第十話:大いなる力
【大陸暦八六年五月四日:休日、魔法技術棟】
※・※・※
前回に引き続き、一室を借りきり、エルヴィアは苦笑を浮かべる。
部屋を占領していることは、別に気にしない。
ただ、アレン以外も苦笑して、魔法書を読んでいるフローラを見ている。
皆が魔法の練習をしている中で、フローラだけが読書をしている。
フローラが読書が好きなわけではない。というか、嫌いと言ってもいいくらいだ。
なのに、読書をしているのは簡単だ。
法具がないから。
貴族以上の出身でもない限り、個人で法具を持っていることはない。
エルヴィアとラウルは特殊だ。
商人の娘であるフローラは、当然持っていない。それが普通で、一般的なことだ。
授業の時は、学院が制御用の法具を貸し出す。だが、休日の自主練には貸出許可が下りない。
これが三年生ならば、許可が下りるだろう。騎士団への入団試験が控えているからだ。
一年生だから許可が下りない。
結果、フローラは実技ではなく理論を詰め込むしかない。
「まぁ、理論も必要だから…」
「役に立たないんでしょ?」
学院所蔵の本はほぼ捏造だ。
即座に切り返しに、エルヴィアは言葉に詰まる。その事実を教えたのはエルヴィアだからなおのこと、何も言えない。
いつもの明るさが感じられず、どんよりとした暗さが漂っている。
それに、苦笑して考える。
(さすがに、やばいかな?)
ふいに、一つある方法が思い浮かんだが、それをやって良いのかはなはだ疑問だし、したことでかなりの影響が予測できる。主に悪い方で。
影響さえ抑えられれば、全ては片付く。
だが、それを抑えられる自信がない。というか、抑えようとしたことがない。
使ったのは大戦期で、それ以降は使っていない。使い時がないほどの大技だった
(あぁ、でも、今の魔導師ならいくらでもごまかせそう)
若干黒いことを考えて、よし、と決める。
エルヴィアは基本的に楽観主義だ。
「ちょっと、場を空けて」
それぞれの練習をやめて、全員が端による。
何をするのかは分からないが、魔法においてエルヴィアが指導者だ。
文句は出ない。
部屋の中央で、エルヴィアは瞳を閉じて深く息を吸う。
ゆっくり、と空気が動く。
密度が増して、魔力が浸透し、四肢をからめとるような重さが少しずつ増していく。
恐怖はない。
だが、何か、とてつもないことが起ころうとしている。
そんな気がして、指一本も動かせず、瞬きも出来ない。
言い知れない緊張感が室内を満たした頃、エルヴィアが言葉を紡ぐ。
『 原初にして終焉の君 』
『 世界が貴方の存在を望み続け、願い続け、絶望を重ねた 』
『 数多の命が焦がれ、切望し、祈り、巡り続けた 』
『 その声を望み、その瞳に焦がれ、その姿を祈った 』
『 輝ける満天の星夜に祈り、貴方への願いを詠おう 』
『 降り注ぐ月光に祈り、貴方への望みを謡おう 』
『 眩き青空の太陽に祈り、貴方への誓いを謳おう 』
『 果てなき輝きを導とし、私は今貴方に至る為に 』
『 幾千の光を携え、幾万の闇を誘い、幾億の夢果てぬ理へ 』
『 世界にして貴方たる全ての理へ 』
『 誰も触れ得ぬ不可触、不可侵の領域へ 』
『 届かずとも、祈り願い続けるのならば、必ず見つめることができると信じて 』
『 至高にして永遠なる光に、今こそ紡ぐ 』
『 私の声に応え、顕現せよ 』
『 貴方に繋がる唯一にして絶対の門 』
『 私の名を鍵と成し、開門せよ 』
『 貴方へと至るその道が、無限の光に照らされし時 』
『 誓約の証として貴方の御名をこの身に刻む 』
『 今こそ貴方の御名を紡ぎ、この地へと招こう 』
『 私の名は ℰ✌ 』
『 顕現せよ ℨℰℐℭℰℛ 』
『 誓いを果たし、力を示せ 』
聞いたことのない詠唱。
古代語でも現代語でもない言葉で紡がれた名前。
何の魔法なのか、何を望んだのか、何一つ理解はできなかった。
一見、何の変化も起こらなかった。
だが、空気に満ちる魔力の密度が、肌で感じられるほどに変化していた。
「法具がなくても魔法が使えるわ。二時間だけだけどね」
静かに詠唱が、魔法が終わった。
膨大な魔力ととんでもない魔法の行使であるにもかかわらず、エルヴィアは平然と笑う。
誰も、その魔法を知らない。
だが、誰もが分かった。
一つも理解できなかったけれど、本能で分かった。
「神聖魔法」
誰が呟いたのか。
本人も無意識だろう。
目の前で見せつけられた力。
追いつくと決めたその頂の高さを、改めて実感する。
絶望はしなかった。
苦しくはなかった。
それらを感じる余地すらないほどに、絶対的な格差がそこにあったから。
絶望するのも、苦しくなるのも、その頂が見えてこそ。
見えもしない頂きとの差に、絶望も苦痛も感じはしない。
誰かが、小さな笑いをこぼした。
圧倒的な力の差に、キョトンとするエルヴィアの姿に、笑うしかなかった。
自分達がいかに身の程知らずだったかを知って。
自分達が目指す頂きの遠さを実感して。
そして、つま先だけでもひっかけて見せると誓って。
新たに抱いた覚悟と決意を胸に、笑みを浮かべて睨みつける。
超えるべき絶対者を。
【大陸暦八六年五月四日・夜※聖暦八六(獣神暦五二四七)年マイエの月四日・夜】
※・※・※
深い森の中、月光に照らされる砦の屋上に立つ青年は、東をじっと見つめている。
「いかがされました?王よ」
「いや」
青年の背後から、少年が声をかける。
振り返らずに返されたそっけない声に、少年の眉が寄る。
不満げなその様子に気付かないまま、青年は瞳を細めて見つめ続ける。
二人の肌は浅黒く、瞳は獣のように縦長の瞳孔をしている。
浅黒い肌と縦長の瞳孔は、獣人の証。
人ならば二十代半ばの青年と十代前半の少年。
だが、平均寿命五百歳の獣人では、見た目通りではない。
青年は三桁の年数を生きている。
「あちらには、破約の女の国があるとか」
「誰に聞いた」
吐き捨てるように呟いた少年に、青年は静かな声を返す。
だが、そこに込められた感情は、少年の心臓を凍りつかせた。
殺意と錯覚しそうなほどに、凄まじい怒り。
周囲の気温を下げるほどの、激しい怒り。
「誰に聞いた、カツェンのナファナイール」
振り返った青年の月光を弾いて煌く瞳に見下ろされ、ナファナイールは喉を引きつらせて震えた。
「あ、兄から、聞きました。王との約束を、破り、他の男に流れた、愚かな、女だと」
「ナーファンか」
ちっと舌打ちをこぼし、青年は背を向ける。
「それは忘れろ」
「お、王?」
「彼女は、約束を破っていない」
「で、ですが、あの女は…」
「彼女は、成すべきことを成そうとして、人間に利用されただけだ」
「王は、どうしてそこまで信じていらっしゃるんですか?」
「信じることに、理由が必要か」
言い切った青年に、ナファナイールは沈黙する。
言いたいことはあるが、反論するすべを知らなかった。
そして、戦争を知らない若年であるナファナイールには、戦争期を生き抜いてじかに彼女を知っている者に、意見する資格がなかった。
悔しそうに唇を噛んで、ナファナイールは屋上から室内に戻る。
一人になった青年は、月を見上げて切なげに瞳を細める。
さっきまでの怒りはない。
ひどく切ない光が宿っている。
「理由を挙げるとするなら、君だからだ。君だから、信じていられる」
青年は思い出す。
人にとっては遠い過去、自身にとってはわずかな時の向こう側。
耳の奥に、こびりついて離れない悲しい呟き。
『ごめんなさい。ごめんなさい。貴方の下に、戻れない…』
それだけを呟いて燃えて灰になった鳥。声を伝えるための魔法で、謝罪を繰り返していたのは、確かに、青年が焦がれる彼女の声。
その場にいた誰もが、彼女の声だと分かった。
声に含まれる、嘆き。それを悟って、人間達が彼女を傷つけたのだと分かった。
誰もが怒り、彼女を人間達から救おうと思った。行動を起こそうともした。
それをしなかったのは、ひとえに彼女のためだった。
不可侵の結界を張った直後で、問題は起こせなかった。
彼女の努力を、無駄にしたくはなかった。
「君は、もう生きてはいないんだろう」
人間は生きても百年。
平均で五百年を生きる獣人より、はるかに短い。
当時、青年と同年代(見た目は)だった彼女は、すでに死人だ。
「それでも、待ち続ける俺は、愚かなんだろうな」
死んでいると分かっている。
けれど、諦めきれずに待ち続けている。
滑稽だと誰もが思うだろう。
だが、諦めきれない理由が、一つ出来てしまった。
「昼間、君の力を感じたんだ」
彼女だけが行使できた、絶対の魔法。
獣人が奉じる神を、使役する魔法。
彼女―――イヴにしか、使えない魔法。
「君は、いるのか? この世界に…」
抑え込まれた気配。それでも、人より強い五感を持つ獣人、その中の王である青年には分かった。
いるのなら、会いたい。
出来るなら、イヴ本人の声で言葉で聞きたいことがある。
「まだ、俺は君を愛している。君が、俺を愛してくれているのなら、もう一度…」
呼んで欲しい。
王となり、家族である妹以外に、呼ばれることのなくなった自身の名前を。
誰よりも愛した、明るく優しい、あの声で。
イエレミーヤ、と…。