そして物語は幕を開ける
それは茹だるような暑さの中だったように思う。
僕は帰国したその足で友人の家に向かっていた。人が一人入りそうなほどのキャリーケースと巨大なバックパックは、田舎の寂れた駅とは不釣り合いに思えた。
初めての土地に足を下ろすと、時計を確認した。午後4時。時刻表のパネルは18時50分以降の欄が無かった。今日中にここを立つには少し時間が少なすぎる。今夜は友人宅に泊めてもらうか。僕はホームを後にする。
そもそも、何故ここまで急がされているのかを僕はまだ知らされていない。
大学3年生の夏、周りの友人がこぞってインターンに参加する中、どうしても就職した自分が想像出来なかった。それで1ヶ月ほど、海外を宛もなく放浪してきた。
「自分探しの旅か?」とからかってきた友人も居たが、そんな大層なものでもなく、ただ、モラトリアムをぼんやり楽しんでいただけなのだ。予算が尽きかけ、帰国を考えていた時に丁度友人から連絡が入った。
「相談があるから9月6日に家に来い」
ただ問題はその友人、栗原悠であった。高校時代からの友人である悠は僕とは対照的に底抜けに明るかった。いつでもぼんやりしていた僕は何故か悠と気が合い、行動を共にすることが多かった。
卒業後も頻度は落ちたものの、突然悠からの連絡があり、遊びに連れ出されることも度々あった。その彼が僕に相談とは何なのか。確かに恋愛相談などは受けたことがある。社交的でイケメンの部類に入る悠は、当然の如くモテた。だが彼は女性関係に無頓着で、厄介事を常に抱えているような男だった。
それでも突然家に呼びつけられたことは未だかつて無いことだった。それに、海外を旅行していることは悠には言ってある。つまり帰国してこいと暗に言ったのだ。そこまで強制するような相談事とは何だろうか。
道は上り坂に差し掛かった。高校から距離のある悠の家に来たのはこれが初めてである。足が進まないのは単にキャリーケースが重いだけでは無いと思う。ぽたりと汗が額を伝って顎から溢れる。陽が傾きかけているとはいえ、一向に涼しくはならないようだ。
坂の上にいかにも歴史のありそうな豪邸が姿を現した。悠から送られてきた家の位置データと目の前の豪邸の位置はぴったり重っている。
「まて。そんなこと聞いてないぞ。」
思わず独り言が溢れる。数年来の付き合いであったが、彼がこんな豪邸に住むような人種だとは聞いていない。軽く目眩を覚えながらも煉瓦造りの門の前まで辿り着く。
そこで初めて違和感を認識した。門には表札はおろか、呼び鈴すらない。郵便受けすら見当たらない。試しに門をそっと押してみると、扉は簡単に開いた。
躊躇いながらも足を踏み入れ、建物へと近づく。玄関へと続く石畳の周りは手入れがされているものの、人の通らない場所は鬱蒼と茂みが広がっていた。
玄関にもやはり呼び鈴は無い。仕方なくスマホを取り出すと電話をかける。流石に呼びつけておいて外出はしていないだろう、と家を見上げる。スマホからは呼出音がなりっぱなしだ。
そして僕は気がついてしまった。
2階の一番奥の部屋から赤い光が漏れ出していることに。そしてその光はありえないほど強いであろうことに。
その時頭に浮かんだのは「トラブル」の4文字だった。未だに繋がる気配のない電話を切り、意を決して家に踏み込んだ。
自分の下宿アパートと同じくらいの広さの玄関で悪態をつきながらも靴を脱ぎ捨て、急いで2階に上がる。そして一番奥のドアを一気に開けた。
瞬間。赤い光が部屋から溢れ出した。思わず目を瞑り、後ずさりをする。
とりあえず一旦ドアを閉めようと手を伸ばす。しかしその腕は何も掴めず空を切る。訳がわからないままその場でうずくまる。光は益々強くなっていく。より一層強く瞼を閉じていると、突然光が消えた。
恐る恐る目を開けると、そこは元居たはずの悠の家では無くなっていた。
大理石の床に高い天井の部屋の壁は全て本棚になっており、巨大な本が沢山並んでいる。
「おかえりなさい」
突然声をかけられ驚き振り返ると、淡い金髪の少女が脚立に腰掛け、本を読んでいた。どうやら誰かと間違われているようである。言葉が見つからず、躊躇しているうちに少女は言葉を継いだ。
「…もう全く、挨拶すらできなくなったんです…か…」
目が合ってしまった。少女は目を見開き、手からバサリと音を立てて本が落下する。
「誰…?」
明らかに怯えている少女を宥めようと一歩踏み出した瞬間ヒュッと空を切る音、そして足元から鋭い金属音がした。
思わず下をみると、尖った矢じりのような金属が足元に落ちている。
「来るな!」
そう叫んだ少女の手には足元の物と々ような矢じりが握られていた。少女が投げたとは考えにくいが、一応両手を上げ、降参のポーズをとる。
「ごめん。怖がらせるつもりは無かったんだ。僕も訳がわからなくて。友人の家に来ていたのだけれど」
「友人の家」のところで少女の眉がぴくりと動いた。
「お前、ハルカの友達なのか?」
少女らしからぬ口調に少しギョッとしながらも、必死に頷く。
「ふーん。まあ、私には関係ないけどな。」
少女はニヤリと口角を上げるとすとんと脚立から飛び降りた。
「本当に僕は何も知らないんだ!悠に呼ばれて家に行ったら赤い光が…」
必死の弁明も聞き入れられず、こちらへ向かってきていた少女はピタリと足を止めると小さく舌打ちをした。
「ハルカ?お前ハルカの友人なのか。」
「悠の知り合いなの?悠はここにいる?」
殺気の抜けた少女の反応は不満げであったが、かぶりを振るとため息をついた。
「悠のやつ、どんな管理してたらこんなマヌケ連れてこれるんだ」
突然の暴言に言葉を失っていると、少女はクルリと背を向け、着いてくるよう合図をしてきた。
「とりあえず案内してやるよ、ついてきな」
廊下は元いた部屋と同じようにな大理石の床で、所々に何かの彫刻が飾られていた。窓から見えるのはさっきと変わらない夕焼け空である。先を行く少女に何度か声をかけてみるも全て無視されてしまった。
「ほら、ここだ」
しばらく廊下を歩いた後に少女が示した扉をノックする。
「おー、誰だ?」
その声は明らかに聞き覚えのある声で、安心すると共にふつふつと怒りが湧いてきた。その怒りを込めて、扉を思い切り開け放つ。
そこには、僕、水戸怜の親友、栗原悠がいた。確かにそれは彼自身だった。だが、彼の背中からは見たこともないくらい大きな翼が生えていることを除いて、であるが。
「はる…か…?」
この再会が運命を変えるとは、この頃の僕は知らなかった。