社訓1 初めまして【2】
桐谷透。
ホーム・トイソル・コーポレーション次期社長。
そして私が育てていく息子。
いやいや、なんなんだこれは。
訪ねてきた社長の息子と夫を家に通し、私たちは話をした。
まず、彼は15歳の少年であった。今度の4月より高校に通うらしい。よく見たらまだ幼さが残る顔つきであったが、その表情はとても男の子というより社会人のように見えた。
そしてこの息子は法的に私たちの息子になる訳ではない。要するに居住するところがないのだ。彼の母は幼い頃に他界。親戚も遠方で疎遠らしく、協力は得られないとのこと。現在住んでいる自宅でそのまま一人暮らしが出来そうな見た目だが、父である社長はそれを認めなかったらしい。
また教育費や食費など彼にかかる費用はすべて社長の財産で賄う。管理は息子自身と社長の長年の秘書で行うそうだ。
つまり、我々は息子に住居の提供と家事全般の世話ということか。
「一ノ瀬さんが宜しければ、来週こちらに引っ越しをさせて頂きたいのですが」
「え、来週ですか?」
子どもといえど、どうもこちらも敬語になる。
「桐谷社長、我が家の都合は気にされなくて結構です。美香、特に問題ないよな?」
明らかに焦った様子の夫が半ば睨みつけるように私を見る。確かに次期社長に対し失礼な態度ではいけない。
「ま、まあ私は構わないけど……」
気圧されてついそう答えてしまった。来週なんて急すぎる。そもそも私は同居も認めてはいない。
「ありがとうございます。では詳細については追々連絡致します」
桐谷社長、もとい息子はそう言って夫と共に我が家を後にした。家を出るまで全て粗相のない態度であった。
何か違和感がある。次期社長としては相応しい対応だが、年齢には相応しくない。
その夜、いつも通り遅く帰宅した夫に話をした。もちろん、あの息子のことだ。
「何か引き取るってことになってんじゃないの。私はまだ認めたわけじゃないのに」
「……ごめん。あの場で断るなんてこと出来なくて」
私に責められて夫は小さくなっていった。
「彼、要するに同居するだけってことでいいの?ていうか、もうすでに立派な社会人じゃない」
「違うんだ。あれは表向きなだけで心はまだまだ成長していない。悪く言えば、今は『社長の真似』をしているに過ぎないんだ」
夫はどこか哀しそうな表情で続けた。
「社長がよく話していたよ。『透は早くに母親を亡くしてしまい、私は母がいなくても自立できるように厳しく育ててしまった。私の、社長の息子に相応しいようにマナーなど徹底的に教え込んだ。だから家庭の愛情や温かさを知らない。社会での表面上の付き合いはある程度出来ていても、心の豊かさは欠いている。人として成長できないまま、もう高校生になろうとしている。私が世間というものに囚われてしまい息子に可哀想なことをしてしまった。もう手遅れなのだろうか……』ってね」
「あっ、だから……」
「だから社長は人として立派な社会人に育ててほしいと遺したんだ。親の愛情、家庭の温かみを感じてもらうために」
社長や夫の言いたいことは分かった。しかし私には荷が重かった。
「でもさ……自分の家族、ましてや息子のように思うのは無理だよ。年齢的にも大きく離れてないし、私たちまだ結婚して数年だし、子どももいないし、何よりあなたの会社の社長になる人なんでしょ。彼自身この状況を受け入れているとはいえ、私には出来ない。彼の身の回りの世話なら出来るけど教育は無理。あなたは彼を育てていく自信はあるの?昼間顔色窺いしていたあなたに」
嫌味を込めて夫を突き放してしまった。でもこれは私たちや彼のためでもある。今ならまだ同居の話はなかったことに出来るのではないのか。仮にやはり引き取るとしても同居が始まる前にある程度決まり事を作っておかなければ。出来ないものは出来ない、ここから先は他人の境界線だ、というものを。
「……自信はない」
「そうでしょ?だから教育については……」
「シングルファザーになる自信はない」
「……え?」
「お前がいないとやっていけないんだよおお!!」
突然夫は号泣しだした。どういう意味か訊くも嗚咽がひどくて何を言っているのか全く分からない。夫が泣き止むまで待っているうちに徐々に私の気持ちは落ち着いてしまっていた。
「それで、俺が育てる自信があると答えたとして、お前はきっと『なら私は出ていくわ』って言って家を飛び跳ねて出るだろ。で、桐谷社長と二人で暮らしていくことになって、俺は家事が得意じゃないから社長を満足に生活させることが出来ないだろ。だから俺一人じゃ無理。そして俺が自信はないと答えたとして、お前が実は俺を試していて『この根性なしが。付き合ってらんないわ』って言って家を飛び跳ねて出るだろ。結局俺は社長と二人暮らしで……」
鼻をすすりながら未だ目に涙を浮かべて夫は話した。なんだコイツ。キングレベルのバカか。あと私は飛び跳ねない。
「もういいよ、分かったよ。同居も……認める。ただ私はやっぱり最初から彼を息子なんて思えない。まあ、もしかしたら一緒に生活するうちにそう思えるようになるのかもしれないけど。教育ってのもそれに付随すると思う……少しずつ努めてはみるよ。だから!」
私は夫に向かってビシッと指を差した。
「あなたも家庭内では次期社長と思って接しないこと!私も夫の会社の次期社長と思わないようにするから。これもすぐには難しいだろうから、あなたも徐々に努めていって」
「み、美香……」
夫は再び号泣した。顔面の穴という穴から汁を溢しながら私の名前を何度も呼んで感動しているようだった。その状態で名前を呼ばれる私の身にもなってくれ。
3月23日午前11時。
見たことがないような高級感漂う引っ越し業者のトラックが何台も我が家のマンション前に止まった。
「こんにちは。一ノ瀬さん、本日よりお世話になりますのでよろしくお願い致します。それでは今から荷物の搬入を……」
おいおい。ウチは4LDKの普通のマンションだぞ。