しようとした所で、ふらりと目の前を通った男とぶつかってしまう。流石に倒れるへまはしなかったが、軽く態勢を崩してふらついてしまった。


「おお、悪りぃな坊主。ちょっと酒が抜けてなくて」


その様子が見えたのだろう。ぶつかった相手、酒で顔を赤らめた傭兵風の男がヘラヘラと謝ってくる。良い事でもあったのか、いやに上機嫌だった。ハウゼンは関わるまいと「気にしてない。もう行くから」とその場を離れようとしたが、その素っ気居ない態度が仇となった。男の手がヌッと伸びてきてハウゼンの腕を掴んだのだ。


「連れない事言うなよ。詫びに酒の一杯でも奢るぜ。なんせ俺は今、機嫌が良いからな!なっははは!……は?」


高笑いする男は掴んでいた少年の手に違和感を覚えて目を向け、その手が血で赤く染まっている事、少年が首に鈍く輝く鉄枷を填めた奴隷である事に気づき、目を細めた。


「お前、脱走奴隷か?」

「ッ……!」


瞬間、弾かれた様にハウゼンが動いた。隠し持っていた短刀を素早く抜き去ると傭兵の男に腕を掴まれたまま、跳ね上がりその首目掛けて刃先を振りぬいたのだ。初動から微塵の迷いも無く放たれた一撃は瞠目する男の首を容易く描き切る――かに見えた。


「あっぶねぇ」

「な!?」


しかし、その直前で伸びてきた分厚い手が刃先をつかみ取り、攻撃は防がれる。まさか封じられると思ってもみなかったハウゼンは驚き硬直してしまった。そんな彼に傭兵の男は「お灸を据えなきゃな」と楽しそうな笑みを浮かべ、掴んでいた手を振り解くと無防備な顔面に鉄拳を全力で叩き込んだ。早過ぎる拳速に反応出来ず、もろに食らったハウゼンは地面を転がりながら路地裏の殻樽に盛大にぶち当たる。


「ハウゼンっ!?」


ヤスハが思わず抱き起そうと駆け寄るが、必要ないとばかりに彼女を押しのけ、口元を拭うハウゼンがゆっくりと立ち上がる。彼の背からパラパラと樽の破片が零れ落ちた。桁外れの拳の威力がその様子から伝わってくる。只者ではない。ハウゼンは短刀を逆手に持ち、構えた。


「今ので気絶しないのか……お前、ウチの団員より見所あるぜ」

「黙れ、筋肉達磨」


憎まれ口を返すハウゼンは周囲に目を配り、どうにかこの場を脱出する方法を探るが目の前の男がそれを塞ぐ様に位置取りを変えてくる。逃がしてくれる気はないようだ。内心激しく毒づきながらハウゼンは傍にいるヤスハに声を掛ける。


「すぐに終わらせる。それまで隠れていろ」

「う、うん」


此方を見下ろしニヤついた笑みを浮かべる傭兵の男に向かってハウゼンは駆け出した。


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