或る魔王の決意
轟、と雷鳴が暗澹たる空を割る。
束の間の光に照らされる魔族領の中心都市、その中央区画に魔王の座す城はあった。
歴代魔王が手を加え、荘厳にして優麗、堅固にして盤石たる様をみせる名城である。
城の最上階にはその外観に恥じない絢爛たる謁見の間がある。
その日、余人は到底立ち入れぬその場所に一人の魔族が息せき切って駆けこんだ。
禿げあがった頭に浮かぶのは脂汗、表情にはこれ以上ない焦燥。
宰相の地位にあるその男が運んでいるのは紛うことなき凶報であった――魔族にとっての、であるが。
「魔王様、つ、ついに今代の勇者が現れました!!」
「……そうか」
もつれるように跪いた宰相に、ひどく重苦しい響きを孕んだ言葉が投げかけられた。
謁見の間の最奥、玉座に座すは魔王その人である。
魔王はとびきり老いた魔族であった。
緩やかに伸びた髪髭は総じて白く、顔にはいくつもの皺が浮き、魔王の証たる杖を持つ節くれ立った指には此処に至るまでに負った労苦が偲ばれる。
だが、老いて尚、その身に宿す暴威は魔王の名にふさわしい質と量を持つ。
この10年、魔族領内においていくつもの反対勢力、非服従種族を滅ぼした事実がそれを証明している。
「ご苦労だった、宰相。後を任せる。我らの民を頼む」
「ははっ!」
今や政務の大半を取り仕切る宰相はそそくさと謁見の間を辞した。
己が懐刀の姿を見送った後、数瞬、魔王は天を仰いだ。
無理もない。彼に至るまでの歴代の魔王は全て、ひとりとして例外なく勇者に討たれているのだ。
「誰ぞ、ゲンナイを呼べ。それと人払いを」
魔王の一声に側仕え達はしずしずと退出していく。
暫くして、がらんとした謁見の間に一人の男が入室してきた。
魔族ではない。見た目は紛うことなき人間である。
ひょろりとした痩身に無精髭の浮かんだ笑みと黒縁の眼鏡を載せた三十代後半と思しき風体は、端的に言ってうさんくさくある。
「ゲンナイ、御前に参りました、魔王様」
「勇者が来るそうだ。精霊の加護を受け、神の定めを負い、運命の剣を手に、我を殺しに来る」
「そうですか」
「お主の予測通りだ。三日とずれておらん」
「僕が神でもこのタイミングで勇者を嗾けます。それだけの話です」
癖なのだろう。ゲンナイは右手で眼鏡のリムをくいと押し上げた。
この世界にはまだ存在しない材質でできたレンズによる視力矯正器具。
それは、男がこの世界の存在ではないことを証立てていた。
「神と己を同列に語るか。相変わらず不遜な男だ」
「分野は違えど僕も創作者の端くれでしたので」
「天上人の思考は我には理解できんな」
この城の主たる魔王とまるで対等であるかのごとくゲンナイは言葉を交わす。
ゲンナイに地位はない。しいて言えば道化であろうか。
だが、地位を持たぬが故に彼はこの城で唯一魔王に頭を垂れずに相対することを許されていた。
そして、彼の不可思議で軽妙な態度は、この10年、いくつもの政策的大転換を強行してきた魔王にとって数少ない慰めであった。
「……魔族は、魔王は、勇者に勝てん」
同時に、ゲンナイはただ一人、魔王が弱音を吐くことのできる存在でもあった。
「かつて、初代魔王は勇者に真正面から城に踏み込まれて惨殺された」
「レベル差の暴力ですね」
「そうだ。精霊の加護などと嘯いているが、魔族を殺して自らを強化するなぞ蠱毒の法以外にはあり得ん。我らが封印していた筈の邪法が写し取られた形跡もある」
歴代の魔王とていたずらに技術を封印したりはしない。
邪法は危険であり、また適用者に多大な代償を要求するが故に封印されたのだ。
「経験を積んだ、という見方もあると思いますが?」
「その側面も勿論あるだろう。だが、代々の勇者の急激な成長速度はそれだけでは説明のつかないものだ。結果的に、勇者という個を魔族という数で圧殺するという初代の目論見は失敗だったと言う他ない」
「勇者から見れば経験値のカモだったでしょうね」
「……お主に言われなければ我も初代と同じ轍を踏んでいただろう」
苦々しげに呟き、魔王は窓の外を見遣った。
見下ろす景色の先、彼の民である多くの魔族達が列をなして粛々と進んでいる。
混乱はみられず、足取りは順調のようだ。この日の為に公道を整備した甲斐があったといえる。
彼らの行く先は人類側の領地とは正反対にある魔族領の奥地、魔王が秘密裏に建設した避難用の都市だ。
勇者とは誰も戦わせない。魔王第一の決意である。
魔族の中には言葉を解さぬ者、あるいは知性自体を有しない者もいる。そういった種族は予め隔離し、それすら及ばぬ存在は軍を率いて排除した。
魔王としても己が民を駆逐することは苦渋の決断であった。
だが、勇者に経験を積ませれば初代魔王と同じ憂き目をみる。それだけは避けねばならなかったのだ。
もっとも、対勇者戦略に於いて問題はこれだけではない。
「二代目魔王は生家を発ったばかりの勇者を暗殺した。……たしかに殺したのだ」
杖を握る魔王の節くれ立った手が僅かに震える。
邪法はまだいい。魔王としても理解できる範疇にある。
だが――
「だが、次の瞬間、勇者だった男はただの人間に戻り、殺された男の幼馴染が勇者になっていた。神が因果を歪めたのだ」
「設定の途中変更ですね。ままあることです」
凡百の人魔を圧倒する絶大な力を持つ魔王とて、既に起こった事象の改竄は不可能である。
勇者は同時にひとりしか存在できないとはいえ、当時の魔王からしてみれば横紙破りもいい所であっただろう。
「他にも村ごと滅ぼした者、国を滅ぼした者等々、様々な魔王がいたが勇者の再発生を防ぐことに成功したのはおらなんだ」
「魔王を殺せるのは勇者のみという大原則がある以上、当然の帰結でしょう」
「勇者を籠絡しようとした魔王もいた。人質を取った者もいた。そして、皆滅ぼされた」
「クリア条件が魔王を倒すことですからね。当然の帰結です」
「……財宝でも、平和でもなく、勝利こそが目的。度し難い存在よな」
魔王は玉座に腰かけたまま深々と溜め息を吐いた。
およそ歴代の勇者は全て魔王の打倒こそが目的であった。そこに妥協の余地はなかった。
勇者は万難を排し、一振りの剣として魔王に突き進むようにできているのだ。
「浮かない顔ですね。戦略はうまくいっているようですが」
「うむ、一度も魔族を倒していない今代の勇者は赤子に等しい。この老いぼれでも縊り殺すことができよう。だが、それでは次の勇者を生むだけだ」
「まあ、仮に人類全部を滅ぼしても今度は別の種族から勇者が生まれるでしょうね」
「然り。故に、我らは勇者と相見えることを回避する」
勇者は徹底的に足止めする。魔王第二の決意である。
既に人類側の各国には根回し済みである。魔王の懐刀たる宰相は十全に役目を果たした。
勇者は行く先々で面倒事の解決を頼まれ、多くの時間を浪費するだろう。
人類の代表を名乗り、物資その他を援助されている勇者にそれを拒む権利はない。
「10年、この時の為にそれだけの年月を費やしてきた」
10年前、魔王は人類への攻撃を全面的に禁止した。反発も物理的にねじ伏せ、魔族領全域にその法を敷いた。
結果、世代交代を経た人類各国は痛みを忘れ、軍を縮小し、自国の発展に精を出すようになった。
魔王達の弛まぬ政治的軍事的努力によって生まれたこの平和は勇者にとっては逆風となるだろう。
そうして生まれた貴重な時間こそ魔王が二番目に欲したものである。
――この人魔間の均衡が保たれれば勇者は生まれぬのではないか。
そんな夢は、一番目に欲したものは終ぞ手に入らなかった。
「魔王様!!」
その時、城中に響く大声と共に謁見の間の扉が弾け飛ばんばかりの勢いで開かれた。
魔王の真白な眉がぴくりと跳ね上がる。
荒々しくも規則的な足音で入室したのは硬質な外骨格を纏う武人然とした魔族。
謁見の間に帯剣したまま入ることを許された唯一の存在、魔王の右腕たる将軍である。
将軍は魔王の座す玉座からきっかり10歩の位置まで進み出るとさっと片膝をついた。
「将軍、お主には避難民の先導と守護を任せておいた筈だが?」
「万事滞りなく。ですが、我が武は魔王様の盾、我が剣は魔王様の剣にございます!!」
「ならば――」
「故に!!」
将軍は生まれて初めて魔王の言葉を遮って告げた。
真っ直ぐに魔王を見上げる瞳には爛々とした輝きに満ち満ちている。
人間との戦いを禁じられた10年の間、戦う為の存在である軍を維持し続けた熱意の瞳である。
「故に、魔王様の御手を煩わせるわけにはいきません。せめてこの剣にて勇者に一矢報いることをお許しください!!」
「ならん」
「魔王様!!」
「くどい。そもそも我らの敵は勇者ではない」
「勇者が敵では、ない?」
「……」
呆然と訊き返す将軍をみて魔王は心中で決意する。
ここから先はゲンナイ以外には初めて告げることである。
どこまで敵の手が及んでいるか分からずこの瞬間まで極力秘匿していたのだ。
魔王は己にも言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「我らの敵は――神、神そのものだ」
神に挑む。それこそが魔王第三の決意である。
「か、神に……」
「勇者から繋がる因果を利用し、我らは神の御前に歩を進める。これまでの全てはその為のものだ」
「そ、そういうことでしたら私も共に!!」
「ならん」
己が見出し、手ずからに鍛えたこの男ならばそう言うだろうと魔王は確信していた。
その確信を抱けるだけの存在をいたずらに使い潰すわけにはいかないのだ。
「お主には次の魔王が生まれるまで軍を維持し、民を守る任がある。宰相と協力し役目を果たせ、我が至高の剣よ」
「魔王様……どうかご武運を!!」
それ以上の言葉は無駄と悟ったのだろう。
畏敬に震え、涙に堪える将軍はそれきり振り返らずに退出した。
「次元を超えた神への直接攻撃。胸が踊りますね」
「そう言えるのはお主が天上人だからであろう」
将軍の残した熱気の残る謁見の間で、生まれも種族も違う二人は小さく笑い合う。
異邦人たるゲンナイならばその反応もありえよう。元より、彼はこの世界の住人ではないのだ。価値観もまた相応に異なる。
ならば、この世界の住人である魔王の頬に浮かんだ笑みは何ゆえのものか。
我も随分と毒されたものだ、と魔王は心中でひとりごちた。
異世界より召喚したこの男に蒙を啓かれて以来、魔王の人生は驚きの連続であった。
なにより、生死の危険が遠い世界があること、それを作る術があることを知った。
だが、その為には邪魔なのだ。勇者と、そして、魔王と言う存在は。
「……この世界は滅びるかもしれませんね」
10年の付き合いで魔王の思考が危険な方向に流れたのを敏感に察知したゲンナイは笑みを消して告げた。
ガソリンにニトロを注ぐような所業である。
しかし、軽い口調と物騒な内容とは裏腹に、男の声音に籠っているのは確信に近い響きであった。
無論、神に逆らえばどうなるか、それが想像できぬ魔王ではない。
「であろうな。だが、ほんの刹那の間であろうと我らは神の頸木を断ち切ることが出来る。この世界に真の自由が訪れる」
「誰も望んでいないことですよね」
「我が望む。それで十分であろう」
傲岸にして純粋、絶対なる一、それこそが魔王の資質である。
勇者と同じく魔王もまた常にひとり。今代の魔王たる彼が存在する限り次の魔王は生まれ得ない。
「クク、いかな勇者とて世界の外、神の御座までは追ってこれまい」
そして、滅びるまでの刹那、魔王という片輪の欠けたこの世界には争いのない可能性が生まれる。
たとえ神に手も足も出ずとも、たとえそれが事象を改竄されるまでの僅かな間であろうとも、魔王の目的は果たされるのだ。
「そういえば、お主は何故、我に与したのだ?」
ふと、魔王は傍らに立つ道化に問うた。
男を召喚してからの10年、今の今まで神への襲撃計画にかかりきりで訊く暇のなかった問いだ。
今更訊かれるとは思っていなかったのか、ゲンナイは僅かに目を見開いたが、次の瞬間には表情を常の微笑に戻した。
「僕を召喚したのは貴方でしょうに」
「正直なところ、天上世界の情報を引き出す以上のことは期待していなかった。真摯な協力が得られたことは予想外であった」
「魔王様にお聞かせできるような大層な理由はありませんよ」
ゲンナイは眼鏡を外し、裸の黒瞳で魔王を見据えた。
「ただ……そう、ただ、僕は僕の人生をクリアしてみたい、とそれだけの話です」
「最後まで煙に巻くような物言いよな。だが、今はその言葉が頼もしい」
いそいそと眼鏡をかけ直す男に、魔王は髭に覆われた皺くちゃの笑みを返した。
「そうだな。我も魔王としてではなく、唯の我として人生を全うしたい。その為にはこの身に嵌められた枷は不要だ」
魔王となり、得たものもある。
多くの民、忠勇たる臣下たち。
多くの出会いがあり、別れがあった。何ひとつとして忘れたことはない。
だからこそ、彼は確信したのだ。
勇者と魔王は、そして神は、この世界にとって不要な存在であると。
ここから先は老いた魔族の妄執である。神への私怨であり、私闘である。
故に伴は異邦の無力な道化のみ。老魔は実質、己が身ひとつで神に挑むことになる。
魔王たるならば、勇者を退け、魔族の安寧の為に尽力すべきであろう。
しかし、今や彼は魔王ではない。神へと放たれる一本の矢である。
魔王だった老魔がゆっくりと玉座から立ち上がる。
杖はもう必要ない。彼は生まれ持った両足で確と世界を踏みしめて進む。
ゲンナイは何も言わず笑みのまま謁見の間の扉を開いた。
全ては望むべき未来の為に。
「――では、神に挑むとしよう」