社訓1 初めまして【1】
夫、妻、子の3人家族で暮らせる4LDKのマンション。
いつか授かる子のために子ども部屋も用意している。
子ども机、たくさんのおもちゃ、学校の教科書がひしめくであろうその部屋には、
事務用デスク、複数のPC、経営理論の書籍がひしめき合っていた。
『今日も残業になりそうだ。ゴメン、帰るのが遅くなる』
夫からのメール。基本的に毎日送信され、その通り帰宅は遅い。
こういう時、普通は浮気を疑ったりするものなのだろうか。しかしウチの夫に関してそれは有り得ない。夫はバカ正直なのだ。隠し事をしようとしても自分で無意識に白状する。
以前、私に内緒で夫の友人に誘われキャバクラに行こうとした時も、
「あの……ダメだ、ここまで責められれば言うしかない!」
と、私は何も言ってないのに電話口で自白した。
しかし本人は至って真面目なのだ。私に冗談やふざけたことを言ったりしない。つまりバカ正直、いやバカ天然正直バカなのだ。これは褒め言葉である。決して夫を侮辱しているのではない。よって夫は私に隠し事は出来ないのである。
さらに私は今の夫が残業続きになる理由も知っている。夫の会社の社長が入院されたのだ。持病が悪化し、退院の目途は立っていないらしい。夫は若くして会社の上層部に所属しており、その上層部たちで社長の代理を行っている。故に忙しいのだ。
クソ真面目が功を奏して会社の重役を担い、その不自由しない収入を得ているクソ真面目を20代半ばで射止めた私はなんて優秀なのだろうか。もちろん、これも褒め言葉である。私に対して。
3月14日午後6時。心なしか私はソワソワしていた。先月の14日に夫にプレゼントした物のお返しがきっと来るだろう、と。いやいや、私は何を期待している。たかが世間のイベントに振り回されるなど馬鹿らしい。恥ではないか、私としたことが。ましてや彼は忙しいのだぞ。
そう思ってテレビのホワイトデー特集を食い入るように観ていた矢先、夫から着信が入った。
「も、もしもし!どうしたの?」
「美香、さっき社長が急変して亡くなられた。俺ちょっと動揺してて……ごめん、何時に帰られるか全く分からない。何かあったらまた連絡する」
そう言って夫は急いた様子で電話を切った。
情けない。私は何を浮き足立っていたのか。
たかが、たかがこんなことのために。
携帯電話を置き、私はソファに腰掛け、ぼうっとテレビを見つめた。彼女を喜ばせるサプライズプレゼントのランキングが流れていた。
結局、夫は翌日の昼頃に帰宅した。約一日会っていないだけなのに、ひどくやつれたように見えた。
「……大変だったね」
私は夫にお茶を入れた。うん、と夫は小さく答えた。
夫は社長をとても尊敬していた。素晴らしい御方だ、と私に何度も話しているほどであった。そんな方を亡くしたのだから、夫の心の傷は計り知れないほど深いのだろう。今はそっとしてあげるのが妻としての役目、か。私としてもその方がずっと苦しくない。
「あの、さ」
夫が口を開いた。まだ戸惑っている様子で目が泳いでいる。
「美香に伝えなきゃいけないことがあって」
「……なに?」
深呼吸して意を決したように口を開こうとするも、結局意を決していない様子で夫は再び口を紡ぐ。
私はただただ夫の言葉を待った。夫が何を言うのか分からないけど、私は彼の全てを受け止める覚悟は結婚した時から既に準備出来ていた。
「その……社長の息子をウチで引き取ることになったんだ」
「ごめん、もう一回言って」
あまりの予想外な発言に私は即座に訊き返した。
「美香に伝えなきゃいけないことがあって」
いや、そこじゃなくて。しかもかなり戻ってるし。
「え、つまりどういうこと?言ってる意味全然理解できないんだけど」
夫は神妙な表情で語りだした。
「社長は自分の命が永くないことを覚悟されていてね。かなり長文の遺言書を書き残していたんだ。それにはもちろん社長の御子息のことも書かれていて、特殊総務課の者に次期社長として立派な社会人になるまで育ててほしいと記してあったんだ。まさか俺に白羽の矢が立つとは……」
お茶を一口含み、夫は俯いた。
「……何で私たちが引き取ることになったの?」
「じゃんけんに負けて」
「じゃんけん!?」
「くそ……河北さんが『俺グー出すからな』とか言って心理戦を持ち込むから……これだからあの世代の人たちは」
突っ込みどころがあり過ぎて頭の整理がつかない。
「ねえ、この話本当は冗談なんじゃない?現実味がなさすぎる」
「まさか。俺は真面目な話をしているんだよ」
「だいたい、じゃんけんで人様の子どもを引き取るなんて有り得ない。なんだと思っているの。ふざけるのもいい加減にして」
信じられない話を真剣に話されて徐々に怒りが込み上げてくる。こんな時に私は昨日のホワイトデーの罪悪感を思い出した。馬鹿みたいと思っていた自分が馬鹿みたい。
「美香が怒るのも当然だと思う。でも本当のことなんだ。社長は仕事ぶりは素晴らしかった一方で、ちょっと風変わりな方でもあったんだ。プライベートにはかなり楽観的というか。御子息もそれをよくご存知で今回のことも受け入れておられる。だから美香……」
夫は私の目をじっと見つめた。信じてくれ、嘘なんかついていない、と訴えるように。
そんな話、認めたくなかった。でも本当のことだと心の中では分かり切っていた。なにせウチの夫はバカ正直だから。
「でも、そんな大事なこと前から話に上がってたんじゃないの。誰が引き受けるとか既に決まっていたんじゃない?」
「いや、社長は全て自分が息を引き取ってから遺言に従って行動してほしいと言われていた。御子息のことも然りだ。だから昨日の夕方にじゃんけんして俺が負けた。ちょうど美香に電話する少し前だ」
余計なことを言ったものだから、私は余計なことに気が付いた。昨日電話で言っていた、動揺してて……というのは、じゃんけんに負けて動揺していたのか。やはりこいつはバカ天然バカだ。
「もういいよ。信じられない話だけど嘘じゃないみたいだし。今日はもう疲れたでしょ」
「そうだな……明日、御子息がウチに挨拶に来られるそうだ。一緒に暮らすのはそれから話すことになっている」
ひとまず明日になってから考えよう。自分に言い聞かせるように私は夫に呟いた。
3月16日午後2時ちょうど。
我が家のインターホンが鳴った。
夫が社長の息子を連れて2時に訪ねてくると聞かされていたのだが、夫が一緒なのに何故インターホンを鳴らすのだろう、と疑問に思った。
玄関のモニターを見ると、明らかに動揺している夫ともう一人スーツを着た若い青年が立っていた。
「はい?」
「初めまして。わたくしホーム・トイソル・コーポレーション、社長、桐谷の息子、桐谷透と申します。今度からこちらでお世話になるため本日はご挨拶に伺いました」
――立派な社会人になるまで育ててほしい――
「想像以上に大人じゃない!?」