ある朝、俺は天使と出会った。
城の早朝、まだ朝もやが立ち込める時間帯。さくさくと草を踏みしめて、庭を歩く。
魔法が使えるこの世界では、王族ともなれば一級の魔力を持つとされている。だと言うのに、俺は王子でありながら、どちらかと言うと剣の方が好きで、朝のきりっとした空気の中、剣を振るのが好きだった。
そんな朝練の為に庭を訪れた俺、エドガーは天使を見たのだった。
城の庭に降りる早朝のテラスに、その天使は立っていた。向こうを向いていて、こちらからは顔が見えないものの、ふわふわした髪は、薄い金色。プラチナブロンドと言うのだろうか。朝の光の中、髪が透けて見えるような、美しい光景。纏うワンピースはふわりとした白で、レースがいっぱいの、とても女の子らしいものだった。もっと近くで見たくて足を一歩踏み出す。すると足元でカチリと小石が鳴った。その音に驚いたのか、その少女が、不意に振り向いたのだった。
「!」
振り向いた瞳の翡翠のような色の美しさは、俺の心を奪うには十分すぎた。
「あなたは…誰ですか?天使ですか?」
「………」
困ったような表情を浮かべる少女は、その場に立ち尽くしていた。
「無関係の人間が、こんな城に、簡単に入れるわけがない…客人が来ていたら、俺は分かる立場の者ですから」
そう、俺はこの城に住む王子だから。
今、この城に来ている客は、隣国の王族、国内の侯爵家くらいのはず。その誰もが、俺は知っている。だから、目の前の少女が、その客人の訳がないのだ。
「天使が、この庭に舞い降りたのですか?」
一歩、近寄る。すると、その少女は怯えた顔をして、ぱっと屋内に入って行った。
「あ、待って!」
慌てて追いかけるが、その部屋に入っても、その少女はすぐさま部屋のドアから飛び出していったのか、廊下につながるわずかに開いたドアが視界に入るだけだった。慌ててそのドアから廊下を覗いてみても、廊下はしんと静まり返っていた。
「夢…幻…だったんだろうか」
夜明けのかすかな光の中、佇む少女。年の頃は…どうだろうか、15歳の自分より少し下だろうか。印象的な翡翠の瞳、プラチナブロンドのふわふわとした髪、整った顔立ちの中に、ほんの少しの幼さを感じる頬。
また、会えるだろうか。
自分の指先から蛍のように、きらきらした光の魔法があふれていた。抑えきれない気持ちのように。
公務として、書類を確認していた俺の前に、静かな足使いでワゴンを持ってきた者が居た。
「ご機嫌麗しゅう、エドガー様」
今、目の前にいるのは、侯爵家令嬢のマリエッタ・レイネラ。一応、俺の婚約者に当たる。だが、俺はマリエッタに、あまり目をやりたくなかった。
彼女は、きっちりと結い上げた髪と、その髪を隠すようなチュールの付いたトーク帽をかぶり、分厚い眼鏡をかけた娘で、実年齢は自分より1つ下の14歳のはずなのに、そのいで立ちから、どうしても自分よりも年上に見えてしまうのだ。正直、その外見は口うるさい家庭教師に似ていて、苦手だった。そのマリエッタが、ティーセットを運んできた。休憩しようと言う事だろう。
「あまりご機嫌は麗しくない、黙って茶でも飲んでいろ」
「…畏まりました」
俺は、まぶたの裏に、天使の顔を浮かべるのだった。あの少女が、婚約者だったら毎日楽しいだろうにな…愛らしいドレスをたくさん贈ろう。甘く綺麗なケーキも良いな。そう思いながら、ちらりと目の前の婚約者を見る。きっちり結い上げた髪に表情の伺えない分厚い眼鏡、まるで家庭教師のようなモスグリーンのバッスルスタイルのドレス。ソファに座り茶を飲む姿は、伸びた背筋に指先まで気を付けられた所作、本当に俺より年下なのか?と思ってしまう。
昔から、俺は綺麗な女の子には弱い。マリエッタは、常にかっちりとした見た目で、どうにもこうにも苦手だ。そして今は朝の天使が気にかかる。
そう言えば、昔にも、とても綺麗な女の子を見た気がした。誰だっただろう。
そして翌朝も、天使は庭に居た。
「おはよう、天使さん」
「…?」
微かに首を傾げる姿も愛らしい少女。名前も知らないその少女を、俺は好きだと思った。どこか遠くを見ているような、夢見るような表情を浮かべる瞳が美しい。
「名前を、教えていただけますか。俺は、エドガー」
「!」
俺の名前を聞いた少女が、昨日と同じようにさっと部屋に飛び込む。昨日と違うのは、庭に通じる窓の鍵まで掛けられた事。
「な」
名前を聞いて、あんなにあからさまな拒絶をされるだなんて。彼女は…何者なんだろう?
家庭教師から授業を受けながら、俺は今朝の光景をぼんやり考えていた。あの天使は俺の名前を聞いて逃げ出した。王子と分かったからだろうか。王子である自分と、口をきいてはならないと思う身分なのだろうか。侍女やメイド…下働きか?いや、下働きの娘が、あんなレースのたっぷりのワンピースはなかなか買えないだろう。メイドも同様か。となれば、行儀見習いを兼ねた出仕をしている、下級貴族出身の侍女だろうか。
ちらりと、目の端に入るマリエッタの姿を見た。俺より先に課題を終わらせている彼女は、現在、分厚い本を見ながら何かを紙に書いていた。本は歴史書のようだ。
「勤勉ですね、マリエッタ様は。ああして、常に勉強しておりますよ」
「ふん、マリエッタは勉強以外には取り柄が無い女だからな」
話をしようにも、大したことは言えない。見た目も地味でつまらない。侯爵家の娘でなければ、俺の婚約者に名が上らないだろうに。
マリエッタが、せめてもう少し華やかな娘なら…。
しかしながら、マリエッタの両親は、どちらかと言うと華やかな外見をしている。マリエッタの幼い頃の事は?あんな野暮ったい眼鏡はいつからかけている?…思い出せない。
そして、その翌日。天使は居なかった。その後も何日も何日も、あのテラスに通ったが、会うことは無かった。
「もう、会えないのかな」
剣を握ってテラスを後にする。その後ろ姿をそっと見つめる人の存在を知る事なく。
分厚い眼鏡をかけた少女は、そのレンズの奥に悲しい光を湛えていた。
「婚約を解消したいですって!?」
俺は、母親である王妃に、そう申し出た。マリエッタを女性として見ることは、今後も出来そうになかった。心の中に天使があまりに大きな存在になってしまった。会ったのはたったの2回、しかも彼女の声を聴いた事すら無い。が、きっと城勤めをしている下級貴族の娘を洗えば出会えるだろう。マリエッタに白い結婚を強いるより、今、手を離せば、侯爵家の娘だ、良い縁があるだろう。あの天使を手に入れる事を夢想する。下級貴族の娘が王子と結婚は、難しいだろうが…無理でもないだろう、多分。
「マリエッタには一つも悪いところは無いのにね…。あの子は、貴方を慕っていると言うのに」
「マリエッタが?そんな訳がない」
普段喋る事もしないマリエッタが、自分を慕っている?そんな馬鹿な。
「マリエッタを呼んでちょうだい」
そうして呼ばれたマリエッタは、いつもと同じように、分厚い眼鏡にベール付きの帽子、露出の一切ない、14歳の娘らしさの無い格好をしていた。
「マリエッタ、お前との婚約は解消する」
「…そんな」
俺はマリエッタの顔をじっと見る。
…果たして、マリエッタの顔を、こんな風に正面切って見るのは、いつぶりだろうか。
そして、正面から見ているのに、何故、顔がぼやけて見えるのだろう。何故、いくらレンズが厚いからと言って、マリエッタの目が見えないんだろう。
「マリエッタ…エドガーは愚かにも、あなたと婚約を解消したいと言っているのよ」
「…王妃様…。私は、この国の将来の王子妃として、ずっと頑張ってきました。いずれ夫となる人と、尊敬しあえるように…夫の助けとなるように…勉強も、一生懸命…」
「…ええ。知っているわマリエッタ」
「ああ…!」
マリエッタは、母上に抱き着いた。小さく肩を震わせている様は、哀れとも言える。母上の隣に立っていた父上…国王陛下は、そんなマリエッタの震える肩に、そっと手を置いていた。
「俺は…愛しいと思った娘を、妃に迎えます」
「…エドガー、お前には失望した。自分の勝手で、そんな我儘で、国が決めた事を覆すのか」
「それでも!マリエッタを妃には、もう出来ません!」
マリエッタの肩から手を離した父上は、俺を正面から見据えた。俺は、父上をじっと見つめた。父の厳しい目が、自分を見ている。威圧感に圧倒されるが、心の中に天使を思い浮かべて耐えた。
「…そうか。分かった、意思は固いか…」
「はい」
「何を捨ててでも、その娘とやらを欲するか」
「…え」
父上は、悲しそうに目を伏せた。
「今日から、お前は王太子では無い、第二王子のイーサンを王太子とする。そして、マリエッタ…すまないが、お前をイーサンの婚約者にする」
「…」
声は無かったが、母上の胸の中でコクリと頷いた。
「な…」
「王家とレイネラ侯爵家との婚約、と言う形にしたまでだ。何の落ち度もないマリエッタに恥をかかせるわけにはいくまい」
「く…」
「これを使わずに済むことを、願っていた」
以前から、俺のマリエッタへの態度を見聞きしていたのだろう。父上は懐から書類を1枚取り出した。それは、俺とマリエッタの婚約を白紙にすると言う、王命の証書。既に父上と侯爵家のサインと印が押され、後は俺のサインのみとなっていた。そして、そのサインを拒む権利は、俺には無い。
その証書に震える手でサインをする。こんな紙1枚で、俺とマリエッタの関係は終了し、俺は王太子でなくなる。
サインを終えると、父上はそれをくるくると丸め、懐に仕舞う。
「廃嫡にされなかっただけ、良しと思え」
「…!」
「それで。お前がそこまで思い入れる娘とは、誰なんだ」
「…判明しておりません」
「…は?」
父上が、珍しい顔をしていた。大きく口を開けて。あんぐり、とはこの顔の事か。
「お前、誰か分からない娘の為に、マリエッタとの婚約を解消と言うのか」
愚かな。と言う感情が声に混じっていた。
「おそらくは、この城に勤める貴族の娘です。ふわふわした薄い金髪に翡翠の瞳の、美しい少女です」
「…お前…それ、まさか…」
父上は、母上に向かい、一つ頷いてみせた。
「マリエッタ、ごめんなさいね」
「え?あ!」
母上は手早く、マリエッタの帽子を取り、結われた髪を解く。くるくる渦巻いて落ちた髪は、ぼわりとボリュームを持った。そしてマリエッタの眼鏡を外すと、マリエッタの肩を持って、こちらに向かせた。
「この娘か?」
そこには、翡翠の瞳を涙で潤ませた俺の天使が立っていた。
「マリエッタはね、貴方の為に必死で勉強をして…視力を悪くしてしまったの」
婚約者となったのは、10年前。まだ4歳の少女が突然、王子の婚約者にされた。家でも王城でも、マリエッタは幼いうちから様々な事を詰め込まされた。勉強に勉強を重ねて、暗くなっても薄暗いランプの中で勉強して。そうして6歳になる頃には眼鏡が手放せないようになってしまったのだと言う。
「そしてね。眼鏡姿を貴方に悪く言われたのよ。マリエッタ、とても傷ついたのよ」
俺、そんな、傷つくほどの心無い言葉をかけたのか。
「それで、マリエッタは眼鏡に認識阻害魔法をかけてもらったのよ。自分の顔を良く見えないようにして、そうすれば顔を見て悪く言われる事も無いだろうって」
「そ、うだったの…か」
「髪をきつく結うようになったのも、あなたのせいよ。ふわふわのこの髪が、ぼさぼさして見苦しいって。その頃、あなたが好きだった女の子がストレートヘアだったから、なんだけどもね…。服装だってそう。眼鏡姿に可愛らしい衣装は似合わないと、貴方が言った。だから、本当は可愛い服が好きなのに、部屋着くらいしか着られなくなってしまったのよ。マリエッタに悪く言うのはやめなさい、優しくしなさい、大事にしなさいと、あれほど何度も言ったのに」
そう言えば、初恋の女の子が居たな。きれいなストレートヘアの子だった。
そして母上の言葉も、今にして思えば、あまりに軽く聞き流していた。マリエッタに嫌がらせをしている自覚など、自分に無かったから。
「そうだな、マリエッタから直接言われた事は一度も無かったが、世話係の報告書から、お前がマリエッタを家来か何かと勘違いしている節を何度も目にしてきた。そのたびに、お前に何度もその勘違いを正せと言ってきたのだがな…その場だけ取り繕って、本質は変わらないのだな…」
「王子、私…見た目の事を色々言われたけれども、勉強を頑張って、貴方を支えられるようになったら私を認めてくれると思っていました」
天使…いや、マリエッタが話す。普段、あまりじっくり話したことは無いから声の印象があまり無かった…こんなにきれいな声だと感じるのは、天使だからか?
「けれど、王子にとって、価値を感じるのは見た目だけ。私がどれほど勉強を頑張ってみても、小賢しいだけなんですね」
翡翠の瞳から涙が一つ流れる。あまりに綺麗で、手を伸ばす。届くはずのない距離なのに。
「たったの2回。私は眼鏡が無ければ、ほとんど何も見えないから、最初にテラスで声を掛けられた時、誰か分からなくて逃げた。二度目に会った時、貴方が名乗ったから、私は驚いて…。貴方が私に、あんなに優しい声で話しかけてきた事なんて無かったから」
マリエッタが俯く。
「だから…貴方だと信じられなくて…信じたくなくて。だから、次の日は眼鏡をかけて、上から見ていた。その次の日も、次の日も、テラスの上から見ていた。『天使』に会いに来る貴方を。私自身がライバルなんて、何の冗談なの」
その後。
マリエッタは第二王子のイーサンと結婚し、二男二女の子を産みつつ、賢妃との名高い王妃となった。
その頃には、開発された魔道具でマリエッタの視力は矯正された。俺が好きな天使は、どんどん美しくなり、今や女神となった。
しかし、近くに居ながら、決して手の届かない存在になってしまった。
幸せは手の中にあったのに、それに気付かなかった、愚かな男の物語。
王子が面食いのせいで自滅する話。普通はたったの2回、姿を見かけただけの女の子のために婚約を解消なんてしないと思うし、こんな事言い出したらブン殴られると思う…。(剣を振る練習しているので、殴ったら殴り返しがすごい事になってしまうのかもしれないけれども)
マリエッタの髪は、ハ○ポタの第一作目のハ○マイオニーの髪くらい、と思っていただければ。(個人的にはあのフワフワ髪は可愛くて好きです)