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-雀ヶ森惠*短編集「地獄の季節」-

私と戦乙女の存在理由

作者: 雀ヶ森 惠

 私がそのカフェでコーヒーを飲みながら絵の構図を練るのは、そこのコーヒーが美味しいからでもなく、かかっている音楽が好いからでもなく、マスターの会話が軽妙だからでもなく、軽食が美味しいからでもなかった。

 むしろコーヒーは酸味に過ぎたし、音楽はただの有線放送で、店員は大学生のバイト、軽食は冷凍食品に過ぎなかった。

 にもかかわらず、私がカフェに通い続ける理由は家で作業ができない、ただそれだけだった。

 席は決まって奥まったテーブルであり、ここに来れば喋らずに済み、私は絵に懸りきりになれた。

 私は何ひとつ取り柄のない人間で、描く絵もぱっとしなかった。(と、私は思っていた)

 にも拘らず絵を描き続けているのは、それが金になるからだった。

 自己の評価は他者の評価と必ずしも一致しない、自分にとってこんなモノが、というモノの方が評価されるのだ。

 正直私は私の絵が嫌いだった。

 陳腐で、容易に再生産可能で、ピンナップ的な。

 昔はこうではなかった、誰も称賛などしなかったが私は私の絵に満足していたのだ。

 何故変わったのだろう? 結局、金になると言われて絵柄を転向したのが原因に違いなかった。

 しかし過去に描いていたような、瑞々しく美しい絵を私は二度と描くことはできなくなっていた。

 いわば私は生ける屍であった。

 それでも現在の陳腐化した絵に惜しげもなくカネを払うクライアントは存在するし、彼等が私をこのカフェに通わせているようなものだった。

 だがここの他の客(頻繁に遭遇するのだ)に、

「お上手ですね」などと声を掛けられても私は、

「ええ」とお茶を濁すしかなかったのだが――


 ()()は違っていた。


「絵を描かれるのね、そう、当世風のひどく陳腐な、個性のない絵」


 ある年の瀬であった。

 テーブル越しにずけずけと物を言われて、私はひどく衝撃を受けてシャープペンシルを動かす手を止め、声の主を見遣った。

 そこに居たのはかつての私の絵のような美しさを持った、否、妖しさを持った若い一人の女であった。

 赤茶けた色に染めた癖毛を肩に付く前に切って、硝子玉のような()と少しぼってりとした唇をした。

 私は何か答えようと、言い訳しようとしたのだが彼女はお構いなしに二の句を継いだ。


「貴方、個々のリビドーに幅広く対応する無個性さの再生産には飽き飽きしてないの?」


「ちょっと、随分絵には一家言あるみたいだけど私は玄人だよ?」


 私がそう言うや否や、彼女は無言で席を立ち自分の分の会計を済ますとカフェを出て行ってしまった。

 釈然としないまま取り残された私は居心地の妙な悪さから、それ以上その『陳腐な』モノを描き続けることが出来なくなって、結局帰宅するしかなくなった。

 自宅はカフェからほんの数分の場所にあった。

 否逆だ、カフェが自宅から数分の場所にあるのだ、あまりのカフェ通いのためか殆ど着彩作業以外で自宅にいることは稀だったし、それは大抵夜だった。

 お陰で部屋は荒れ放題だ。

 珍しく自宅で私はデッサンをした、あの彼女――昔描いていた絵にあまりに印象が似ているのだ。

 しかし彼女の横顔をいくら思い出そうとしても、それは泡沫(あわ)のように消えてゆき、まるで失った昔の絵柄を再現するようで、どうしても再現して捕らえることが出来なかった。


 真っ赤に染まる空の下、雪原が照り返しを受け桃色に輝いている。

 雪原には小さな足跡が点々と続いていた。

 何故その空が赤いのかは分からなかった。

 太陽も月も、この空を照らし出してはいなかった。

 見渡す限りの雪原は空に解ける前にきらきらとした靄もやとなり、消えていた。

 そこに私はたった一人立ち尽していた。

 私はカラスのひどく耳障りな鳴き声を聞いたかのような気がしたのだが、それも静寂の雪原へと吸い込まれてゆき、最初から何も聞こえないかのように、カラスなど存在しないかのように消えて行った。

 そしてその小さな足跡はやはり小さな私自身のものであることがわかると、わたしはこんなにも一人だということに恐怖した。


 目を覚ますと私は恐怖に慄きながらペットボトルの水を飲み、あのような夢を観たのは昨日の、赤毛の女が原因に違いないと勝手に結論付けた。

 髭を剃ると私は出かけ、再びあの行きつけの安カフェの扉を引いた。

 ところが私がいつも座る筈の奥のテーブルには、昨日のあの女が先に座っていた。

 私がそこへ入っていくと、


「出ましょうか」


 そう言って飲みかけの酸っぱいコーヒーを置いたままに伝票を手に取ると、彼女は席を立った。

 黒いファーの付いた黒いコートを羽織る。

 私は彼女と約束をしていると勘違いされたらしく、レジまで歩かされるといつまで経っても人の顔を憶えない学生バイトに、金を払うように促された。

 千円札を一枚払って釣りを受け取ると、彼女を追いかけるしかない私は後を追った。


「なんのつもりだ?」


「絵が描きたいのでしょう? もっといい環境に連れて行ってあげる。着いてきなさい」


 仕方なく私は彼女に着いていくことにした。


「同じ金を払って居座るならもっといい店を教えてあげる、ただし貴方の客層はガラリと変わるでしょうけれど」


「どういう意味だ?」


「昔みたいな絵が描きたくないの? 今の絵は本当に描きたい絵なの?」


「カネになりゃいいんだ、描きたいかなんて中学生じゃあるまいし、遣りたいことを仕事にしようだなんて子供――」


 私は絶対に彼女に横面を張られると思って覚悟したが、一向に何もなかった。

 代わりに彼女はこんな言葉を投げかけてきたのである。


「時代が追いついた、なんて絵柄や作品は沢山あるわ。それに昔の絵なら描く喜びも段違いでしょうよ」


 そうして彼女は足を停めた。

 この間にも結構な距離を歩いていたようだ。

 何のことはない雑居ビルであった、看板も何もない。

 オイル臭いエレベーターに乗ると五階で彼女は降りた。


「マスター、例の話していた男よ。連れてきたわ」


 そこには小さな黒板に『珈琲 甘い罠』という店名が書かれている、看板も表示も何もないカウンターのみの喫茶店があった。

 店主は喫茶店のマスターというよりも、傷病兵のような壮年の痩せた男だった。


「いらっしゃい、アンタが彼女の話していた絵描きかい?」


「私のことを話していたんですか」


「そう、()()()()()ね一杯コーヒーをサービスしよう」


「ありがとうございます」


 怪しげな店だが、コーヒーの好い香りがしたし、ケーキの甘い匂いもした。

 存外、当たりなのかもしれない。


「貴女は何を?」


「同じものを頂戴、あと今日のケーキ」


 コートを脱ぎながら彼女は答えた。

 調度は最低限だが『甘い罠』では趣味の好い音楽がかかっていた、クラッシックかなにかだろう。

 コーヒーと彼女の前にはケーキが運ばれてきて――これは手作りのようだ。

 私はそれに口を着けたが、これは前のカフェのコーヒーは二度と飲めないような馥郁(ふくいく)たる味わいであった。

 彼女は目の前に供されたミルクレープにフォークを刺していたが、こちらも美味そうにしか見えなかった。


「どう、こんな喫茶店もあるの、ここなら描けそう?」


「わからないが描いてみよう」


 結果は言うまでもなかった。

 私は過去の絵を取り戻し、怪奇、幻想の芸術に再び耽溺することとなった。

 例えば彼女の横顔。

 例えば奇怪な人骨で出来た列柱が再生産される様。

 例えば自然が作り出した、最も(おぞ)ましい者。

 例えばカラスのいる赤い空の下、雪原を巡る物語。

 それらがこの『甘い罠』のカウンターでは容易に描画出来た。

 もう意に沿わぬ絵は描かなくて良い、私は彼女に別れを告げると嬉々として帰宅した。


 真っ赤に染まる空の下、雪原が照り返しを受け桃色に輝いている。

 雪原には小さな足跡が点々と続いていた。

 何故その空が赤いのかは分からなかった。

 太陽も月も、この空を照らし出してはいなかった。

 見渡す限りの雪原は空に解ける前にきらきらとした靄もやとなり、消えていた。

 そこに私はたった一人立ち尽していた。

 私はカラスのひどく耳障りな鳴き声を聞いたかのような気がしたのだが、それも静寂の雪原へと吸い込まれてゆき、最初から何も聞こえないかのように、カラスなど存在しないかのように消えて行った。

 そしてその小さな足跡はやはり小さな私自身のものであることがわかると、わたしはこんなにも一人だということに恐怖した。


 だが――

 二度と彼女は迎えに来なかった。

 二度と彼女は私の前に現れなかった。  

 そして喫茶『甘い罠』が捜しても捜してもどこにあるのかすら分からず、存在自体が曖昧で私は二つの世界を失うこととなった。

 かつての客は愛想をつかし、年の瀬にそれは決定的な重さを以て私に迫ってきていた。

 絵を描くことが存在理由(レゾンデートル)か、存在理由(レゾンデートル)が絵を描くことか。

 そんなことは最早どうでもよかった。

 私は彼女の知識ゆえに智慧ゆえに霊力ゆえに破滅したのだった。


 いつの間にか足跡は消え雪原でたった一人、私は、幼い私は立ち尽していた。

 頭上には三羽のカラスが赤い赤い空を巡っている。


 二度と彼女は私の前に姿を現さないだろう。

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