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~伴奏 イージャンの指輪物語~  作者: 粟生木 志伸
第一章 受難の始まり
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第16話 カトゼの武人 その2

「イージャン」

「――はっ!」


 急に矛先が自分に変わった。慌てて敬礼で返すが、シヴァルイネは彼らに先程見せた優しい微笑みに戻った。


「良かったですね。結婚式の日取りが決まった件、私も聞きました」


 イージャンは目を丸くする。


「はっ……。ありがとうございます、シヴァルイネ様……」


(もうご存じだったとは……)


 どうやら結婚式の日程は、王宮中に連絡が入り始めているらしい。それが分かって恐縮してしまった。気恥ずかしく声が小さくなる。


「おお!! イージャン、決まったのか!」

「は、はい……」


 とても良い食いつきっぷりだ。ゴトキールは嬉しそうに笑顔になって、多少仰々しく驚いてみせた。この話に乗っかって、彼女の矛先を逃れ、説教を終わせようと必死なのである。しかし、確かにそれもあるが、日取りの決定が嬉しいのは本当だ。余興をきっちり仕上げるよう、日程も組める。


「あ……」


 イージャンは、その様子を見て気付く。


(しまった……。隊長に伝えるのを忘れていた……)


 これは仕方がないだろう。彼は、宝石商に行きたくて一杯一杯だった。


「申し訳ありません、隊長。伝えるのを――」

「いやいやいや! そんな事気にすんなって! で、いつだ?」


 ゴトキールに食い込み気味にせっつかれ、少し勢いに呑まれる。また、気恥ずかしかったのもあって、躊躇いがちに答えた。


「えっと……。その、来月の――」

「おお、来月か」


 思い出せないが、これに何か引っ掛かった。


「なんだか急だな。俺は、あともう二ヶ月くらい先になるのかと」

「はっ……。申し訳なく……」

「あーいやいや。大丈夫大丈夫。これくらい問題ない」


 この国では、大抵そうなる。だから、流石に無理だったかと諦めていたので、思い出せずいた。しかしそれは、国王が挙げた日に式を執り行えるかどうか、という話ではない。ゴトキールが引っ掛かりを感じたもの。そして、諦めていたもの。それは、とある人物の言葉だった。


「そうかそうか、来月か。遂に決まったなあ。はっはっは! はっは……」


 何かに気付いた様に、笑い声が急に止まる。顔つきは、真顔そのものだ。


「た、隊長?」

「…………」


 すぐには返事をしなかったが、呼び掛けられている声は聞こえていた。


「ああ、いやすまん。それで、イージャン――。何日になったんだ?」

「は、はい」


 滅多に見せないその表情に、イージャンは疑問に思った。気にはなったが、ともあれ伝える。


「その……。斧月の十八日となりました……」

「…………」


 日を聞くと、今度は深刻そうな面持ちで、押し黙る。シヴァルイネは、変わっていくその様を見逃せなかった。ずっと無言で見つめている。


「た、隊長……?」


 やはりおかしいと訝しんだが、しかしゴトキールはすぐに破顔して笑い始める。


「はっはっ! 悪い悪い。その日までに準備が整うかどうか、計算しててな?」

「ああ……」


 にやりと、からかうように見せたその顔を見て、余興の事だったかと頷く。ただ、


(しかし、それにしては妙に……)


 その雰囲気に違和感はあった。だが、レイセインにそんな違和感はない。


(嘘ね……)


 完璧に見抜かれていた。どうやら別の何かがあるらしい。妙な胸騒ぎを感じている。


「いやしかし、決まって良かったな、イージャン! うん、良かった! 本当に良かった!」

「は、はい。ありがとうございます……」

「はははは! うんうん!」


 ゴトキールは、彼の肩を何度も叩いた。しばし、その様子を眺めていたシヴァルイネは、小さく溜息を吐くと、優しそうに笑みを浮かべた。


「この件を近衛兵団に伝えようと、一応念のためやって来たのです。ですが、来て正解だったようですね?」

「はい。ありがとうございます、シヴァルイネ様」

「ふふふ。いえいえ」


 イージャンは、お辞儀をして礼を述べる。その二人の様子を、今度はゴトキールが、じっと眺めていた。


「…………」


(まさか本当に、斧月の十八日になるとは……。さあて。これから、どうなりますかね、シドー様)


 その英雄の顔を思い浮かべていたが、ここでハッと気づく。その口角が、嫌らしくにやりと上がった。


(おっと。これは好機だねえ……。シヴァちゃんのあの笑顔。そして、打って変わったこの和やかな雰囲気――。いける)


 そして、にこにこと笑顔を作ると、シヴァルイネに話しかけた。


「いやあ、そうでしたか! それで、ここまで御足労を――。これは、何かお礼をしなくてはなりませんなあ。はっはっはっ!」

「い、いえ。そこまでしてもらう訳には――」


 急に出てきたお礼という言葉に、遠慮気味に答えてしまう。しかし、この反応は、彼女に限った事ではない。カトゼの武人はその信仰ゆえか、義を重んじる傾向が強い。そのため、自分のした行為で見返りがあることに躊躇いを見せる者が多かった。


 だが、そんな事、ゴトキールは百も承知。会話の主導権を握るため、お礼という言葉で不意打ちを食らわしたのだ。そして、そうやって出来た隙をすかさず攻める。


「いやいやいや、そんな事、仰らないで下さい。あ、ほら! 『白花堂びゃっかどう』の『ぼた雪団子』! あれありますから、どうです今からお茶でも?」

「――っ!? お、お茶――!?」

「はい」


 シヴァルイネが過剰に反応する。ぼた雪団子とは、王都で人気の甘味である。橙、抹茶、桃色、黄色といった様々な色を織り交ぜた白玉団子へ、更にふわっとした厚めの白い衣で包んだもの。


 この衣は甘めで滑らか。しっとりと柔らかくもあり、口の中でとろける。また、白玉との相性が良くて、これが評判を呼んでいた。牛の乳を使ってはいるのは分かっているが、他の材料が何なのかは秘密だ。この店でしか味わえないお菓子である。


 そして、その名前が出た途端、彼女が見せた態度に、ゴトキールは確信を持って計画を進める。


「あのお団子を食べるなら、うううん。お茶はそうですな。熱い緑茶などがよろしいでしょうか?」

「え、ええ。それは、まあ確かに緑茶が――」

「分かりました。では、その緑茶も一緒にご用意いたしますので、私と――。どうです?」

「い、一緒――!?」

「はい」


 熱い緑茶。更なる動揺に、笑顔で細まったゴトキールの瞳の奥が、怪しく光る。


(くっくっくっ……。お兄さんを舐めないでほしいなあ。いきなりばれてはしまったが、説教さえ躱せれば、ここから巻き返すことなぞ、お茶の子さいさいなんだよねえ。お茶だけに。なんつって)


 好物は調査済み。彼女は、緑茶と一緒に食べるこのお団子に目がないのである。この事実を利用し、訪れた際には、これで釣って、事務所までのお持ち帰りを画策していたのだ。そのため、合同練習の今日に合わせて、きちんと用意もしていた。


 そして、その思惑は、ずばり的中。ここまで靡けば、もう行ける。後はお持ち帰りだけだと、多少強引になりつつも、誘導を開始する。


「まま、ここでは何ですから、ともかく二人で事務所へ参りましょう」

「え!? ふ、二人――、なのです、か……?」

「ええ。イージャン達は、用事があるようなので」

「そ、そうですか……」

「はい」


(さあさあ、甘くて美味しい大好きなお団子が、待ってますよおー、シヴァちゃあん……)


 当初の予定通り、どんどん事を運ぼうとしていくゴトキール。そして、事務所まで戻ったその後は、好物を食べて機嫌が良くなったところで、誠意を込めて頭を下げる。そうすれば、あの性格だ。何だかんだで、黙っててくれると見込んでいた。


(だが、それが叶わなければ、仕方がない。万が一の場合は――)


 ゴトキールの目が、再び細まり鋭く光る。


「い、いえ……。でも……。ああ、どうしましょう……」


 しかし、当の彼女はその判断の段階にも達していない。未だ気が引けている様だ。考えあぐねている。


 ゴトキールには、もじもじとしてどうしようか迷っているように見えた。レイセインには、突然のお茶のお誘いに困惑しつつも、それがとても嬉しそうに見えてしまい、動揺している。イージャンは――、特に何もない。


「良いではありませんか。今日食べないと、美味しくなくなると言うのもありますし」

「で、ですが……」


(これは、後一押しだな……)


 ゴトキールの直感が囁く。そして、その後一押し――殺し文句で畳みかけた。


「それに――」

「え?」

「大好きな貴女に食べられるというのなら、団子たちも本望……。大いに喜ぶというものです!」


(それはひょっとして、お世辞のつもりなの?) 


 レイセインは、垂れた顔の部品を無理矢理引き上げて、何故かキリリとしようとしている、ゴトキールを見てそう思う。ない。団子はない。しかし、その失敗にどこか安堵した。


(やっぱり、この隊長さんには無理よね。流石に、これでなびく事はないわ。失笑もの――)


 そこまでで思考が止まる。シヴァルイネが、微動だにしない。その様子に自分も微動だに出来なくなっていた。が、どうにか理解が追い付いて「まさか!?」と目を見開いた。


(嘘でしょ!? 今のどこに、そんな要素が――!?)


 何もないはず。だが、この様子はがっつり靡いている。あんなお世辞にも満たないようなもので、どうしてだと戦慄した。そして、その答えは計らずも、ようやく動き出したシヴァルイネの口から零れ出る。


「大好きな貴女……」


 ぽーっとなりながら呟いた。


(そこおおおお!?)


 レイセインは心の中で思いっきり叫んだ。


(そこが気に入ったと言うの!? そこだけが!?)


 お察しの通りだった。しかし、あの殺し文句の出来損ないを、最後まで思い出してもらいたい。


(え!? いや、でもちょっと待って! それって――!)


 そう。あれは、お団子が大好きな貴女、という意味。だが、一番最初に大好きなと言われたのが良くなかった。おかげで、シヴァルイネは今の言葉を履き違えてしまったのだ。


「うん? 如何されました?」


 ゴトキールが、彼女の様子に首を傾げた。


「え!? ああ、いえ。その……」

「?」


 首を傾げ、然も気にしてない風を装う。しかし、内心ではその変り様を見て、自分の殺し文句が、がっつり決まったと、高笑いである。


(これ、やばいんじゃないの……?)


 今の状況を正確に把握したレイセイン。だが、関わり合いたくないし、立場的にも、どうしようもなかった。状況を見守る。すると、ゴトキールが笑い出す。そして、決まりが悪そうに頭を掻いた。


「いやあ。実はその――。私()大好きでして」

「――!?」


(うえええええええ!?) 


 彼からすればおべっかである。大好物かと言われればそうでもない。だが、シヴァルイネには、今までずっと自分の事を想っていて、それ打ち明けたのだと。


 そして、自分が好きだった事()、実は知っていたのだと、そう捉えていた。だから、もう顔が真っ赤っか。彼女自身、自分の顔が熱いと分かるくらい。


(どどどうしましょう、どうしましょう、どうしましょう――!?)


 まさか自分の想いまでも知られているとは。恥ずかし過ぎると、下を俯いて縮こまってしまった。その様子を見てゴトキールは、


(おっと。いかん、やりすぎてしまったか?)


 彼女はカトゼの武人である。しかも、礼儀や作法に厳しく奥ゆかしい。あまり好物の事で同調して持ち上げようとしても、結局どんどん恥ずかしくなって逆効果になるか、と少々引くことにした。


「いや。急に、こんな事を言い出してしまって、申し訳ございません」

「い、いえ……」


 恥ずかしくて、また下を俯いてしまったが、彼の気持ちはとても嬉しかった。ただ、


「ですが、あの……。その様な事を、こういう場所で言うのは……」


 自分たち以外の者が見てる。そして、ここは訓練場。これは如何なものか。


 やはり、こういう大切な事は、然るべき別の場所で。と、もじもじとしながら、ちらっちらっと上目遣いで、白い頬を赤らめたまま伝える。


 だが、そんな事伝わる訳がない。やはり、同調は逆効果。赤らめた頬がその証拠とゴトキールは頭を下げた。


「ああ! これは重ね重ね申し訳ございません!」

「い、いえ……」

「ですが、私の事はお気になさらないで下さい。好きならそれで、言っても良いと思います。別にどこの誰に知られても構いませんよ」


 自分が言った事は忘れて下さい。でも別に、お団子が好物だと言ったくらいで、恥ずかしい事なんてありはしないですよ。と、その気持ちを和らげるつもりで言ったのだが。


「――っ!!?」


 愛の告白に、時も場所も関係ない。自分は、誰がいようが構いはしない。大切なのは伝えたいという事。ただそれだけ――。


 真っ直ぐで一途、そして何と潔い事か。そう解釈した暴走シヴァルイネは、がっつり心を討たれた。


「確かに……。ええ、確かに、その通りかもしれません……」

「そうですとも」

「はい……」


 自分はまだまだ未熟者。浅はかだったと、深く感銘を受ける。そして、それは、


(答えなければなりません。この人がここまで想ってくれていたのです……!)


 自分も、一世一代の覚悟を決めるのに十分だった。一度、目を瞑り、「ふううう……」と深く深呼吸をし、凛然として見据える。


「ゴトキール殿……」

「はい?」


(もうやめてえええええ!)


 いきなり、こんな事に巻き込むな。レイセインは、見ていられなかった。だから、せめてと、視線をぶつけて自分たちも見ているぞと、必死に主張した。


 しかし、意を決した彼女に伝わる訳もなし。感銘を受けた通り、最早レイセイン達の存在さえも消え失せていた。じっと見つめて、その思いに答える。


「私も、その……、はい……。ずっと前から。ずっと、ずっと前から――!」


 ずっと――。自分からは言い出したくても、言い出せなかった。その言葉をようやく伝えられる。彼女の積年の想いが最高潮にまで達した。それにゴトキールが、頷いて答える。


「おお。となると、売り始め当初からになりますかな?」

「はい!」


 伝わった。答えてくれた。見事、自分の想いは成就したのだ――。返事をしたその表情は、今まで誰にも見せたことがない様な、それはもう涙が出そうなくらい嬉しそうに。心底嬉しそうな笑顔だった。


「………………。はい?」


 その笑顔が固まる。そして、


(売り……、始、め……?)


 そのままぽかんとする、シヴァルイネ。


「なるほどお。そうでしたか。確かに、あの団子は売られ始めた途端、すぐに大人気になってましたもんねえ。しかも、それからずっと大人気のままです。ま、美味しいですからね。皆、分かってますか。はっはっは!」


(え? え?)


 徐々に、何かおかしいと分かり始めた。


「お、お団子……?」

「はい、ぼた雪団子」

「ぼたあっ!?」


 そのお団子が大きくなって天井から、ぼたんと落下。自分の体が押し潰された様な衝撃が彼女を襲う。しかし、これでようやく先程の言葉をちゃんと理解した。


「~~~~~~~~~~!」


(か、勘違い――! ~~~~~~!)


 プルプルと震える。身悶えしようとするその体を、何とか抑え込む事で精一杯。


「ふううう……」


(危なかった……。でも、これはホント。ホント、ギリギリだったわね……)


 レイセインは、安堵の溜息を吐いた。入っていた体の力も、ようやく抜ける。そして、ゴトキールも、ようやくシヴァルイネの様子が、どうにもおかしいと気付いた。


「うん? 如何されました?」

「え!? い、いえ! 何でも!」

「そうですか? いやしかし、先程から、どうもご様子が――」

「いえ! 本当に何でもありません! 何でも!」


 思いっきり頭を何度も振った。不振がられている、これではいけないと、慌てて言い訳をする。


「えっと、その! そうですね! 美味しいですから……。なので、私も、そのお団子が、ずっと前から……、その……。恥ずかしながら……」

「はっはっはっ! いやいや。ですから、恥ずかしいだなんて、そんな」


 何だ、やっぱり恥ずかしかったのかと笑った。


「い、いえいえ。お恥ずかしい……」


 本当にお恥ずかしかった。泣きたい。だからもう、さっさとこの話題を終わらせたかった。「こほん」一つ咳払いをする。


「ま、まあ、美味しくなくなるのは、勿体ないですしね? なら、仕方ありませんよね? では、お言葉に甘えて――」

「おお! ありがとうございます!」


 お持ち帰り成功。ゴトキールは、ぐっと拳を握った。


「それでは早速――。ああ、申し訳ない。少々待ち下さい。あいつらに伝えておかければ」


 観覧席の前の方に向かって歩いて行った。 


「おーい! ちょっと出てくるからなー!」


 近衛騎士たちに向かって叫ぶと、それに気付いた何人かが、手を上げて答えた。シヴァルイネが来た場合、自分が事務所へと連れ出すことになっていたわけだが、その間も先程同様、近衛騎士が代わりに見張りをすることになっている。それを了解したという合図だ。ゴトキールも、同じように手を上げて返す。シヴァルイネは、彼のその後ろ姿を見て視線を落とした。


「はあ……」


(とんだ勘違い、でしたね……)


 しょんぼりと、寂しそうに溜息を吐く。だが、何故だかすぐに、にまにましようとする口元を我慢し始めた。


(でも、大好き――。大好き、かあ。ふふふ――!)


 ずっと初恋をしている乙女な淑女の回復力を、舐めてはいけない。惚れている相手からの大好きは、どんな勘違いでも、どんな戯言でも甘美に響く。ふわふわな恋心に包まれた、あまーいぼた雪団子になるのだ。


 そして、それをお口に頬張り、嬉し恥ずかし満面の笑顔へ。それから、緑茶を飲んでほっと一息。その余韻を楽しむ。これでもう復活であった。それに、まだこれからもう一つある。


「ふふっ――」


 シヴァルイネが、それを嬉しそうに思い浮かべ、笑みを静かに零す。これを聞いて、レイセインは、遂に認めざるを得なくなった。


(嘘でしょ……。この人、あの隊長さんに本気でれてるの!?) 


 どうやら、ようやく確信を持てたようだ。まあ、意外過ぎて認められなかっただけだが。そうなのである。彼女シヴァルイネは、ゴトキールに惚れているのである。説教も愛情の裏返し。彼を想っての事だ。ただ、世話焼き女房みたいになっている事に、自覚はない。


 彼女は、結構な行動派淑女であった。兵団へ頻繁に顔を出していたのも、彼と接する機会を自ら作り出して、自分を売り込むためだったのだ。当然、結婚の日取りが決まったのを、ここへ知らせに来たのもただの口実である。


 そして、夕方に来るのは「ご夕飯にでも誘ってくれないでしょうか」と考えての行動。しかし、自ら誘う事はしない。流石に、これは恥ずかしくてできない。「こ、こういうものは、男性の方が言うべきものですから……」と自分に言い訳をし、二の足を踏んでいた。


 だが、このように躊躇い踏み止まってしまうところが、彼女を奥ゆかしい淑女たらしめているのである。決して臆病などではないのだ。


 ちなみに、夕食を誘われたことは、未だに一度もなかった。ゴトキールが帰った後に、「また今日も駄目でしたね……」と落胆しながら、とぼとぼと庁舎を後にする日々。だからであろう。


(二人っきりで、お茶! 二人っきりで! ふふふふ!)


 本心は、とてもとても嬉しかった。先程の恥ずかしさはどこへやら。本当に素晴らしい回復力である。もうお茶の事しか考えれず、楽しみで仕方がないご様子。それが夕食でなくとも。


 なにせ、二人っきりでのお茶のお誘いも初めてのことだった。それが、いきなり叶ったのだから。迷う素振りを見せていたのは、その心の準備ができていなかったため。淑女な彼女にとって、男女二人だけというのは、それ程の覚悟がいるのだ。


「ささ、参りましょう」

「は、はい……」


(ふっ。これは俺の粘り勝ちだねえ)


 ゴトキールはほくそ笑む。しかし、彼の思惑はどうあれ、好きな殿方に付き添われて、シヴァルイネの機嫌は上々だ。いきなり降って湧いたような幸運に、ご満悦の表情を湛えている。そして「このままご夕飯の方も誘ってくれないかしら」などと考えつつ、一緒に事務所へと向かう。


「イージャン。お前も早く行ってこいよ」

「はっ! ありがとうございます!」


 良かった。ようやくこれで宝石商へ向かう事が出来る。と、嬉しさと気合を込めて、敬礼をした。そして、レイセインは、ゴトキール達が歩き出したその後ろ姿を見て、溜息を吐く。


「はあ……」


(やれやれ、とんだ目に遭ったわね。でも、この人たちの事はともかく――、これでやっと行けるわ)


 行けるの良いが、知らなくても良い様な事を色々と知ってしまったせいか、少し気疲れしていた。


「その……。すまなかった、レイ……」

「ん……」

「じゃあ、隊長達が出て行かれたら――」

「分かった……」

「ありがとう」


 小声で段取りを決め、二人は無礼にならない様、シヴァルイネたちが訓練場から出て行くのを見守る。それを待って、即走り出すつもりだ。


「はっはっはっ! いやあ、実にめでたい! こんな素晴らしいことを、伝えに来て下さるとは!」


 機嫌を損ねないよう、努めて笑顔でゴトキールはよいしょをしていく。


「実は、私たちもいつ日取りが決まるか、心配していたのです。それが貴女のおかげで――」

「ふふっ! いえいえ」

「今晩は、ちょっとした前祝でもしますかな! はっはっはっ!」

「そ、そうですか……」


 それ、私も誘ってくれないでしょうか、と言いたいんだが言えない。


「しかし、これから色々と準備をしなければなりませんなあ。結婚式を大いに祝うため、出来ることは何でもしなければ。うんうん」

「ええ」

「ですが、それがいち早く出来る。これも皆、貴女のおかげです」

「ふふふ! そこまで大層な事では――」


 さりげなく、自分たちの余興も必要であると主張する。そして、何気に笑顔で同意も頂戴。


「…………」


(良い傾向だねえ。この調子で、あの好物を食べてもらえば――)


 ゴトキールは策略の成功を思い描く。しかし――。


「いやいや! そんな事はありません。本当にありがとうございます、シヴァルイネ!」


 その言葉が出た途端、シヴァルイネの足が、ぴたりと動かなくなる。そして、微笑みも止まったその顔で、ゴトキールに振り向く。


「――今、何と?」

「え? いえ……。ありがとう、ござい、ます……?」


 問われた意味が分からない。取り敢えずそう返すと、彼女は困ったような表情になって首を振る。


「そうではなく――。何故、いきなり様付けで、私を呼ぶのですか……。違います。言いたかったのはそうではありません。その敬称を付けるべきなのは、シビアナの方です。彼女に付けて欲しいと言ったのです」


(しかも、さっきからずっと敬語でしたし。そんな必要はありませんのに)


 お茶のお誘いが始まった辺りからだ。ちゃん付けだけでなく、敬語のない彼との会話が、当然を通り越し、最早自然の域になるまで馴染んでいたため、その事にかなり違和感あった。


 だが、それは愛の告白の為だったと思い気にならなくなっていた。それが、実はそうではなかったのだ。だから、改めて違和感を覚えていた。不自然だと。そう。この不自然と感じているのが、いけなかったのである。


「いや、だって公私混同は良くないって、さっき……」

「――? ええ、それは確かに言いましたが?」

「はい、そうですよね」

「そうです」

「…………」


(あれ?)


 思ったような反応が一向に来ない。


(何だか伝わってないな……)


 ゴトキールは気を取り直して説明する。

 

「いやですから、ええと――。公私混同は良くない。そうなるとですね? シビアナ様だけでなく、シヴァルイネ様にも、ちゃん付けは――」

「…………」

「ね?」

「――あ!」

「はっはっはっは! そうですそうです!」


(し、しまった――!) 


 シヴァルイネは、先程の自分が行った注意が、大失態であった事にようやく気付いた。公私混同と言えば、自分にだって同じように降りかかる。それは分っていた。だが、自分とゴトキールが該当してるとまでは思っていなかったのだ。


 つまり、ちゃん付けで敬語の無い会話でも、彼女にとっては、きちんとした公だったのである。これに思い至れなかったのは、シビアナの事ばかり気にし過ぎた結果だろう。しかし、彼女ならそうもなる。


 自分の惚れた相手が、他の女性の名を馴れ馴れしく呼ぶ。しかも、その相手は絶世の美女。その美女が直に結婚するとはいえ、気分が良いわけがないのだ。ちなみに、人はこれを嫉妬という。


「まあ、言われてみればそうですよねえ。代々、黒曜神宮を守護されているカテンカ家の次期当主に対して、これは大変不躾な物言いでしたなあ……」


 黒曜神宮は、カトゼ大神宮にある十二の神宮の一つ。彼女の家――カテンカ家はここに納められているものを古くから守ってきた大宮司だ。


「えっと! あっと――!」


 何とか、挽回しようと考えを巡らすが、あわあわするばかり。焦っていると良い案が浮かばなくなってくる。土壺に自ら埋まっていく。


「でも、シヴァルイネ様の事を、ずっとちゃん付けで呼んでたもんですから、慣れちゃって」

「――っ!」


(それでいいのです! お願い、そのままで!!) 

 

「けれど、これがいけませんでしたな」

「…………」


 ゴトキールの言葉が容赦なく振り下ろされる。願い空しく、彼女の心は絶望に染まっていく。


「しかも、最初に怒られたのに、直さなかったからなあ、俺。それが、なあなあになって、今まで――。いやあ、めんごめんご」


 ぽりぽりと頭を掻く。


「――っといかんいかん。こういう馴れ馴れしいのが良くないですな。以後気を付けます。はっはっはっ!」

「…………」


 能天気に笑う側で、ゆっくりと項垂れていくシヴァルイネ。その笑いも、失意のどん底にいる彼女の耳には、もう届いていなかった。


(そんな……。ああ呼ばれて、私がどんなに嬉しかったか……。それがもうなくなると言うのですか? これからは、ずっと様付けなのですか?)


 彼女は、初めて「シヴァちゃん」と呼ばれるまでの事を、思い出していた。それは、彼と最初に出会った時まで遡る。あれは、穏やかな春の木漏れ日が差し始めた頃。当時、ゴトキールは近衛騎士隊の副隊長。彼女は、カトゼ大神宮で武芸の鍛錬を頑張っていた。


 その鍛錬の合間に、汗を流そうとお風呂場へ向かう途中。彼女たちはすれ違った。垂れ目ながらも、強い意志の籠った優しい瞳。少し長めの髪は、左右に分けられていた。騎士らしく引き締まった雰囲気を持つ爽やかな青年。今とは全く違う。正反対。


 ゴトキールは、その役柄上、王の護衛でカトゼ大神宮に、ちょくちょく顔を出していた。それにばったり出くわしたのだ。シヴァルイネは、そんな彼を見て胸が高鳴った。彼女自身は、気付いていないが、ぶっちゃけ垂れた目が好みの男性だったのである。彼は、正にど真ん中。それから出会う度、気付けばいつも目で追っていた。


 しかし、話す機会は一度もなく、月日だけが過ぎていく。彼女は、その当時から淑女。知らぬ殿方と、いきなり話すなんてとんでもない。誰かに紹介してもらうなんて、考えられない。


 そして、月日はそのまま流れ、お互い忙しく出くわす機会さえなくなった頃。武芸の腕を認められたシヴァルイネは、王宮での守護を任命されることになった。


 近衛兵団と初顔合わせをしたのは、その兵団の団長室だ。ゴトキールは、近衛騎士隊の隊長になっていた。今と変わらず、ずぼらな風体。すき上げた髪は、上手くまとまっておらず、何本も額に垂れていた。無精ひげも生え、目も以前より垂れたように見える。


 出会ったころと比べれば、随分と様変わりしていた。そして、久しぶりに見たその姿の変わり様を眺めて、彼女は誰にも聞こえないくらい小さな声で、一言呟く。


「か、格好良い……!」


 残念ながら、彼女は昔よりこっちの方が断然良いと思ってしまったのである。ちょっと疲れて老けてきたその感じが、ど真ん中のど真ん中。彼女は気付いていないが、垂れた目だけでなく、おじさん的な年上の男性もお好みだったのだ。


 そして、兵団長兼騎士隊長のゴトキール。副隊長のイージャン。王宮兵士を纏める兵士長。シヴァルイネを含んだ、王宮守護の任へ新たに就くカトゼの武人数人による、挨拶が始まる。


 これが彼との初めての会話。格好良いと改めて感じていたのもある。その緊張は、最高潮にまで達していた。


「カテンカ・シヴァルイネ・ベニケイと申します……」


 変なこと言わないように、簡潔に、簡単に――。そう思っていたのが功を奏したのか、恭しいお辞儀をちゃんとすることが出来た。手に持った棍棒も落とさない。深いお辞儀をしすぎて、背中に背負った武器が、抜け落ちてくることもなかった。しかし――。


「おお! こりゃあ、すっごい美人さんが来ちゃったねえ! はっはっはっ!」

「っ!?」


(ええええええ!? び、び、び、び、美人んんん――!?) 


 大好きな人に、いきなりそんな事言われたら、誰だって舞い上がるのではないか? 彼女もその例外ではなかった。しかも、緊張しきったところでの、不意打ちに近いこの発言。非常にやばい。


「い、以後お見知りおきを……」


 しかし、何とか、平静を保つことに成功。少しどもりながらだが、問題なく挨拶を返す。これも、日頃の鍛錬の賜物だ。だが、次の言葉は無理だった。ゴトキールが目を細めながら笑う。


「はっはっはっ! うん。よろしくねえ、シヴァちゃん」

「――っ!?」


(シヴァ、ちゃん――!!?) 


 この瞬間、自分の胸が打ち貫かれるような衝撃が走った。こんな風に呼ばれたのは、生まれて初めての事。今までは「シヴァルイネ」「シヴァルイネ君」「シヴァルイネ様」「シヴァルイネ殿」と言ったもの。


「シヴァ」といった砕けた物言いでさえ、家族にも言われたことがなかった。これには、身分が対等な友人がいなかったのもある。


 神職に携わる彼女の家は、格式高く言葉使いも丁寧なものしか使わない。基本、誰に対しても敬語。そして、作法や礼儀にも厳しく、彼女自身、生まれた時からそうあるよう躾けられてきた。それがいきなり「シヴァちゃん」と呼ばれたのだ。しかも、惚れた相手から。

 

 他の者にとっても、これは嬉しい事だろう。だが、そんな厳しい環境で育った彼女には、あまりにも強烈過ぎた。顔がもう真っ赤っか。彼女自身、自分の顔が熱いと分かるくらい。


「な、なな何という物言い! 初対面の人間に対して、無礼ではありませんか!」

「ええー? そおう? いやあ、はっはっはっ! めんごめんご」


 呑気に笑うその姿に、シヴァルイネは構える。そして、


「この――!」


 棍棒の突きが、ゴトキールの額に炸裂した。


「あだあ!?」

「た、隊長!?」


 イージャンが、その突きの速さに驚いたのもこれが初めてだ。こうして、彼女たちの関係は、この棍棒の一撃から改めて始まることとなる。


 彼女は、他の者がいる手前、何とか怒りはした。だが、一番の理由は、もちろん自分の気持ちを隠すため。もう、胸がときめいて仕方がなかったのだ。顔合わせが終わり、自分の邸に戻り、武装を解いて自室に入った途端。それ以上我慢が出来ず、寝台に飛び込みその上でごろごろと転がり始める。


「シヴァちゃんだって! シヴァちゃんだって! きゃああああああ!」


 そんな嬉しい悲鳴を上げながら、布団を丸めて抱きつき悶絶と興奮を繰り返し続けた。そこにいるのは、淑女ではない。間違いなく乙女そのものだ。そして、夜になってようやく落ち着いた彼女は、自分の胸にずっと残っている気持ちに気付いた。それを、人は恋という。


 まあ、ずっと以前からゴトキールに恋をしていたのだが、その思いが強くなりようやく自覚ができたというわけだ。


「はあ……」


 窓の外に見える夜空を見上げながら、頬杖をついた恋する乙女は、ご多分に洩れずうっとりと溜息をつく。「シヴァちゃん」――。意中の男性に、ただそう呼ばれただけで、とても親密になった気がしていた。心がほんわかとして幸せだった。


 あの人と私が結婚したら――。そんな未来も思い浮かべてみたり。そして、婚約指輪の練習を、徹夜してやり始めた。しかし、それが思うように上手くできず、次の日から、気合を入れて練習を開始したのだ。それなのに――。それなのに、もうシヴァちゃんとは呼ばれない。呼んでくれない。


「シヴァルイネ様……?」


 ゴトキールが、俯いたシヴァルイネを不審げに眺める。


「…………」


(お団子ぐらいじゃあ、全然割に合わない。折角、黒薔薇騎士団を解散させたのに、これでは意味がないじゃありませんか……)


 実は、解散を宣言した黒薔薇騎士団は、その後すぐに追い打ちを食らっている。それをやったのが、彼女であった。自分の惚れている男性が、他の女の子にうつつを抜かしていた。あまつさえ、その団体の団長をしているなんて許せるはずもない。


 しかも、それを騎士団として、自分たちで勝手にやっている。近衛騎士の本分も忘れて。じゃあ、正義は我にあり。というわけで、その存在を知った彼女は、大義を得て、黒薔薇騎士団に容赦のない制裁を加えた。


 とは言っても、実害はゴトキール一人が、こうむっただけ。団長を――、頭を押さえたというわけだ。一応の表向きは。しかし、その本心は、もちろん愛憎が入り混じった嫉妬からである。ただ、この国はその気質から、単純に頭を押さえただけでは、そこまで効果がない。それは分かっていた。


 そこで、解散を宣言していたとはいえ、騎士団が二度と復活しないようにと、ゴトキールをリリシーナ王女の元まで連行し、全てを自白させた。これをやったのも、彼女であった。国の最高権力に近い力を、使ったというわけだ。


 その結果、黒薔薇騎士団は、王女の名の下、その活動を全面的に禁止され、名実ともに解散する羽目となったのである。


「シヴァルイネ様……?」

「…………」


(これからは、あんな事に囚われない。私といる時間も増える。そう思っていたのに。そうしたら――)


 シヴァルイネは、これから起こるであろう楽しい時間と、その先にある幸せに思いを馳せた。


(それなのに、どうしてこうなったの? 何がいけなかったの? 何が――)


 この自問に、はっきりとした答えをすぐに見出す。 


(それは、全部この人。この人が悪い。黒薔薇騎士団をまた勝手に復活させて、遊んでいるこの人。近衛騎士の職務を果たさないで、あんな事をしているこの人です。断罪されなければなりません。二度とこのような事を考えられなくなるまでに。前よりもっと、きついお仕置きを――!)


「シヴァルイネ様……?」

「騎士道不覚悟……」


 彼女は、ぽそっと呟く。


「え? シヴァルイネ様、今何と?」

「――っ!?」


(また、言ったあああああ!)


 計七回もと、彼女は涙が出そうになりながら、ゴトキールをギン!と睨み付ける。


「騎士道不覚悟と言ったのです! カトゼの武人であるこの私を、買収しようとするなど言語道断! 極刑に値する!」

「っ!?」


(げげ!? 何故それを――!?) 


 残念ながら、買収しようとしていた彼の思惑は、見事に見透かされていた。その上で、誘いに乗っていたのだ。何故か? それはもちろん、一緒にお茶出来るから。そして、シヴァルイネは、背中にある大太刀の柄頭から垂れている注連縄に手を掛けた。


 この大太刀の鞘は、抜刀しやすいように、刀身の峰を納めている方が縦一直線に裂けている。また、刀身の根元は、はばきと鞘の鯉口。そして、切っ先は鞘底であるこじりの金具で、外に飛び出さない様に固定されていた。


 よって、ご使用の際は、刀身を少し引き抜いて、その固定を外す必要がある。だが、鞘の裂け目のおかげで、すぐに抜刀が出来るようになっていた。


 しかし、背負うと太刀が長すぎて、柄に手が届かない。そのため、柄頭に巻きついた注連縄を使い、鞭のようにしならせて、押し上げながら引き抜くのである。彼女は、そうやって大太刀を取り出し、宙に舞わせてから引き寄せ、柄を手に持つ。そして、両腕で上段を構えた。


「やはり、貴方は責任を取って切腹なされよ! わたくしが介錯して差し上げる!」

「うえええええええ!?」


 ゴトキールの買収工作。それが今や、彼を責め立てる大義名分となっていた。活動を禁止にされたはずの黒薔薇騎士団が、余興の稽古をしていた。これを、近衛騎士隊の隊長という身分と、茶菓子という賄賂を使って自分を黙らせようとしたのだから。これで思う存分叩っ斬れる。カトゼの武人に、そういう事をしてはいけないのである。


「そこに直れえええー!」

「ぎゃああああああああああ!?」


 お前の腹切りなんぞ、無用とばかりに振り下ろされた大太刀が、身を逸らしたゴトキールの眼前を掠める。今のは、どうにか避けれたようだ。傷は増えていなかった。

 

 そう。彼の顔にあった切り傷は、彼女によって刻まれたのである。おっぱいに目が眩んだ時、作法を守らず不興を買った時、黒薔薇騎士団の存在がばれた時――、等々。数え上げれば、きりがない。そして、これが彼女を一番恐れていた理由。下手をするとこの様に、自分の身が真っ先に危うくなるからである。


「はああああ!」


 気合と共に横薙ぎにされた彼女の大太刀が、もう一度空を切り裂いた。爆風が轟く。


「ひいい!?」


 ゴトキールはしゃがんで避ける。だが、今度は自分の髪が、目の前でぱらぱらと床に落ちていくのを見て、顔が青褪めた。


(やばい! まじで殺される!)


 そして、それが合図となって逃げ始める。全速力であった。 


「待て! 逃げるか、卑怯なり! 正々堂々と切り捨てられよ!」

「無理だってえええええ!」


 二人はそう言い合って、訓練所を周りながら追いかけっこを始める。一週目。追い付かれては、その斬撃を避け、また追いつかれては、を繰り返した。


 二週目。シヴァイルネは、斬撃に加え、不意に胸元の襟に手が伸ばす。そこに仕込んだ棒手裏剣を前方目掛けて飛ばしていく。それを、左右に体を入れ替え、器用に躱していくゴトキール。しかし必死である。


 取り残されたイージャンとレイセインは、それを呆然と眺めながら、立ち尽くすしかなかった。しかし、近衛騎士たちに変化はない。


「揃いも揃って鈍感野郎どもが……」と悪態をつきつつ、いつもの事だと稽古に励む。そして、怒涛の三週目も終わり、しばらくすると、レイセインがぽつりと呟いた。


「イージャン、行こっか……」

「え? ああ……。い、良いのか?」

「問題なし……」


 もう無礼も何もない。あの二人が訓練場を出るまで待つ必要はなかった。それはそれとして、イージャンは不安に思った。


「大丈夫かな、隊長……」


 この光景はよく見ていたが、今日は何だか少し殺気の度合いが違う気がしたのだ。


「余裕でしょ……」


 特に根拠もないが、レイセインはそう答えた。そして彼女たちは、足早に訓練場を後にする。しばらくして、走る背中の後ろから一際大きな絶叫が。イージャンは驚いて後ろを振り向いたが、レイセインは特に気にせず王宮の外に向かう。先を急いだ。

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