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~伴奏 イージャンの指輪物語~  作者: 粟生木 志伸
第一章 受難の始まり
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第10話 上弦の夜 その2

「…………」


( 気まずい…… )


 青く小さな光が、瞬きを繰り返している。


 一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。あれからイージャンは、上弦の月をずっと見上げたままであった。


 しかし、天高くあったその月は、まだ沈み始めてはいない。


 庭園にある石造りの丘。その頂上に置かれた一組の石の卓と長椅子。その長椅子に座っている二人は、依然として無言だ。その時が過ぎて行く。


 宮中からは、もう笑い声は届いて来ない。辺りの静けさが、ひっそりとさらに深まっていった。


 イージャンは、横目でちらり。恐る恐るシビアナを見てみる。相も変わらず、むすっとして、両手を膝に乗せ頬杖を突いていた。それが分かって、彼はバツが悪そうに目を戻す。


「…………」


( 参った、どうすれば良いんだ……。このままで居ても良いのだろうか )


 いや、そうもいかない。何とかしなければ。そうは思ったものの、今のシビアナは危険だ。何を言っても結果は同じ。この事態は、どうやっても好転しないような気がしていた。


 例えばだ。謝ってみるとしよう。


「その……。シビアナ……」

「…………。何ですか?」

「すまない」


 何故かは分からないままだが、悪いのは自分。これは合っているはず。だから、誠意を込めて深く頭を下げたとする。すると、恐らくこう返されるだろう。


「それは、何についてでしょう?」

「え?」

「どうして、謝ったのか。その理由は何ですかと聞いています」

「いや、それは――」


 ここで、自分は何も答えられなくなる。そして、


「訳も分からず謝ったのですか?」

「は、はい……」

「そうですか……」


 終了。こんな感じになりそうだった。そして、彼女は、それ以上責める事もなく。そのまま無言に戻ってしまう。しかも、辛そうな顔をして。あれはきつい。胸がつぶれそうな気分になる。前にもあった事だ。


 しかし、この謝るという対応。やはり悪手ではない。そう思えた。自分が悪かったその理由さえ見出せればいけるのでは? では、肝心のその理由とは――。


「…………」


( うーん。シビアナは、ササレクタ様と仲が悪い。だから、やはりその彼女と会っていたのが、良くなかったのか……? 参った、他には思い付けないし……。これだろうか…… )


 そう、その通り。それが答えだ。彼は、その答えに納得ができるような理由付けを探す。だが、そうやってしばらく悩んでみても、やはりどうにも思い浮かばない。


( はあ……。どうしたものか。俺では良く分からない……。――あ。そうか、だったら―― )


 では、自分がシビアナの立場であれば、どうだったか。その時の事を思い返してみる。


「…………」


( ううううん。確かに――。俺も、自分と仲の悪い者がシビアナと話しでもしていたら、気分が良いものではなかったか……。やはり、これで間違いなさそうだ )


 良い感じである。彼は、到達したその理由に自信を持った。


( ――あ、いや。待てよ、しかしだ……。ササレクタ様と同じくらい、シビアナと仲が険悪そうな者達は他にもいる。俺がその者達と会っても、別に何も言われなかった。ここまで機嫌が悪くなる事もなかったはずだ。うううむ……。なら、やはり違うのか……? )


 やはり駄目であった。良くて親しい友人。恋愛というものをまるで分かっていない様では、どうしてもその答えを素通りする。単純に、ササレクタと会っていたのが悪いと思えない。


 ちなみに、シビアナの機嫌が最悪にならなかった、その理由もまた単純。その者達が皆、若い女性ではなかったからである。


 イージャンは、答えを目の前にして、その周囲をぐるぐる回る様に。そのまま一人理由を考え、心の中で唸り続ける。だが、どうやっても、その答えが見えず、最早これまで。


 それから、匙を投げて他の手を考えようとした、その時だった。


「くちゅんっ」


 非常に可愛らしいくしゃみ。イージャンではない。シビアナのものだ。当たり前である。そして、彼女のこのくしゃみ。これを聞いただけでも、心を射抜かれ、ぽーっとする者は、かなりいる。いるというのに。


「――っ!?」


 そのくしゃみに、はっと気付いて振り向いたイージャンは、立ち上がった。


「シビアナ。ここは冷える。中に戻ろう」


 悩んでいた事も吹き飛んで、本気で心配をし始める。真面目であった。


 確かに、こうやって心配してくれるのは、恋人としても嬉しい事だろう。慮って言ってくれてる訳だ。普段であれば、感謝の言葉でも返すに違いない。


 だが、今のこの状況では、何とも間が悪すぎた。彼の真意は伝わっている。これは事態を動かす、またとない機会とか、そういう事は思っていない。本当に心配してくれている。


 しかし、それでも。今のシビアナが気に入るわけがなかった。


「…………」


( 中に戻ろう、ですって――? )


 彼女にとっては、久しぶりの二人だけだった。それなのに、他に誰もいないこの二人っきりの貴重な時間が、もう無くなってしまっても良いのか。本当にそれでも良いのかと。つぐんだ口に、むっかあと込み上げた怒りが帯びる。


「え、えーっと。シビアナ?」


 自分の声は聞こえているはず。だが、彼女は返事もしないで無言のまま。だから、恐る恐るその顔を窺い見ようする。すると、その前に彼女の手が差し出された。


「その外套を貸して下さい」

「え? が、外套?」

「はい。外套です。貸して下さい。風邪を引きたくないのです」

「いや、しかし。それなら――」

「貸して下さい」

「…………。はい……」


 有無を言わさぬその勢いに、すぐさま降参。羽織っていた外套を外し、両手で差し出した。この両手なのは良い。片手で渡すよりは丁寧な印象だ。自分が悪いと反省しているのも、伝わるかもしれない。


 だが、それだけは悪手のままなのも変わらない。シビアナは、つぐんだ口をむすっと曲げる。


( ここは、手渡すのではなく。そのまま肩にでも掛けてくれれば良いのに…… )


 そういうものである。しかも、初歩。


( これです。本当にいつもこれ。この人は、恋人として本当に何もしてくれません! )


 本当にただの初歩。その程度の事なのに、それすらもしてくれないと、さらに機嫌は悪くなった。差し出された外套を受け取ると、荒っぽく羽織り、再び頬杖を突いた。


 そして、シビアナは、つんとして動かない。それを察したイージャン。気まずそうにまた隣へと座った。最早、お手上げである。彼は、その様子を見て、理由も何も他の手立てでさえ、思い付こうとする気がなくなってしまった。


「…………」


( 気まずい…… )

 

 その時は、まだ続いて行く。無言の夜。静かである。だが、こんな夜でも、今の様な状況でなければ、話は違った。


 こうやって静かに、ただ二人で座っていても心が安らぐと言うか。いつまでも、そうしていたい気分にさせられたものだった。


 しかし、状況によっては、その静かな夜もここまで違うものになってしまう。イージャンはそんな差に遣り切れない様な気分になった。


 それから、彼は再び月を見上げる。その月は頂きに届かず、まだ登っているようだ。青い光が傍で瞬いている。


「…………」


( こんな事で、これからもシビアナを守れるのだろうか…… )


 近衛騎士になってこの方。彼女を守るために、出来る事は何でもしようと、自分に誓った。だから、剣術の鍛錬にも必死になった。だが、当然、今のこの状況には何の役にも立たず。


 自分にとって、守るとは、こんな状況を作る事ではない。シビアナが、いつだって健やかたらん事を。それを守りたいと、そう願っていた。なのに、ご覧の有様。


( 守り抜くとは……。本当に難しい事なんだな…… )


 近衛騎士の領分を超えた今、剣術だけでは足りないのだ。彼が、その事実に気付く時は訪れるのだろうか。


「…………」


( 結婚、か…… )


 先日。シビアナから、その告白を受け。イージャンは、家族になるのだと、そう受け止めている。嬉しかった。彼女が自分の家族になって、妻にもなってくれると言うのだ。


 彼にとって家族とは、父や母、そして妹などが一緒になって暮らすもの。そして、妻は、いずれ母と呼ばれる者。それくらいしか分かっていない。だが、それでも。そこには、何とも言い表せない感動があった。


 ただ、それはそれとして。その家族になる彼女と一緒に暮らすため、しなければならない事がある。現在、イージャンは王宮内にある兵団の寄宿舎暮らし。そこで二人は無理なわけだ。


( 隊長にも、部屋を出る用意をしておけと言われるだろうしな…… )


 あの部屋で一緒に暮らすには狭すぎるし、そもそも結婚したら出て行くのが規則だ。この規則には、従わなければならない。また、何より、そんな事をする気は毛頭ないだろう。彼には彼なりの男の矜持がある。


 だから、今使っている部屋から、いつでも出て行ける様に荷物を纏めなければ。まず、そう考えた。明日はその時間を作れるし、丁度良い。その支度を終わらてしまおうと。


「…………」


( ん――? 部屋? 部屋だって――? )


 ここで、ふと気付いた。部屋を出て行くと言う事は、当然、他に住む場所が必要になるわけだ。そう、住む場所が。では、それが一体どう言った事であるか、と言うと――。


「…………」


 彼はどんどん青褪めてくる。


「…………」


 冷や汗もどんどん流れてくる。全身でその意味が分かってきた。そして、


( あああああああ!? )


 どうやら思い至ったようだ。すると、幼い頃、父親と話していた記憶も思い浮かんでくる。


「イージャン。よおおく覚えておけ」

「……? 何、父さん?」


 新しく買った家の前で佇む二人。父親が両腕を組み、その家を見上げながら誇らしげに言う。


「ふ……。良いか、家ってのはな?」

「うん」

「男が買うもんだ……」


 それは、酷く自分に酔った言い様でもあった。何せ、その家は新築。しかも、周りにある他の家より大きく、決して見劣りなどもしない。それ程である。


 この新築と言うのも、ここは土地の限られた王都の中心ではないため、そこそこ見受けられる。だが、お値段は、その王都程ではないとは言え、やはりお高い。


 また、イージャンの両親は共働きだった。だから、母親の収入も別である。にも拘らず、そのお金を使わせる事はしなかった。


 それなのに、こんな立派な家を買えた自分。息子にも絶対自慢したかった。「どうだ? こんな素晴らしい家を買える父さんって、めっちゃ格好良いだろう?」と。すると、その息子であるイージャンが、父親を見上げて首を傾げる。


「ふうん。どうして?」

「どうして!?」


 父親は焦った。「うん! 父さんって、すごいね!」とか言われて、尊敬されると思っていたのに。まさかそんな質問が返って来ようとは。そして、悩み始める。


「いや、そりゃお前ええっとだな……。うううん……。ああ、そうそう! 父さんってのは、母さんやお前を守るもんだろ?」

「うん」

「そうだ。父さんってのはそう言うもんだよな? お前たち家族を体を張って守るのが父親ってもんだ。だからな、イージャン……」


 父親は再び両腕を組んで、自分の買った家を見上げる。


「家ってのは、その家族を守るために必要な居場所だ。そして、その居場所を作り、守り続ける。その役目は、父親がしなくちゃならない。だから、俺が買わなきゃいけないんだ。守られる方に買わせたら駄目なんだよ……」


 良い感じに言えたと、誇らしげに胸も張った。あと、自分でも格好良いと思って、きりっと眉も作った。だが、


「そうなの?」

「え!?」


 イージャンは、まだどうにも良く分かってない様子。参ったのは父親である。


「い、いやまあ……。そうだよ。そうに決まっているじゃないか……」


 語気も弱まり、そう返すのが精一杯だった。


「ふうん……」


 本当に全然納得していない。全然通じていない。そんな顔をして自分を見上げてくる息子に、父親は困り果ててしまう。他に、これだと言える様な恰好良い言葉なんて、もう浮かんで来なかったのだ。


 こうなれば致し方なし。父親は腰を落とすと、息子に耳打ちしながら、こそっと付け足した。


「あと、やっぱり恰好悪いしな。母さんにお金払わせるなんてよ。で、実際に払ってくれって、もし本当に言ってみろ。どうなるか分かるだろ? あの怖い母さんがさ。な? イージャン?」


 実は、新しく家を買う必要がなかったと言えば、そうなのである。今まで住んでいたのは貸家だが、そこでも家族三人、不便も多くなく暮らせていた。しかし、父親は欲しかった。自分の持ち家を。


 逆に、母親の方は乗り気ではなかった。必要ないと。そこで、父親が自分のお金だけで何とかするからと、最終的には土下座までしてどうにか許してもらい、買う事が出来ていた。


 そんな状態のままだったのに、払わせればどうなるか。その実情を見知っていた訳でも、土下座の現場を見ていた訳でもない。しかしそれでも、両親の上下関係を肌で知っているイージャンは、子供ながら察したようだ。


「あはは! うん、分かった!」


 今度はすぐに納得した。


「はっはっは! 良し良し! はあ……」


 どうしてお前は、父親の威厳がなくなる様な、こんな感じで言えばすぐに納得するんだ。と、がっくりと頭を垂れながらも。


 まあ、取り敢えず言いたい事は分かってもらえただろうと、父親はほっと一安心。それで良しとした。そして、そんな記憶を朧げに思い浮かべながら、イージャンは愕然とする。


「…………」


( な、何て事だ……。 俺たちの住む家が、まだないじゃないか! )


 そう。まだ何もしていなかった。ただ、別にそれが悪いわけではなく、気付くのが遅いわけでもない。シビアナからの告白も先日というのもあるし、住む家の話が出るとしても、それはもっと先になるからだ。


 新しく家が必要になる者は、大方、婚約指輪を貰った辺りで、候補地を探し始める。そして、結婚指輪を買う頃に、決めているのである。彼も、それと同じようにすれば良いだけの事。


 それに、今すぐ叩き出される訳でもない。シビアナだって勿論そうだ。本当に急ぐ必要はなかった。


 だが、彼は焦った。何たる失態。家は夫になる自分が買う物だと思っていたのもあり、これは非常にまずい状況だと、戦々恐々。絶望の底に叩きつけられていた。しかし、そんな中でも、気付けた事がある。


( シ、シビアナが怒っている原因は、これじゃないのか!? )


 彼女は、家を買うべき自分が何も言わないから、ここまで不機嫌になっているのではないのか。


 確かに、買うのが彼にもう決まっていて、何も言わなければ。待っている彼女は、不安にもなるだろう。ただし、それすらも伝えていない現段階では、その不安にもなり様がないわけだが。


 しかし、そんな事も考えられないのが、今のイージャンである。彼は、シビアナにも話していないのに、既に自分が家を買うつもり。それなのに、買っていない事実に気付いて、非常に焦っているのだ。


 しかも、今、彼女が怒っている原因も、これだと思い至り、その焦りは更に増している。とは言え、原因は別にあるかもしれないと、未だに絶対の確信が持てなかった。


 だが、例え違うとしても、これはこれで謝っておかないと後でどうなるか、今の彼にとっては明白であった。すぐさま、隣に座る彼女に自分の体を向ける。


「そ、その……。シビアナ……!」

「…………。何ですか?」

「すまない!」


 未だ不機嫌なままの彼女へ、本当に申し訳ないと、精一杯のその気持ちを込めて頭を下げた。


「…………」


( またですか…… )


 シビアナは呆れて溜息でも吐きそうだった。以前にも同じ事があった。それなのに、また今日も同じ。ただの繰り返し。そう思いつつも、尋ねてみる。


「それは、何についてでしょう?」

「え?」

「どうして、謝ったのか。その理由は何ですかと聞いています」

「いや、それは――」

「…………」


( ほら。やっぱりです )


 また黙り込んだ。理由なんて分からない。今でも、ただ謝れば良いと思ってる。シビアナは、彼のその様子を眺め、悲しくて泣きたくなってきた。どうして、それでは駄目だと、気付いてくれないのかと。


 だが、今回は前回と違うのだ。言いあぐねていたイージャンが、意を決したようにしてその顔を上げる。


「その……。シビアナ。すまない、実は……。家の事なんだが……」

「…………」


 家――。今の話とは、まるっきり場違いなその言葉。そんなものがいきなり飛び出してくる。だから、流石に聡明な彼女でも、すぐには意味が分からなかった。聞き返すのにも、少し時間が掛かる。


「…………。…………。家……? ですか……?」


 未だに良く分からない。しかし、それでも尋ねてみると、彼は申し訳なさそうに頷いた。


「ああ、家だ。実は、二人で住むその家をまだ買っていないんだ……。本当にすまない!」


 イージャンは、もう一度、勢いよく頭を下げた。


「…………」


 それをしばし呆然と見つめるシビアナ。だが、


「…………」


 どんどん状況が理解できてくる。一体、彼が何を言っているのかを。そして、


「…………。い……。い……」


( い、ええええええええ!? )


 どうやら理解に達したようだ。すると、シビアナは、顔を真っ赤にして驚いた。その顔から蒸気でも噴き出しそうなくらいに。彼女にとって、いきなり二人の住む家とか言われたら、それはもう嬉し恥ずかし大慌てであった。


 イージャンと一緒にしたいこと百選、第七位。『二人で自分達の家について語らう』 こんなものを考えているのだから、それも仕方がない。


 また、この驚きの大きさには他にも理由がある。まさかイージャンの方から、この話を振って来るとは思っていなかったのだ。それに、自分が予定していた順序とも違う。


 シビアナとしても大方の者と同様に、まず婚約指輪。それから、その報告をジャムシルド達に伝え、彼の家族にも挨拶へ行く。そうやって色々と周知を重ねて、家の事はまだまだ後になる予定だった。


 そのつもりだったのに、イージャンは思い描いていたこの順序を、何段もすっ飛ばしてきたのだ。しかも、何の脈絡もないこの状況下に。


 そして、ここまでの驚き様には、根本的な理由がある。それは何かと言うと――。


「~~~~~~~!!?」


( 家!? 家!? 家!? わわわわ!? 私たちの家ですか!?  )


 普段のシビアナは、冷静、沈着、悠然。いつだって、その笑みを絶やさない。物腰も柔らかいが、感情の起伏も見せない静かな女性だ。


 しかしながら、今はそうもいかない。何故なら、シビアナもまたイージャンと同様。いや、流石にそれは彼女に対して失礼極まりないのだが、しかしそれでも同じだと言わざるを得ない。


( 家!? 家!? 家!? どどどうして、そんな事を今――!? )


 シビアナもまたイージャンと同様。恋愛初心者なのである。


 彼以外に恋愛感情を持った事など、一度たりともありはしなかった。恋人としての注文を色々と付けようとも、それは知識と妄想が膨らんだけ。


 こういった状況で湧き起こる感情――。有体に言えば、胸がキュンキュンと、ときめく事に。未だ一切の耐性がなかったのである。


 しかも、これは不意打ちなわけだ。更に言えば、恋人として何もしてくれないと思っていたところで、急に来た。そのせいで、胸はキュンを飛び越えギュンギュン。普段の様に動じず、受け流す様な事も出来はしなかった。


 そうなっているのも、やはりその相手がイージャンだからこそ。他の者では、この様な状態には陥らない。

 

「シビアナ、本当にすまない! 今から隊長に訳を話して、明日にでも家の売っている所を探しに――!」

「え――?」


 彼女は、未だギュンギュンの渦中。心の整理が追い付いていなかった。それなのに、イージャンが立ち上がってしまう。


「あ――。ちょちょ、ちょちょっと待って下さい!」

「いや待てない! 許せ、シビアナ!」

「きゃっ!? ちょっとイージャン!?」


 彼は答えも待たず、外套に包まれた彼女を両腕で抱きかかえた。


( えええええええ!? )


 こっちもこっちで、いきなり何段すっ飛ばしてくるんですかと、シビアナは更に顔を赤くして慌てまくった。胸は、もうギュルンギュルンである。


 イージャンにして欲しいこと百選、第五位。『抱きかかえられたい(=お姫様だっこされたい)』 恋愛初心者が、こんなものを考えているのだから、やはりこれも仕方がない。


 ただ、こうやって抱きかかえられた事自体はある。あの時も嬉しかった。これは何度でもやって欲しい。しかし、急には困る。自分にだって、心の準備は必要なのだ。


 だが、その準備も、今のこの状況下では最早どうにもならなかった。恥ずかしさと嬉しさと焦燥が入り混じって、やはりいつもの様に状況を御しきれない。


 そして、そんな彼女を抱きかかえたまま、イージャンは足早に階段へと向かい始めた。


「シビアナ! 今日なら、まだ隊長と話が出来る! しかし、明日はどうか分からない! だから、すまないが、すぐにでも向かいたいんだ! 先に君を送り届ける!」

「ええ!? 今からですか!? おおお落ち着いて、イージャン! ちょっと待って下さい!」


 シビアナは必死に訴えるが、彼に止まる気配はない。自分を抱えたまま、どんどん階段へと向かって行く。


 困ったのは彼女だ。何故なら、ジャムシルドを納得させるためにと、自分たちの住む家は、もうどうするか決めている。また、念のための候補先も、別で何件も揃えているのだ。


 あとは、イージャンに了承を取るだけ。先の話ではあるが、ここまではとっくに用意をしていた。しかし、このままだとその全てが破綻しかねない。その可能性が出てきたと焦っている。


 つまり、シビアナは。イージャンが選んでくれた家であれば、例えそれがどんな家でも。自分も、そこに住みたいと必ず頷く。そう直感してしまっていたのである。


「れ、冷静に! イージャン、私の言う事を聞いて下さい!」


 焦り焦った必死な訴えは続く。だが、彼は止まらない。


「ああもう! ええっと、その! い、良いですか、イージャン! それは、わ、わわ私たちの……! 私たちの、その……」


 自分たちの住む家なのだと。そう口に出そうとしたが、無性に恥ずかしくなって躊躇われてしまう。だが、そうもやっていられない。シビアナは頑張った。


「イージャン! それは私たちの! その、す、住む家になるのです! せめて、少しでもその話をしてから――!」

「――っ!?」


 そうだった。確かに、自分は考え足らずであると気付いて、イージャンの足が止まる。彼女も住む家なのだ。


「シビアナ!」

「は、はい!?」


 真剣な眼差し。その両目に見つめられ、シビアナはどきりとして、そうとしか返せない。そんな彼女にイージャンが言った。


「どの辺りが良い!? 貴族街も広い!」

「えええ!? す、住む場所ですか!?」

「そうだ!」

「そうですか!」


( いえ、私が言いたいのは、そう言う事ではないんです! ) 


 と、シビアナは叫びたかった。だが、


「ああ、その……! そうじゃなくて、えっと……。いえ、私は、貴族街ではなくてですね、その――」


 恋愛初心者特有とも言うべきか、慣れないその混乱のせいもあって。彼を止めることよりも、尋ねられた事を。自分が住みたい場所を考えてしまう。やはり七位。こんな状況であっても、それが叶って嬉しかったようだ。


 その嬉し恥ずかしさも手伝って。照れ照れとしながら目を伏せ、もじもじと両手の指を互いに合わせながら、その答えを伝える。


「わ、私は、その……」

「ああ!」

「えっと……。中層であれば、どこでも良いのですれけど……」

「分かった! 中層だな!」

「はい……」


 確認は取れた。後は、自分が隊長に会って、訳を話し外出許可をもらうだけ。そもそも、明日は時間が取れるはずだった。何の問題もない。彼は再び、足早に歩き始めた。そして、幸せそうに、ぽーっとなっていたシビアナ。


 本当はどこでも良いわけでないのに、それでもイージャンが選んでくれるなら――。そう思ってしまい、やはり間違いなくこれは頷くと。口走った自分に照れていたが、動き始めた事に気付いて、ぎょっとする。


「お、おおおお落ち着いて下さい! だから、落ち着いて!」


 そうやって何度も叫んだが、彼の歩みはもう止まらない。階段がどんどん近づいてくる。それにつれ、シビアナの焦りも、どんどん増して行く。


 階段を下り切ってしまえば、今度は走り始めるだろう。こうなっては手遅れだ。その速さだと、すぐにでも王宮内に戻ってしまう。そして、彼は隊長の元へ。自分の計画は破綻。


 それだけではない。これは、二人だけの時間が終わる事も意味する。そんなのは嫌だ。だから、更に焦っていた。


( ああ! どうしたら――! )


 胸も思考もギュルンギュルン。何も思い付けない。そして、イージャンはすぐに辿り着いてしまった。階段を下りていく一歩手前。


 だが、シビアナは神童の再来。そして、これまで幾度となく突発的な危機を好機へと変えてきた。そういう経験を積み重ねてきた女性でもある。


( ――あ! )


 それが活きる。聡明な彼女は、この混乱へ必死に抵抗して打ち勝つ。瞬間、その聡明さを取り戻し、ようやく気付いた。


「イージャン!」


 見上げると急いで言葉を続ける。


「家は、私が探しておきます! 私の方が詳しいでしょうから! ね?」

「…………。あ……」


 果たして。階段を降りようとしていたイージャンの足が、ようやく止まった。それが分かって、どっと疲れたと、シビアナは安堵の溜息を吐く。


「はあ……」


 ここまでの焦燥は久しぶりの様な気がして、更に疲れが増していた。しかし、何とも情けない。簡単すぎる。ああ言えば良かったのに、どうしてすぐに気付けなかったのか。


 家についてに拘らず、こういった情報や知識は自分の方が詳しいのだ。それは、イージャンもよく知っている。


 しかも、落ち着いてみれば不思議なもので、他にも止める手立てがあったと、どんどん思い付き始める始末。そのせいで、自分の慌てようを思い返し、疲れも増した。ちなみに、一番簡単なのはそう、彼の両腕から降りれば良かったのだろう。


「…………」


( でも、それは勿体なくて、今でも出来そうにありませんね…… )


 そう思い至り、この案はすぐさま蹴る。そして、先程の慌てっぷりを改めて反省。そんなとほほな彼女を抱きかかえたまま、イージャンの動きも止まったままだった。


「…………」


 確かにシビアナに任せれば良い。だが、そうと分かっていても迷う。家を買うだけでなく探すのも、自分がするべきではないかと。とは言え、やはり彼女も住む家なのだ。だから、その彼女が住みたいと思ってくれる家を絶対に見つけたい。


 そうするのに一番確実なのは、結局、任せる事だ。これで間違いはないのである。


「それもそうだな……。すまない、シビアナ。また手間を掛ける事になるが……。その……、頼めるだろうか?」


 申し訳なさそうに伝えた。


「はい。任せて下さい」

「ありがとう。助かる」

「…………」


 ありがとう。そう言われて、じっとその顔を見つめる。心が弾む。彼に言われると、どうしてこんなに嬉しいのだろうか。そう思いながら、じっと見つめた。


 そして、しばらくそのまま見つめていると、イージャンがその様子を訝しんで首を傾げる。


「シビアナ?」

「あ――」

「どうした?」

「い、いえ……」


 自分の名を呼ばれて我に返った。そして、照れた様に目を伏せ、それから言う。


「イージャン。それでは、あの……」

「ん?」

「長椅子の方に戻りましょう」

「ああ、そうだな」


 彼女に促されて、座っていた長椅子へと戻った。そして、再びその長椅子へと座るイージャン達。これで二人の時間が続く。シビアナも一安心だった。それは良いのだが、


「…………」


 シビアナが内心困った様にしてイージャンを見上げる。彼は彼女を降ろさない。何故だか、抱きかかえたまま、長椅子に座ってしまっていた。


「…………」


( もしかして。こ、このままなのでしょうか…… )


 シビアナはどうしようかと迷った。伝えた方が良いのか。それとも、何も言わない方が良いのか。


 確かにこのままが良い。彼の息づかいも感じられるこの近さ。実に素晴らしい。離れたくない。だから、黙っていたかった。


 ただ、そうは思っているのだが、しかしこの状態はそう長くは持たない。無理な理由もあって迷っていた。そして、そのまま迷い続けていると、イージャンがぽつりと呟く。


「俺は、いつも君に助けてもらってばかりだ……」

「え……?」

「ありがとう、シビアナ」 


 驚いた様に目を開くシビアナに。彼は、困った様にして笑みを浮かべながら言う。本当は自分が助け守りたいのにと。それは伝わったようだ。


「…………。はい……」


 彼女も困った様に笑みを浮かべる。だが、やはり嬉しかった。報われた心持ちにもなって、自然と目が細まっていく。その笑みを見て、イージャンは、


「それから……」


 そう言いながら目を瞑った。そして、


「すまない……」


 怒らせた理由は、依然として分からないまま。だが、それでも頭を下げた。


「…………」


( もう……。ずるい人です…… )


 結局、前と同じ。その繰り返し。確かにその通りだが、そうと分かっていても、今ならもう許せた。


「分かりました。先程の話はもうお仕舞にします」

「ありがとう」

「…………」


 シビアナから小さな溜息が零れる。このありがとうは、心が弾むとは何か違う。けれど、悪い気はしなかった。


 イージャンは、彼女が許してくれた様で心持ちが軽くなった。静かな夜。ずっとこのままでいたい。次第に、そう思えるようにもなっていると気付く。そして、夜空をまた見上げる。


「…………」


 静かで穏やかな月だ。瞬く青い光も星々も、その穏やかさに包まれているようだった。それは自分自身も。そう思えるようになっていた。


 そして、月に見下みおろされながら覚え始めたこの感覚、この気持ちの有り様――。それは、以前にもあった事だと気付く。


「あの時も――。上弦の月が出ていたな……」


 そう。確かにあの時も同じ。この月が出ていた。


「ふふ……」


 その呟きは、抱きかかえられたシビアナにも聞こえていた。上弦の月。怒った事。仲直りした事。これで彼が何を思い出しているのかを察した。その顔を見上げる。


「ええ。出ていましたね……」

「ああ……。…………。あ、いや……」


 シビアナに答え、自分が呟いていたのだと気付く。しかし、これ以上その話をするのには躊躇われた。そうなる理由が彼にはあった。


「…………」

「イージャン……?」


 黙り込んだその様子を見て、シビアナは不思議に思ったが、それからすぐにイージャンが答えた。


「いや、すまない。あの時も同じ。綺麗な月だったな」

「ええ、そうですね……」

「ああ。あの時もその……。君を怒らせてしまったが、その後は楽しかったよ……」

「ふふふ……! はい……」


 黙り込んだのは、怒らせた事を思い出していたから。シビアナはそう思った。それから、お互い夜空を見上げて、その時にもあった上弦の月を思い浮かべる。


「…………」


 シビアナは、楽しかったその思い出を懐かしそうに。目を細めて瞳に月を映す。それはイージャンが近衛騎士になって少し経ってからの話。今から数年前となる。そして、その彼もまた瞳に月を映す。

 

「…………」


 だが、映し出されたその瞳は、憂いを帯びていた。きっと、同じ思い出であるならば、彼もその様なものは帯びないだろう。


 違うのである。二人は思い違いをしている。彼らが思い浮かべているその月は同じではない。


 そして、仰いだ月を見つめるシビアナが、イージャンのその瞳に気付く事はなかった。しばらくして、そのまま言う。


「イージャン」

「うん?」

「あれから――。お互い色々ありましたね」

「…………。ああ、そうだな……」


 シビアナは、イージャンが近衛騎士になってからの話をしている。だが、彼はその様に受け止めていない。


「そうだ、イージャン。これも覚えていますか?」

「ん?」

「ほら。今みたいに私を抱きかかえて、王都を走り回った事があったでしょう?」

「ああ、それなら覚えている。俺が原因で、殿下達が王宮から抜け出されて、それを探すため君に助けてもらったんだったな」

「ふふ。ええ、そうです」

「はあ……。おかげで、殿下の居場所はすぐに分かったが……」


 目を瞑ると、眉間に寄っていた皺がさらに深まる。


「あの時は、結局一日中走り回ることになって、本当に大変だった……」


 そう。彼にとっては大変だった。見つかってもすぐに戻る事はできず、シビアナと一緒になって、そのまま王女達に連れ回される羽目になったのである。


「君にも、とんだ迷惑を……」

「ふふ。そんな事はありません。私は殿下の側付ですから。それよりも、あなたがあのまま一緒に付いて来てくれた事に、感謝をしています」

「そう言ってくれると有り難い……」

「いえ。それに……」

「ん?」

「あの時も――。楽しかった、ですよ?」

「そ、そうか?」

「はい」

「なら――。良かった、のだろうか……?」

「ええ」

 

 ほっとしたイージャンを見上げながら、シビアナがくすりと笑う。


「王宮に戻らなければならないのに戻れないと、ずっと焦っていた、あなたのあの落ち着きのない様子と来たら――」

「…………。参った……」

「ふふふふ……!」


 シビアナが、この話を出したのは、確かに楽しい思い出だったからに違いないのだが、他にも理由があった。


 彼女としては、ちょっと鎌を掛けたつもりなのだ。「今も抱きかかえたままですが、あなたはそれに気付いていますか?」と。試しにそれを仄めかしてみたかったのである。だから、敢えて口にも出してみた。


 だが、それで彼が気付いて、この素晴らしい密着が終わるかもしれない。これについては勿体ないとは思っているが、ずっと、こうもしていられないのだ。それもあって、試してみたのである。


 しかし、その鎌掛けも無駄に終わったようだ。どうやら、イージャンは本気で気付いていないらしい。なら、もう構わないかと、シビアナは出来る限りそのまま彼の腕の中にいる事にした。


( ふふ……。それに、やはり勿体ない、ですからね…… )


 結局、それがまさっていた様である。彼女は、それから今の話を皮切りに、二人の思い出を一つずつ挙げていった。


 王女の側付侍従官と、その彼女を――つまり要人を守るのが近衛騎士である彼だ。共に行動する事は多かった。そして、シビアナの記憶力。そのため、思い出話は尽きない。


「ふふふ……!」


 楽しかった。こうやって二人っきりで話しているのが。きっと、これが彼女の願った二人だけの時間なのだろう。また、こうやって思い出話を続けていく内に、ちょっとした発見もあった。


「…………」


( 少し驚きました。この人はよく覚えています )


 彼女にとって意外だったのが、自分が思い出話を挙げれば、最初の話同様すぐに答えが返って来た事だ。しかも、詳細にと言えるほどには覚えている。そう感じた。


( ふふ。何だか、不思議な気分ですね…… )


 知らなかった一面が見えた様で、これも嬉しく思った。そして、この事は丁寧に覚えておこうと、心にしたためる。


「…………」


 だが、したためていたその手が不意に止まる。彼は記憶力が良い。であるならば、或いはあの時の事も、覚えているのではないか。と、その問いが過った。


 確かに有り得る。しかし、すぐに首を振った。例え、覚えていたとしても、自分が誰であるかまでは分からないだろうと。それに、彼はこれまでそんな素振り、一度も見せた事がない。


 そうであるのも無理からぬ事、と彼女は思う。あの頃の自分と、今の自分とでは別人と言って良い程随分と違っているのだ。性格も違うと自分でも思うくらい。何から何まで。だから、分かる訳が一つも挙げられない。


 ただそれでも、伝えればきっと気が付くだろう。その可能性は感じた。だが、それは出来ない。尋ねる事も出来ない。自分が誰であったかを。それを許さない理由が彼女にはあった。


「…………」


 気付けばシビアナは、気分が落ち込んでいた。顔も俯いていると気付く。いけない。これでは、折角の楽しい時間が台無しだ。また、その楽しい時間をと思ったが、何故だかその気力が起きない。それに、残念ながらそろそろ限界だった。


( そうですね。頃合いだったのでしょう…… )


 二人だけの楽しいお喋りの時間。そして、素晴らしいこの密着はここまで。そう踏ん切りを付け、彼を見上げた。


「ええっと。その、イージャン……」

「ん? 何だい?」

「その……」

「……?」


 首を傾げて不思議そうにしているイージャンに、視線を落とし申し訳なさそうに声を小さくして答えた。


「そ、そろそろ、私も長椅子の方に座りたいのですけれど……。ごめんなさい。鎧だと、どうしても……」


 勿論、このままで居たいのは山々。だが、如何せん、彼女の背中を支えるのは、彼の腕が纏う硬くてごつごつとした軽鎧の籠手。そして、座っているのは、彼の腿を覆う凸凹とした佩楯はいだての上だ。


 外套に包まれて軽減はされていたが、それでも限度があった。ずっと当たっていて、どんどん痛くなってきていたのである。


「…………。座る……?」


 しかし、シビアナが言っている事の意味が、やはり彼には良く分からなかったようだ。だから、その意味を考える。じっと彼女の体と眺めた。


「あ――!?」


 すると、ようやく気が付いたようだ。今、自分たちがどのような体勢で座っているのかを。


「す、すまない……!」

「いえ……」


 イージャンは慌てて立ち上がる。ただし、彼女に無理を掛けない様に。注意を払いながら、勢いは付けなかった。そして、立ち上がると、腰を落とし、彼女の足を石畳に着かせ、ゆっくりと自分の腕から降ろした。


 それから、隣り合わせで長椅子に座り直す。お互い照れて、気まずそうに黙り込んだ。


「…………」


 再び、二人を包む沈黙。しかし、この沈黙、この気まずい雰囲気。先程の様な悪いものではない。気まずい様で甘い感じだ。そう、むしろ今は好機。それは、シビアナが意を決しようとする程には。


 彼女は絶対に夜が良かった。そう決めていた。二人っきりになるその夜は、自分が調整すれば再び作れる。強引でもなく、周囲に迷惑も掛けずに。次は早め。だが、それでも恐らく十日程は掛かる。そういう目算は既に付けれていた。


 ただ、彼女にとってはこれでも待ち遠しくて遅いと感じているので、やはり今夜が良かった。


 しかし、それよりも、彼女にとって問題なのは、渡す時の雰囲気だ。これが重要だった。相手は鈍感超魔神のイージャンなのである。


 また、今まで、色々な場面で策を練ってきたが、相手が彼の場合、いざそれを実行すると、どうにも上手くいかない事が多かった。その経験も囁く。こんな良い雰囲気は、もう二度と作れないのではないか、と。


 そして、自分がその策を弄さず、意図が介入しなかった自然な流れで出来上がったというのも、非常に得難く思えた。


 しかも、先程みたいな不測の事態が入り込んでくる可能性だってある。だから、彼女は決断した。今、渡そうと。胸に仕舞ったものに手を添える。


「ふうう……」


 遂に来た。遂にこの時が。シビアナの胸は高鳴っていた。添えた手にもそれが伝わってくる。その手を胸から離し、太ももの上でぎゅうっと重ねた。


「ふうううう……」


 もう一度深い呼吸をし、その覚悟もしっかりとできたと自分に言い聞かせる。さあ、言おう。シビアナは口を開く。


「イージャン――。実はね、渡したいものがあるのです」


 その声は、普段より一際美しく優しい。そして、どこか嬉しそうで。でも、不安げで。イージャンは、そんな声に自分の体を包み込まれた様に感じた。


 すると、何故だか分からないが、全身が強張ってしまう。鼓動も早くなっている。だけど、このままずっと傍にいたかった。


 自分でも、良く分からないこの状況。これではもう上手く話せそうにない。だが、答えない訳にもいかない。


「わ――、渡したいもの――?」


 どうにか一言伝えて、シビアナを見つめる。月の光に照らされ、美しい曲線を描く顔の輪郭。黒みを帯びた紫色の長い髪も、艶も帯びてその両端へなぞる様に、輝きながら垂れゆくようだ。


 そこから見え隠れする、目尻の下がった眼差しを優しそうに細め、彼女は自分の大きく膨らんだ胸元をそっと抑える。そして、


「はい……」


 静かに笑みを浮かべた。

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