社訓1 初めまして【3】
我が家で生活する上で必要なものだけ荷物を運び、段ボールの中の物も一通り出し終えたところで次期社長……もとい桐谷くんに少し休憩してもらった。
「物の配置など私たちに言って下さればお手伝いしましたのに……」
「いえ。お世話になるのにこれ以上ご迷惑は掛けられませんから」
桐谷くんは全て一人で引っ越しの片付けをしていた。さっき私がお茶を出した時も、今度から自分で入れるのでコップなどの場所を教えて下さい、と真剣な表情で話していた。
まあ、最初は緊張してそうなっちゃうのかな。少しずつ解れていくといいが。
「あの、ちょっと提案があるんですが」
私は昨日夫と話した、我が家では社長と思わずに接することについて桐谷くんに伝えた。
「それはどういうことですか?」
怪訝そうに桐谷くんは訊いてきた。
「あなたも今回の同居についてお父様から聞かれているんですよね。だからそれに沿って……」
「私は父から『家庭内の社会について学びなさい』と聞いておりますが」
あ、いかん。めんどくさい感じのヤツだ。
「つまりそれは『普通の家族のように生活しなさい』ってことでしょう?もちろんすぐには無理だろうけど、お互い努めていけたらな、と。それでまず、あなたのことを桐谷くんって呼んでも……」
「そんな話は聞いておりません。いくら私がお世話になるからと言っても、学びに来た私のことを見下すというのですか。一ノ瀬さん、つまりこれは父のことも侮辱するというのですか!」
何この展開。というか何という勘違い。彼は予想以上にプライドが高く頭が固かった。夫は誤解を解く余地もなく顔が青ざめるどころか緑色になっている。
「……すみません。感情に任せて見苦しい姿を見せてしまいました。少し頭を冷やしてきます……」
夫の顔色を見て気づいたのか、我に返った桐谷くんは私たち夫婦が昔から用意していた子ども部屋、これからは彼の自室になる部屋に篭ってしまった。
10分くらい経っただろうか。彼が部屋から出てこなくなってから。
夫は何か物言いたげに私をチラチラ見ていた。
「『お前、言い過ぎじゃないのか』って顔してこっち見ないでよね」
「いや、そうじゃなくて……どうやってこの状況を打破しようかと」
両手で頭を抱えながら夫は続けた。
「あんな感じでまだ幼いんだよな、見様見真似の社長だし。社長たるもの屈してはいけないっていうイメージがあるのか、変に気位が高いというか。父である社長の言う内容を理解できるほど内面が成長できてないんだよな」
「さっきと打って変わって随分冷静ね」
「そりゃあ、本人が目の前にいる訳じゃないし。つい取り乱してしまったけど万一の時には保険があるし」
「何よ保険って」
「保険だから物事が起こらないと実際どうなるか分からないさ」
……何かはぐらかされたような気がする。しかし夫は隠し事をしている様子はない。何故なら全く動揺していないからだ。夫自身あまり分かっていないのか。
「で、どうするのよ。彼」
「このまま放っておいて社長の遺言の意味を自分でよく考えさせるべきなのか、介入して本人を納得させるか。それともそれ以外に……」
またもやチラチラと夫は私を見ていた。
「何それ。考え事するときは私を見るっていう癖が出来たの?」
「いや、単純に君に何とかしてもらいたいなっていう」
私は夫の顔面に拳をぶち込んだ。
子ども部屋の前。私は閉められているドアをノックした。
「あの、入ってもいいですか」
「……どうぞ」
ドアの向こうで桐谷くんは小さく呟いた。
部屋に入った途端、私は目の前の光景に疑問を感じた。彼一人で片づけたはずの荷物が乱雑に置かれていたからだ。
「荷物は片づけたんじゃ……」
「片づけました。でもこれ以上どうしようもないんです」
部屋の中は彼のデスクや本棚が搬入されていたが、何故か壁に寄せるのではなく部屋の中央に配置されており、非常に狭く感じる。またノートパソコンがデスクの上とベッド横に二つあり、コードがからまっている。
「この配置はどういう理由で?」
「仕事をするうえで必要なデスクなどは、どこにいても一番近いように部屋の真ん中に置いて、パソコンなどの他の機具は寝ている時でもすぐ仕事できるように枕元にも置いています。効率重視です」
その時私は悟った。彼に足りないものはこういうところだと。
生活する上での基本的な思考が不十分なのだ。自分が実家で暮らしていた時に自然と身に付く家庭内の生活能力。彼にはその経験がなかった。
私が教えてやらねば。これから共に生活していく家族として。
「これではダメです。ゴチャゴチャしていて逆に仕事が捗りません」
「……今、何と言いましたか?」
またもや気分を害した様子で桐谷くんは訊き返した。
「それに掃除がしにくい。コードがからまったところなんて、埃も溜まりやすいし、足を引っかける恐れもある。この部屋はそれなりに広いのに、物の配置が悪くて狭く感じるので、集中しにくい環境になっています」
「私のやり方が間違っているというのですか!」
「ええ、そうよ。間違っている。それを家庭から学びに来たんでしょう。私は家族として教えてあげているんです」
「不愉快だ!居候する身とはいえ、こんな口の利き方をする人間の住む家には居られない」
会社の人に連絡するのか、桐谷くんが携帯電話を操作し始めた。
「お待ちください!」
夫が突如現れた。というか、ずっと陰から私たちをチラ見してたのは知っていたが。
「亡くなられた社長の遺言書にこう書かれているのをご存知ですか?『お世話になる家庭のルールに従う事。それが家庭内の社会における根幹だ』と」
もしや、それが保険なのか?果たして、それがこの息子に通用するのか……。
「ぐうっ!!社会における根幹……だと……」
胸を押さえ、桐谷くんは苦悶の表情をしている。
何か物理的にも効いてそうなんだけど。
「つまり、美香の言う事を聞き入れる必要があるのです。この家庭では、母親は美香なのですから」
桐谷くんは苦しみ過ぎて、膝をついて咳き込みだした。
え、何、発作?彼の中で何が起こっている?
何気なく夫を見ると、うざいくらいにウインクをしてくる。『やったぜ☆』と言わんばかりに。キモッ。
とにかく、この場を収拾する必要があるな。
「そういう事なら、私の提案を受けて貰えますか?」
桐谷くんに目線を合わせ、私は彼を見つめた。
「し、仕方ありません……。郷に入っては郷に従えと言いますから」
私たちは部屋の家具の配置を変えた。
私の指示通りにしてみると、かなりスッキリした室内になり、ゆとりのある空間になった。
「すごい……同じ部屋で同じ家具なのに、ここまで違うとは」
「でしょ?ただ効率だけを見てもダメなのよ」
自慢げに話す私を見て、夫が慌てて間に入った。
「美香!敬語がなくなってるぞ!」
「何か、もういいじゃない?家族として生活するなら、余所余所しいのはおかしいもの。やっぱり、あなたの事は透って呼ぶわ。私の事は『美香さん』とでも呼んで」
「それもルールですか?」
「じゃあ、ルールって事にしましょ。その方が則りやすいでしょ?」
「分かりました。これからもお世話になります……美香さん」
いつか、ルールでなくなる日がくるといいのだけれど。今の息子にはちょっと難しいかな。