棒手振り
長屋の引き戸が少し開いていたようで、棒手振りの売り詞が遠く耳に入る。餌を呉れてやっている猫が出入りして、勝手に隙間を空けていくのだろう。これで自分で戸を閉めるようになったら、尾が二つに分かれてないか見てやらなければならない。人を惑わす猫又に変化でもされたら厄介だ。
「さぁ~わがにぃ~、しぃ~じみぃ~。ヨォ~モォツゥ~、おぉ~さぁかなぁ~。鰻に穴子に鯰に蝮、狸に鼬に犬に猫」
売り詞が近づいてくる。出だしは声を張っているが、早口で口上を切り上げるのが面白い。なにかこう、人を急かして物を買おうという気にさせる。
「先生。累先生。振り売りの三吉ですよ」
隣家のお上、お栄さんが路地に出て声をかけてくる。
「ああ、五日……六日ぶりですかね」
私は見られてるわけでもないのに居住まいを正して返事をする。
「ウチはほら、旦那が粉屋に勤めているからいいですけど、先生のところはお一人でしょう」
お栄さんの主人は中野の製粉所に勤めており、蕎麦粉、小麦粉を安く仕入れてくれる。たまには米も。
隅田川の川向こう、東日本が全部だめになってしまってからというもの、帝都の食糧事情は著しく悪い。
例の帚星の夜からこっち、墨東は全くの不毛の土地となったと聞く。この月島が無事だったのは僥倖だった。
房総沖に墜ちた隕石から拡がったという疾病は瞬く間に北上し、北関東はもとより、東北全域の生命を根絶やしにした。命からがら逃げてきた人々も、陸軍の防疫部隊に保護という名で隔離されている。
それがなぜ隅田川を渡ってこちらに来なかったのかは、諸説入り乱れている。そのかわり軍が帝大にまで踏み込んで来て、その皺寄せを食ったしがない英文学者の私は長い暇を出されたという訳だ。
「……生、累センセイ!」
いつのまにかお栄さんが土間に上がってきていた。
「三吉さんを呼びましたよ。先生もまだ老け込む歳じゃあないんですから。精のつくものを召し上がってくださいな」
お上と入れ替わりに、天秤棒から木桶を路地に降ろした三吉が顔を覗かせる。
「へえ、先生。こないだの羹毬藻はいかがでしたか」
「ああ、盥に入れてよく陽の当たるようにしていたら、食い切れないほど増えていくな。味噌汁の具にするとまるで蛤だ。あれはなんなんだい」
三吉はよっこらせと声に出して木桶を土間におろして応える。
「なんでも新種の亀貝とか。ずうっと北の海にいる物が、近場でも捕れるようなったとかで」
「日光だけで増えるとはね」
「何があってもおかしくない世相ですからねえ」
三吉の世間馴れした口ぶりも堂に入っている。歳の頃は十五、六。三吉と云うのは仕事の名前で、本当は三津という名の女子である。天秤棒と木桶だけで始められる棒手振りは、年少者と高齢者のみに商売が許可される。
「で、三の字、今日は何かお勧めはあるのかい」
いくら旨くても毎日毎晩、貝の味噌汁だけでは飽きるという物だ。
「時に先生は左党でいらっしゃいますか」
「ああ、専ら合成清酒だがね」
じゃあ、と三吉は紐で脚を括った大振りの蟹を取り出す。
「此奴も新種だそうでさあ。飼葉蟹ってんで、刈った草を与えておけば、甲羅に開けた穴から蟹味噌を毎日掬える珍味中の珍味」
試しに、と一匙試食をすると、此れは確かに酒に合う。
「毎度」
素っ気ない返事でまた天秤棒を担ぐと、三吉は路地を歩み出す。遠くなる売り詞を少しく侘しい心持ちで聞きながら、私は蟹をバケツに浸した。