表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

メタメタ☆メタフィクション

作者: 雨森 夜宵

「こんにちは、すいません遅れて。どうもここの校舎の自動ドアとは相性が悪いみたいですね、今日も挟まれてしまいまして、いや、大変でした。うっかりホチキス留めする前の資料をバラ撒いてしまって。もし多少汚れた資料が当たってしまった方がいたら、申し訳ないんですが、今日のところはその資料で我慢してください。前にスライドも映しますし、後でデータを上げておきますから。はい。一部ずつ取って回してください……。


 ええと、というわけで、今日はフィクションについての話ですね。まあ今日ものんびりやっていきましょう。

 人間はフィクションを消費したがる、というのはよく言われる話で、皆さんもどこかで聞いたことがあるでしょう。虚構、というやつです。現代の私たちも山のようにフィクションを消費します。小説、漫画、アニメ、ドラマ、などなど。歴史や神話にも、或いは何気ない対人コミュニケーションの間にも、フィクションの要素は含まれているわけです。例えば、皆さんは私に敬語を使いますね。まあ、私も丁寧語を使うのですが。極めて普通のコミュニケーションですよね、これ。でも、その背後には先生と生徒という上下関係が前提としてあります。生徒が先生に敬語を使わなければならないのは、自分で言うのもなんですが、先生の方がものを教えてあげるという意味で上に立つからですね。しかし、何故ものを教える方が上なのか。話を聞いてやってる生徒の方が上だ、という見方もできるかもしれない。或いは、何故上の人には敬語を使わなければいけないのか。もっと言えば、何故敬語には「です」だの「ます」だのがくっつくのか。そういったルールはどれも、私たちにとってはフィクションです。伝統という名の付けられたひとつの物語に従って、私たちはこうして生きているわけです。フィクションは、世界の構造における細胞壁のようなものだと思います。本質的な機能を担うわけではないかもしれないけれど、ひとつひとつの輪郭と隣接領域をはっきりさせ、そしてそれなしには全体も部分も形を維持できないもの、という感じですね。

 このようなフィクションの歴史は、有史以前に遡るとされます。例えば、神話なんかは分かりやすい例ですかね。勿論有史以前のことは推測するしかないのですが、普通は記録する前に様々なバージョンを検討したりするわけですし、そのためには「様々なバージョン」そのものが存在する必要があります。ですから、あるフィクションの記録の前にはその基となるフィクションが存在しているはずだ、という推論は、まああながち間違いでもないでしょう。そしてこれらの構築されたフィクションは、往々にして何度もリメイクされていきます。シンプルな再解釈だけではなく、いわゆる二次創作というものも勿論発生してきました。宗教なんかもそうです。既に出来上がっている教義から、共感できる部分だけを借りてきて別のものを組み上げる。そうして組みあがったものからまた一部分を取り出してきて、また新しいものを組み上げる。この行程を繰り返していくことで、フィクションは無限に増殖するのですね。


 ここで具体例を出しておきましょう。二十世紀フィンランドの詩人、カール=クリスティアン・ヴィルックネンは次のような四行詩を残しています。ここでは分かりやすくするために和訳してありますが、フィンランド語の響きも極めて美しい詩ですので、まあ、興味があれば原典にも当たってみてください。

 和訳はこうです。一応読み上げますね。


『自動ドアにいつも挟まれる

  降り注ぐ眼差し、荒ぶる邪神

 もう逃げ場はどこにもない

  ああ、何も知らない方がきっと幸せだろう』


 どうです、僕のことみたいでしょう。ちょっとドキっとするんですよね。

 まあそれはさておき。自動ドア、なんて現代的なワードが入っていますから惑わされやすいのですが、実はこの詩のルーツは、古代ルーシ族の宗教儀礼において歌われた祈祷歌の一節にあります。こちらも、まあ歌ですから、美しい響きを原文は持っているのですけど、ここでは和訳で意味の方だけを見ていきましょう。読み上げますね。


『扉閉め給え、運命の女神よ

  我ら見守り給え、悪魔の手免れさせ給え

 其が掌の内にて我ら安らがん

  夜毎、母の腕に眠りし赤子が如く』


 ぱっと見だと随分毛色が違いますが、一文一文を対応させていくと、両者は明らかに関係があるということが大変よく分かります。

 つまり、運命の女神によって閉じられる扉と自動ドア、見守ることと降り注ぐ眼差し。隠喩的な表現で置換しています。悪魔が邪神と捉えられているのは宗教史の類型から見ても珍しいことですが、これが詩人の言った言葉であるということを踏まえると決して奇怪なことではないでしょう。ヴィルックネンの詩は幾分か皮肉的というか、悲劇的というか、絶望的というか、とにかくそんなような言い回しがあるのもひとつの特徴ですから、この邪神と悪魔のくだりも、三行目の掌の内にというのを逃げ場はないと置き換えているのも同じですね。そして最後も同様に、眠る赤子の純粋さ、タブラ・ラサというやつですか、それを何も知らない方が幸せと言ってしまう。全体に暗い雰囲気の詩が多いヴィルックネンですが、彼は無神論者だったというエピソードが残っています。そう考えると、信仰の表現のために歌われていた歌の歌詞をこのように作り替えてしまうというのも、肯定するというわけではないのですが、分からなくはないでしょう。このようなものもひとつ、フィクションの増殖過程の具体例として挙げられるでしょう。


 まあ、今の古代ルーシの歌の話は私が作ったフィクションですが。


 実際、ヴィルックネンの詩に元となるようなものがあったかどうかは定かではありません。あったかもしれないし、なかったかもしれない。少なくともさっき私が読み上げた「古代ルーシの祈祷歌」というのは全くのデタラメですので、試験で聞かれた時には絶対に書かないように。うっかり書いちゃった人は私の話を聞いていなかったと見做しますから、まあそれだけで落としはしませんが、減点はしますから、そのつもりでいてくださいね。

 というのは事務的な話でしたが。ヴィルックネンの詩の元ネタは定かではありませんが、逆にヴィルックネンの詩を元ネタにしたフィクションというのは存在します。フランスの文学者ミシェル・アルヴィエ、この人はヴィルックネンを専門とした研究者ですが、自身でもいくつかの詩や小説を残してます。このアルヴィエが先程の四行詩をテーマにした論文を書いているんですね。手法としては至って普通で、ヴィルックネンの他の作品を、というのも実はヴィルックネンは詩以外にもいくつかエッセイを書いているのですが、それも含めて比較検討するという感じです。もう少し細かく言うと、かなり統計学的なものに近い処理の上で、どんな言葉がどのくらいの頻度で出現してどんな意味で用いられているか、みたいなことを隅々まで調べ上げてひとつひとつの言葉を精査したわけです。もうヴィルックネンが好きで好きで堪らなかったんでしょうね。その論文の内容ですが、恐ろしいほどの分量と密度がありますのでざっと要点だけ押さえておきましょう。


 まず、一行目の要点としては「自動ドア」ですね。ヴィルックネンにおけるドアは閉ざされたもの、閉じているものとして登場することがほとんどであり、開くものとして登場するのは全体の一割にも満たない僅か三度のみである、ということ。本文では挟まれるという言葉とセットになっていますから、ここでも閉じるものとして登場しています。しかしながら、自動ドアとなると、普通は人間が近づいたらまあ、当たり前ですがセンサーが感知して開くわけです。それを、いつも挟まれるものとして書いているという矛盾の中に、自動ドアにさえ、という含みがある。これが先程も出てきた、ヴィルックネン特有の暗さみたいなものを演出しているのではないか、という話をアルヴィエはしています。この、ヴィルックネンの作品における矛盾した表現による暗さの演出というのに注目したのは、私が知る限りではアルヴィエが初めてでしょうね。これは四行目についても同じことが言えると彼は言っています。つまり、普通は全てを知っている状態を不幸と言うのだと。私個人としてはやや疑問が残りますが、まあ、好意的に解釈すること自体はできるかもしれません。

 二行目については、「降り注ぐ」という言葉が特に気になったようです。降り注ぐという言葉は確かにヴィルックネンの作品中でしばしば見られるものですが、その多くは雨や光、花弁といった自然に関するもので、しかも更にその多くが空または天から降り注いでいます。そう考えると、どこからのものか分からない眼差しが降り注ぐ、というのは相当特殊な事例であるということが分かりますね。直後に邪神という言葉があります。邪神もまあ神ではありますから、西洋社会における神の一般的な位置が天であることを考えると、これは邪神の眼差しが天から降り注いでいるのだという解釈も不可能ではありません。確かにそうではありますが、当たり前ながら、そう言えるからといってそれが正しいというわけではありません。あくまでも可能性のひとつです。アルヴィエ自身はどう考えたのかというと、それを特定しようとするのではなく、むしろぼかされていることにこそポイントがあるとしています。ぼかされているからこその、言いようのない不安とか、防ぎようのない災難への心配とか、そういった対処方法のないような曖昧な不安の表現である、ということですね。これはかなり、詩というものの基本的な味わい方という側面から見ても信憑性のある意見ではないかなと思います。

 三行目については「どこにもない」に注目していますね。逃げ場という言葉に関してはこれも二行目と同じ理由で、つまり何から逃げるのか、というところが明らかにされていない点において、曖昧な不安の表現に一役買っているのではないかとアルヴィエは述べています。それを踏まえた上でどこにもないという言葉について見ると、これが実際に存在しないということなのか、はたまた本人が見つけることができていないというだけで存在自体はしているということなのか、実ははっきりしません。そもそも、この文がどのような視点から語られているかも実は分からないのです。はっきりしているのは、この詩がヴィルックネンの言葉だということだけです。しかしながら逆に、ヴィルックネン自身はほぼ間違いなくどこにもないと感じているだろう、ということは想像できます。アルヴィエの調査によると、ヴィルックネンの詩の特徴のひとつとして、かなり一人称的な要素によって支配されている部分が大きい、というのが見い出せるそうです。つまり、自分の外で起こっている出来事を描写するのではなく、出来事を経験している自分の内面を描写することが多い、ということですね。変換しますと、実際に逃げ場が存在するのかどうかではなく、重要なのはヴィルックネンがないと感じているということである。これが先程の曖昧さに加味されると、アルヴィエの言葉をそのまま引くなら、「濃霧の中で無数の銃口に囲まれていることを感ずるような」感覚を齎すわけです。

 以上のアルヴィエの考察をまとめると、ヴィルックネンの詩の特徴としては、矛盾表現による強調、空白による曖昧さの表現、そして語り手としての自分の内面にコミットした書き口の三点を大まかには挙げることができ、それらが極めてはっきりと現れているのがあの四行詩なのだ、ということになります。


 ここまでは普通の文学研究と大差ないのですが、面白いのは、アルヴィエがこの考察を基に新たなオリジナルの小説を書いたということです。文学研究というのは、言ってみれば文学というフィクションの構造を出来る限り細かく正確に捉えようとする行為なのですから、そうして抽出された構造を上手く抜き出して形にするというのもまあ、分からなくはないですね。私自身はお話を考えるのがあまり好きではありませんので、アルヴィエのように研究対象の作品を基にフィクションを増殖させるということはできませんが、実に羨ましいなという感覚はありますね。だって、そうやって考えることができたら、作った話を自分の講義のネタにすることだって出来るじゃないですか。


 まあ、先程の祈祷歌の話はこれを基に私が作ったフィクションなわけですが。




 というより、ここまでに取り上げたものの全ては、私が作ったフィクションなわけですが。




 アルヴィエは自分の研究を基に小説を書いてはいませんし、初めからヴィルックネンの四行詩の研究はしていません。それどころか彼はヴィルックネンを専門とした研究者ではありませんし、ミシェル・アルヴィエは実在する人物ですらないのです。勿論、フランス人の実在する姓名ではありますから、世界のどこかには同姓同名の方がいらっしゃるかもしれませんが。とかく、ヴィルックネン研究者ミシェル・アルヴィエは、私のフィクションの中のみに息づく存在なのです。

 もっと言えば、あの四行詩、あれだってヴィルックネンの作ではない。カール=クリスティアン・ヴィルックネンもまた、私のフィクションの中のみに生きる存在です。つまりこの講義において私が出したこの具体例自体が、既にひとつの大きなフィクションだったわけです。

 これらはいわゆる連想、空想、といった想像力の働きによってもたらされます。フィクションは「空想の産物」ですからね。しかし、空想と言ったって、何もないところから生み出すものでもない。それは何らかのトリガーを持つことが多いでしょう。例えばお友達と昼食を共にする場合、その友達の鼻の横に小さなホクロがあるのを見つけたとか、テーブルクロスのシミが花の形に見えたとか、或いはそれが恋人なら、視線があった瞬間の瞳の美しさに惚れ惚れしたり、或いは食べ物を飲み込む喉の動きにちょっと艶かしいものを感じたり……なんてこともあるかも知れない。これらに共通するのは、いわゆるムービングなものである、ということです。心を動かされる、もう少しありふれた言い方をするなら、自分の注意がそちらへ向いて「あっ」と思うようなこと。そういうイベントによって心が揺れた時に、元々心の中にあった断片がすっと動いて、繋がって見える。それを捉えた時に、「あっこれはお話にできるかもしれないぞ」と思うわけですね。ところが、肝心なのはトリガーの方ではなく、元々心の中にあった断片の方なのです。これがなければ、いくらトリガーが転がっていても「お話にできるぞ」とはならない。ここはなかなか時間のかかるところです。とにかく沢山のものを噛み砕いて、吸収していかなければならないのですから。

 今、私は皆さんの前にフィクションの実例をお見せしました。このフィクションが出てきた故郷は、私の頭の中です。私がかつて経験した出来事、読んで楽しんだ文章、その表現方法、そういったものの断片がすっと繋がって見えた時、私の中にひとつのフィクションが生まれてくる。それを言葉にすると、今までお聞かせしてきたようなものになるのですね。ですが、それらの断片自体を、私は意図的に蓄えようとしてきたわけではありません。これらは私が生きてきた人生の断片なのであり、従ってそれらは、単に生きているだけで蓄積されるものなのです。全てのフィクションは書き手の人生から生まれます。ですから、より正確な、というよりはより真実味のあるフィクションを生み出すためには、未だ自分の知らないものを経験する必要がある。そしてその為に人は、他人が生きた人生を、他人の作ったフィクションとして経験する必要がある。そうして作られたフィクションが様々な概念の輪郭を明確にし、世界の構造を補強していくわけです。冒頭に何故人はフィクションを消費したがるのかという問いを取り上げましたが、そもそもこの問いの立て方はおかしいのです。フィクションと人間は相互依存の関係にあり、フィクションは我々なしに作られず、我々はフィクションなしに生きられないのですから……。


 という話もまた、私が作ったフィクションですが。


 実際には、フィクションと人間の関係性は明らかになっていません。様々な研究者が仮説を立ててはいますが、これもフィクションに過ぎないわけです。

 そろそろお分かりいただけましたか、この一連のフィクションを操っている邪神の正体が。私たちをフィクション漬けにしてしまった邪神。私たちの中に入り込んで、自らその源泉となる邪神。しかし、私たちは最早その力なしには生きていくことができません。別にだからどうというわけではないですし、そもそもどうすることもできはしないのですが。

 私たちはフィクションを駆使する生き物であると、そう言うのは簡単です。私自身もそのように感じているわけですから。皆さんがどうお考えかは分かりませんが、まあ、それについてはレポートでお書きいただければいいかなと思います。問題は、フィクション以外に何が人間のものとして残されているのか、ということでしょう。

 普通、フィクションまたは虚構に対応するものとして、リアル、現実、事実、そういった類の言葉が挙げられますが、果たしてそれらは「現実」のものであるのか、ということですね。現実という言葉が存在する以上人間は現実を知っているのだ、そしてそれはフィクションとは異なるものとしてあるのだ、と言われるかもしれません。けれど、現実だと思っていたものが実はフィクションだった、という構図であれば、現実はフィクションに吸収されます。それらは対立するのではなく、物事の古い捉え方と新しい捉え方というだけの関係になる。この関係性自体も、きっと私が作り出したフィクションなのでしょう。或いはこのフィクションを作り出している私自身もまたひとつのフィクションであるのかもしれません。これを聴いている皆さんもフィクションなのでしょう。全てはフィクションなのでしょう。きっとね。そして恐らくは、フィクションという概念自身もまたひとつの巨大なフィクションに過ぎない……。


 ……おっと、そろそろ時間ですね。

 来週に期末試験を行って、それでこの講義は終わりということにします。再来週は私がここに来られないのでお休みです。ちょっとお得な感じですね。そこで、今日出席してらっしゃる皆さんに来週の試験の内容をお伝えします。


 今日、この授業を通して扱ってきた四行詩がありますね。それをテーマに、ひとつフィクションを拵えていただきたい。


 一応、試験問題は二種類用意します。片方は講義内容に関する短い記述問題が三問で、その中から二つ選択して、書いてください。もう片方がこの課題で、計三問やってもらうことになりますね。持ち込みは、手書きのノートと講義資料のみ可です。打ち込みはちょっとごめんなさい。まあ、コピーアンドペーストが効くような課題でもないとは思いますが、念のためということで。考察でも、他のフィクションとの比較検討でも、SSでも構いません。というより、何ならメモをそのまま提出してくださって構いませんから。配点は五分五分で、そこに出席点を足して総合成績ということにします。何か質問があれば、後で私の方に来てください。

 では、この辺で終わりにします。皆さん試験頑張ってくださいね。

 お疲れ様でした。よい週末を」






 ここまでが、私が作ったフィクションです。


 私は講義なんてしていないし、ヴィルックネンもアルヴィエも実在しないし、試験も成績もなく、受講生もおらず、もっと言えば私は教員ではない。しがないひとりの物書きに過ぎない。それも文で飯を食うわけでもない。あなたは画面上に表示されたこの文章を読んでいるのであって、私の声を聞くのではない。もしこの文章をあなたが読んでそこに何か意味を成すことができるのなら、その全てはフィクションです。私は意味など成そうとはしていないかもしれない。それでも、さながら猿の書いたシェイクスピアのように、あなたはあなた自身の知っているものを私の並べた言葉に当てはめて、ご自身でフィクションを構築しているのだ。

 ね、お分かりでしょう。フィクションと人間は相互依存的な関係にある。

 大丈夫、心配には及びません。こんなことが分かったって、あなたには何一つできることはない。何も変わりはしないからだ。何もしなくていい。あなたは今まで通り、気ままに文章をお読みになり、それを味わうがよろしい。例えそれが書き手の意図を反映しない独りよがりなものであったとしても、きっとあなたは今まで通りに楽しむことが出来るでしょう。そうでなければ人間は生きてゆかれないのだから。


 さあ、次の文章にお進みなさい。名も知らぬあなた。

 全てはあなたの内に潜む、「想像力」という名の邪神が解決するでしょうから……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ