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契約主義者は恋をする

作者: ミツリ
掲載日:2026/04/23

 恋人にフラれた。


 ショックで防犯意識とかどうでもよくなって、深夜の公園でヤケ酒をあおる。交番が近くにあることは知っているので、最悪逃げ込むかデッケェ声を出そうと楽観的なことを酒に溶けた脳みそで考えていた。

 フラれた理由は、「お前は俺を信じていないから」とのことだった。

 似たようなことを言われてフラれるのは何度目かと考えて、五回目くらいかしらんと指折り数える。なにがウケるって、それが過去の恋人の人数と一致することだった。

 これだけ数が重なれば、さしもの私も己を顧みようと思うもの。はてさて、私の行動の何に問題があったのか。

『みちみはもっと俺に愛されてるって自信を持っていいよ』

『どうして何も言わずに飲みに出かけた僕を責めないの』

『いつか結婚しようって軽く言っただけじゃん、そんな困った顔すんなよ』

『祝瀬は、いつでも俺を手離せるって、それで平気だって顔をしてるね』

『なんでお前は俺の気持ちを信じないんだよ、なんのために俺の隣にいるんだよ!』

 信じるとはなんだろう、と考える。信じていた。信じている。あなたたちが私を愛してくれていたこと。大事にしてくれていたこと。慈しんでくれていたこと。尊重してくれていたこと。信じていて、感謝していて、ただひたすらに嬉しかった。

 だから。

 そんな優しいあなたたちは。いつか必ず私を置いて、もっとその美しい器と魂に相応しいところへ飛び立っていくのだろうと。そう、ごく自然ことを、ごく当たり前に考えていただけなのだけど。どうやらそれは、彼らにとって侮辱でしかなかったらしい。

 別に自己肯定感が低いとか、そういうわけでは、あんまりないと思う。それなりの自尊心というものが私にはあった。誰かに大切に扱われるに値する人間だと知っていた。ただ、なんというか。腰かけたベンチに置いていた、缶チューハイをかしゅりと空ける。三本目。まだ数えられるから大丈夫。ちなみにストックは何本かコンビニの袋に入って出番を待っていた。私は、人の本心とかいうものを推測する機能に欠けていた。友達には契約主義、と揶揄された。

 私は基本、他人にあまり期待をしない生き物だった。友達には求めるラインがむしろ高すぎるのだと呆れられた。人は人を、これくらい尊重するだろう、とか。そんな酷いことはまさか言わないだろう、とか。そういう期待を裏切られることに慣れすぎて、私は他人に期待をしなくなった。人間ってそんなものだよね、と。私が醜いと思う振る舞いや、どうしてそんなことが言えるのだろうという言葉を、それが人間のあるべき姿だと受け流すようになった。

 ただ。家族ならば。友達ならば。恋人ならば。そういう「契約」をしたのなら、それなりのものを求めてもいいのではないかと、そんなエゴも抱えていた。いつからなのかは覚えていない。いつごろからか、私は他人は他人でも、契約を結んだと判断した他人にはそのような振る舞いを求めるようになった。

 尊重しただけ尊重されたい。言ってしまえば、それだけの我が儘。対等でいたい。優しくしたい。優しくしてほしい。ただそれだけを求めている。だから。

 それさえしてくれるなら、その心の内には興味がなかった。

 例えば、そう。心の底では私を嘲って、蔑んで、人間とすら思っていない人がいたとして。その人がそれを上手に隠して私に悟らせず、表面上はにこやかにこちらを尊重して、丁寧に騙してくれるなら、私はそれでいいと思っていた。私がその人に求めているロールを上手にこなしてくれるなら、それ以上に何を求める必要があるだろう。

 そも。愛されている自信ってなにかしら。

 あなたが私を尊重してくれるのは恋人だから。そういう契約だから。私はそれがとても嬉しいし、満足している。契約に自信を持つって、どういうことかしら。履行されていることに満足して、遵守してくれている相手の誠実さに喜んで感謝するのとは違うのかしら。

 好きなように過ごしてほしいのは変かしら。

 プライベートは恋人といえど詮索はあまりしない方がよいと私は考えていて、それがこの契約に違反しないものであれば、好きに過ごしてほしいし、好きな人と時間を分かち合ってほしい。浮気をされても、それが私にバレないようにしてくれるならそれでよかった。

 いつかの話をされても、それは契約にないから困ってしまう。

 だって契約には死が二人を別つまでなんて書かれていない。あなたのように優しい人が私と人生において今より重たい契約を結んでくれるなんて分からない。なんて答えたらいいの。結婚しようって、契約しようってちゃんと言われないと分からないの。

 あなたがずっと隣にいるなんてどうして確信できるの。

 恋人という契約は、いつか終わるものでしょう。私はそう思っている。それに、私と恋人になってくれて、契約を履行して、つまりは、私の「人はこのように他人を尊重するべきだ」という我が儘に付き合ってくれるような得難い人が、ずっと一緒だなんて思えない。いつか必ず、もっとあなたに相応しい、素敵なところへ旅立つのだと確信している。だから、あなたがいなくなるのは当然で。当然のことに、どうして傷付くのだろう。美しい人と過ごした時間を大事に抱えて、生きていけばいい。美しい人がいたのだという思い出は、私が世界を見限らないで済む糧になる。

『契約契約って言うけどさぁ、別にあたしはみちみと「お友達になりましょ~」って友達になったわけじゃないじゃん。それなのに契約遵守を求められても困るわ』

『私たち友達じゃないの?』

『友達だけどぉ! そういう話じゃなくてさぁ!』

 いつかの会話がいよいよ酒に浸かった脳で再生される。だって、契約って、基本的には意思表示が必要だけど。表示行為でも効力を発揮することがあるから。

 言葉にされなくとも家族のような態度をされたら私は相手を家族だと思うし、そのような契約が交わされたと判断する。ただそれだけ。そして、私の考える家族から逸脱した態度になったら、契約が破棄されるだけ。

 恋人だってそう。日本では告白が交際開始の合図らしいけれど、海外ではそういうの、ないらしいし。私は相手が私を恋人扱いしてきたと判断したら、相手を恋人と思うだけ。

 誰にだってそうするわけじゃない。だって、大前提として、私が相手をとても好きでなければならない。人として私を尊重してくれる人だと、確信していなければならない。相手の魂とその器を、美しいと思っていなければならない。

 そんな、美しい人が。私を、特別だと、そういう振る舞いをしてくれること。なんて恵まれたことかしらと、いつだって思う。

 私を尊重してくれる。大事にしてくれる。愛して、慈しんでくれる。私に届く形で、分かる言葉で、測りとれる行動で。なんて嬉しいことかしら。

 だから、それ以上なんてうまく想像できない。

 こんなにも大切にされて。幸福にたゆたって。こんな目映い人が、ずっと私の傍にいるだなんて、どうして自惚れられるだろう。

 素敵な人は、相応しい場所へ行くべきだ。遠く遠くどこまでも、その素晴らしい存在につり合う美しい空へ飛んでいってほしい。私は止まり木。優しい人が、終の棲家を見つけるまでの仮の宿。ほんの束の間、僥倖なことに、その人の愛すべきところを注いでもらった、幸せもの。

 美しい人は、顔が綺麗だ。造形とか、そういうのではなくて。その人の、尊ばれるべき美徳のすべてが表情にいつも浮かんでいる。顔の全部で、その人の目映さが伝わってくる。

 皺はその人の思考の跡だ。悩んだこと、笑ったこと、怒ったこと、悲しんだこと。人生が滲んでいる。瞳もそう。映してきたもの、選んできたものがその奥で明滅して、いつもキラキラときらめいている。唇も。何度引き結んだか、どれほど笑みを浮かべたか。たくさんの経験に象られている。額のまろさ、頬のやわさ、鼻の愛らしさ。なにもかも。ぜんぶ。きれい。

 あなたの優しさが、慈しみが、尊いところのすべてが、私へ向けてゆるめられる眼差しひとつにさえ充ち満ちて宿っている。人生でいちばん幸福な夕暮れに降り注ぐ、木漏れ日のよう。あたたかくて、やわらかくて、ここちよくて。いつまでも微睡んでいたくなる。

 ねぇ、わかんないよ。

 あなたが私を愛してくれたこと。それはわかるよ。伝わってるよ。途方もなく嬉しかったよ。感謝してる。恵まれていたわ。あなたという人間の持つ多様な美しさに、いつだって立ち竦んでしまったわ。大好きだった。ほんとうに。

 それでも私、わからないの。上手に思い描けない。信じるどころじゃないの。思うこともできないの。あなたみたいに眩しい人が、その、あなたの、器と魂に満ちる、うつくしいところを、私にだけ、ずっと、注いでくれること。そんなことがありえるって思えない。きっと、必ず、あなたのうつくしさを、もっと正しく受け止めて、あなたのことをあなた以上に尊ぶことができる人のところへ飛び立つのだと。輝ける場所へ辿り着いてくれるのだと。そんな風に考えていないと、私は、たった今すら、あなたのうつくしいところを味わうことができなくなる。

 もったいない。だって、みんな、そうだった。私の勝手な契約が求めた以上に。私を尊重して、愛して、許して、抱き締めてくれたの。そんな人たちをどうして。こんな女のところへ留められるだろう。

 ある程度の自尊心はある。それはほんとう。ただ、私の自尊心を打ち負かすほどに。みんながうつくしかっただけ。

 だいすき。ずっと。ありがとうって思ってる。

 誰にも、何にも期待することを諦めた私に。世界の、あなたたちの、うつくしいところを見せてくれて、注いでくれたこと。だから私は世界のうつくしさをこれから先も信じることができる。

 ごめんね。ごめんなさい。ほんとは分かってる。己がいかに不誠実な生き物か。

 尊重しただけ尊重されたいと願っておいて。私は私を優先して、あなたたちが与えてくれたものにきちんと報いなかった。信じてくれたのに信じなかった。分からないって言い訳をした。分からないのは嘘じゃない。分からない。うつくしいものが私の隣にある未来。思い描けない。求められない。烏滸がましくってできやしない。

「あ~~……月がきれいですねぇ~~」

 雲間からやっと覗いた、か細いばかりの月を見上げ、そのままぐっと缶チューハイの残りを一気に流し込む。アルコールが喉を少し焼いて、気持ちよかった。

 それでも。

 これからも私は恋をするのだろう。心根の美しい人の、その美しさを近くで眺めていたいと思うから。ほんの少しだけだから許してほしい。許さないでほしい。どちらだろう。わからない。頭がいよいよ蕩けそうだった。

 尊い人の、目映いところを。貪るように生きている私。浅ましい。醜い。穢い。やっぱり、そう。許されたくはないのかもしれない。分からない。なんにも、なにひとつ、分かりはしない。

 ただあるのは。美しい人が私からまた飛び立っていったのだという、安堵と、寂寞だけ。

 自然で、当たり前のこと。本当にそう思ってる。もったいない。だから、正しい場所へ。

 それでも、どうしても。もう二度とあの木漏れ日が私に降り注がないことが寂しかった。

(だいじょうぶ、だいじょうぶになれる)

 この夜が終われば。私はまた私へ帰る。うつくしいものを目を細めて見送ることのできる私になる。こんな、みっともなくて烏滸がましくて自惚れている私は今だけだから。

 この寂しさを鱈腹味わって、もう一度顔を上げて歩き出すまでが。あの人が私にくれた最後の、うつくしい時間だ。

 もうすぐ、もうすぐだから。あの月が沈んで、あの人のようにうつくしい太陽が昇ったら。私ちゃんと、弁えるから。だから今だけ、めいっぱいに私自身に溺れることを許してよ。


「みちみ」


 低い声に肩が跳ねた。大好きな声。鼻から綺麗に空気が抜けていく。遠くまでよく通る声。歌のように空気に響く。

「捕まえた、ばかおんな」

 怖くて振り返ることのできない私を置いてけぼりにして、彼は後ろから私をベンチごしに抱き締めた。

「泣くほど俺が好きなら、最初から笑うな。俺を信じるのが難しいなら、俺が誰より恋しいってちゃんと言え。それでいいから」

 そう、彼はしぼりだすように囁いて。それから、「こんな夜中にこんなところで前後不覚になるな」と呻いて。

「好きだよ。一生言ってやるからな」

 ただでさえこの状況が怖いのに。

 そんな怖いことを、彼はどこか楽しげにうたった。


 何が起きたか分からない私は、動揺のままに空き缶をぐしゃぐしゃに握り潰した。

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