第五話 赦しの鏡
第二の扉をくぐると、そこにも広間があった。
さっきの慈愛の部屋とよく似ている。
真円の石畳、白硝子のように透き通る壁。
違うのは――中央に、ひとつ“像”が立っていることだった。
純白の衣をまとい、両手を胸の前で組んで祈っている人物像。
顔立ちは整っているのに、男とも女ともつかない。
人間のようでもあり、天使のようでもある。
翼はない。
ただ静かに、目を閉じて祈っていた。
「……天使、なのか?」
誰かが小さくつぶやく。
僕は答えられなかった。
像の上――天井を仰ぐと、そこには巨大なレリーフが刻まれている。
八枚の翼を広げた天使が、円の中央で腕を掲げていた。
さっきの部屋の天井にいたのは、たしか六翼の天使だった。
ここでは八翼。
どういう違いなのか、僕には分からない。
ただ、じっと見ていると、背筋がすっと冷えるような感覚だけが残った。
広間には、第一の試練を生き残った白の民と騎士たちが、まばらな列を作って立っていた。
今は誰も、軽口を叩かない。
さっき、慈愛の雨の中で消えていった人たちのことを、
誰もが頭のどこかで思い出しているのだろう。
「ここが……次の試練の場か」
中隊長が前に進み出て、像をにらむように見つめた。
祈りの像は、やはり何も言わない。
息を呑む気配が、広間に広がった、そのときだった。
ふ、と天井のレリーフが淡く光った。
八枚の翼の縁が、ゆっくりと白く縁取られていく。
そしてそこから、無数の光の筋が、雨のようにまっすぐ垂れ下がった。
「な、なんだ……!?」
誰かが声を上げるより早く、
その光は僕たちの足元近くでふわりと止まり、形を変え始めた。
ひとりの目の前で、光が長方形にのびる。
別の場所でも、同じように。
光の板が次々に固まり、
冷たい感触を宿した――鏡へと変わる。
白金色の枠に縁取られた、等身大の鏡。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
やがて広間いっぱいに、百枚を超える鏡が並んでいた。
それぞれの人間の真正面、一歩先の距離に。
僕の目の前にも、一枚。
白金の枠に囲まれた鏡が、まるで最初からそこにあったみたいに、静かに立っている。
「……鏡……?」
鏡面はぴたりと静まり返っていた。
けれど、石畳や人の姿ははっきり映らない。
水面みたいに、ゆらゆらと揺れている。
「全員、その場から動くな!」
中隊長の声が響く。
だが、その声も、どこか遠くで響いているように聞こえた。
耳の奥で、音が遠ざかっていく。
気づけば、ルカの息遣いも、騎士たちの鎧の擦れる音も、まったく聞こえなかった。
世界から、音が消えた。
「……っ」
背筋がぞわりとする。
鏡の中の“揺れ”が、少しだけ強くなった。
水の表面に石を落としたときみたいに、円が広がる。
そこに、“僕”が映った。
雪で焼けた肌。
外に出るときに被っていた、古いコート。
見慣れた自分の顔。
なのに、どこか違う。
鏡の中の僕は、こちらを見て笑っていた。
次の瞬間――世界が反転した。
◇
雪のにおいがした。
視界がゆらぎ、世界が変わった。
そこは、幼い頃の白の国――
レインとよく遊んでいた白い坂道だった。
「……ここ、は……」
気づくと、僕は子供のころの身長のまま、
あの時と同じ場所に立っていた。
前方に、小さな背中がある。
「レイン……」
病弱で、細くて、だけど優しい少年だった。
いつも僕と遊ぶのを楽しみにしていた。
その日は、彼の家に遊びに行った日の光景だった。
レインは寝床に横たわり、弱々しく笑った。
『ごめん……カイル……今日はちょっと……』
顔色はいつも以上に悪い。
息をするだけで苦しそうで、肩が揺れていた。
それでも。
『あのね……少しだけなら……遊べる、かも……』
病弱な身体で頑張って、そう言ってくれた。
――けれど、幼い僕は機嫌が悪かった。
『……なにそれ。
いっつも“少しだけ”じゃん。もういい』
『え……カイル……?』
『そんな身体なら……もう一緒に遊ばなくてもいい!』
今の僕なら絶対に言わない。
でも、あの日の僕は子供で、
“言葉が凶器になること”をまだ知らなかった。
背を向けて雪道に出ようとした瞬間――
『カイル……待って……!』
レインは必死に、震える声で呼んだ。
起き上がったせいで、息を荒げているのが分かった。
それでも僕は振り返らなかった。
ただ雪を蹴って、走り去った。
◇
「ミリアさん……今日僕、レインに……!」
孤児院に戻ると、僕はミリアさんに泣きついた。
ミリアさんはそっと膝を折り、僕の肩に手を置いた。
『カイル……それは、あなたが悪いわ』
『だ、だって……レインが……!』
『病気で苦しんでいる子に、“そんな身体なら遊ばなくていい”なんて……
言っていい言葉ではないでしょう?』
幼い僕は言葉に詰まった。
だけどミリアさんの言葉はまっすぐで、温かくて、正しかった。
『ひどいと思ったのなら、謝らないといけないわ。
謝るべき相手は……分かるわよね?』
僕は強く頷いた。
◇
夜の雪道を走る。
子供の短い足で、必死に。
『はぁ……はぁ……っ!』
胸の奥が苦しい。
でも、謝りたい。今すぐに。
――明日でいいなんて思った自分が憎かった。
レインの家に着き、扉に手を伸ばす。
叩こうとした瞬間、扉がゆっくり開いた。
「あら……カイルちゃん……」
レインのお母さんが立っていた。
目は真っ赤で、ハンカチを握っている。
胸の奥が冷たくなった。
『レイン……いる?』
震える声で聞くと、
レインの母親は、泣きながら微笑んだ。
「ありがとうね、カイルちゃん……
あの子と仲良くしてくれて……」
胸がひゅっと縮む。
「あの子、今日もね……
カイルちゃんと遊びたくて……
ベッドから起き上がろうとしてたのよ……」
理解するまでに、数秒かかった。
そして――
半開きになったレインの部屋の扉の隙間から、
白い布が見えた。
動かないレインの姿だと、
幼い僕でも分かった。
世界が、音を失った。
『……ぁ……ぁ……』
膝が崩れ、床に手をついた。
冷たい白の床が、手のひらに刺さる。
レインのお母さんが泣きながら抱きしめようとしたが、
幼い僕はその場に縮こまり、白い床を掴んだ。
『ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……!』
誰にも届かない謝罪を、
雪の冷たさの中で何度も何度も繰り返した。
◇
現在の僕は、その光景を黙って見ていた。
赦されるはずのない過ち。
でも、向き合わなければならない記憶。
そのとき、どこかで声がした。
掠れた、優しくて懐かしい声。
『カイル……君はそのままでいいよ。
君が悪かったんじゃない。
僕は……君と遊ぶのが、嬉しかったんだ』
「……レイン……
俺は……お前の分まで、生きていいのかな?」
『うん。生きていいよ。
カイルは……誰かを守れる人になれるから』
胸が熱くなった。
「……ありがとう、レイン。
――俺は俺を、赦す」
世界が白く砕け、光に溶けた。
◇
「……っは……!」
息を吸い込む。
僕は、元の広間に戻っていた。
足元には真円の石畳。
壁には翼のレリーフ。
さっきまでと同じ場所。
けれど、空気はまるで違っていた。
広間には、そこかしこに人が倒れていた。
膝を抱えて震えている者。
床に両手をついて、荒い息を繰り返す者。
「……おい、しっかりしろ!」
騎士が仲間の頬を叩く。
その中に、完全に目の焦点が合っていない者たちがいた。
十人ほど。
ひとりは、意味の分からない言葉を繰り返し叫んでいる。
ひとりは、よだれを垂らしながら、虚空を見つめて笑っている。
ひとりはただ、同じ場所を何度も何度も謝り続けていた。
「……試練に、負けたか」
誰かが、小さく呟くのが聞こえた。
鏡は、もうどこにもなかった。
あれだけ並んでいたはずなのに、跡形もない。
「カイル兄ちゃん!」
振り向くと、ルカが駆け寄ってきた。
額に汗を浮かべ、顔色は悪い。
それでも、しっかりと僕の服を掴んだ。
「大丈夫……? なんか……白くなってたよ、顔」
「お前こそ」
つい苦笑が漏れる。
「何か、見せられたか?」
「……うん。でも、たぶん大丈夫。
あれが“赦し”の試練なんだよね、きっと」
ルカは曖昧に笑った。
何を見たのかは、聞かなかった。
彼も僕と同じように、
誰にも言いたくないものを胸に抱えているのだろう。
ふと、違和感を覚えて顔を上げる。
天井。
中央のレリーフを見た瞬間、息が止まりかけた。
そこに刻まれた“天使”の翼が――
いつの間にか、十二枚に増えていた。
(……八枚、だったよな)
さっき、この部屋に入ったときに見上げたときは、たしかに八翼だった。
今は、十二翼。
誰もそれに気づいていない。
騎士も、白の民も、ルカでさえも。
まるで、この部屋だけが静かに“格を変えて”、
僕たちを見下ろしているみたいだった。
「……どうかした?」
「いや、なんでもない」
首を振った。
今は、考えている場合じゃない。
そのときだった。
広間の正面――祈りの像の向こう側の壁が、音もなく裂けた。
光が差し込む。
「扉……!」
誰かの声に、場の空気が一気に張りつめる。
開いた隙間の向こうに、小さな部屋が見えた。
その中央に、石の台座。
台座の上に――
真っ黒な、一枚の羽根が浮かんでいた。
光を吸い込むような黒。
けれど、輪郭だけは淡い光を帯びている。
「あれが……宝具……?」
騎士のひとりが、息を呑んだ。
天使の宝具なら、もっと眩しい光の剣や聖杯を想像していた。
だが、そこにあるのは、闇を切り取ってきたみたいな羽根ひとつ。
なのに――
僕の胸は、どうしようもなくざわついた。
あの羽根だけが、僕をまっすぐ見ている。
そんな感覚がした。
「近づくな! 陣形を崩すな!」
中隊長が制止を飛ばす。
だが、その声が届くより早く――
広間の光が、一瞬で消えた。
◇
さっきまで柔らかく広がっていた光が、
すべて吸い込まれたかのように、闇が落ちた。
「なっ……!?」
次の瞬間、広間の壁に並んでいた燭台に、
一斉に火が灯る。
ぼっ、と乾いた音が続き、
橙色の炎が輪を描くように広がっていく。
揺れる炎の中――
祈りの像の胸元に、細い“罅”が走った。
ぴしり。
「……え?」
誰かの喉が鳴ったのと同時に、
その罅は一気に像の全身へと広がった。
純白の衣をまとった像の表面が、
まるで内側から押し広げられるように盛り上がる。
次の瞬間――
像が、破裂した。
ぱん、と乾いた音が広間に響き、
純白の破片が四方に飛び散った。
祈りの姿勢を取っていたはずの像は、
内部から押し裂かれたかのように割れ、
石片が雨のように床へと散った。
粉塵が舞い、視界が白く霞む。
その中心に――“何か”が立っていた。
灰色の肌。
人間とほとんど変わらない輪郭。
だがその目は、赤でも黒でも白でもない、
濁った“灰”が渦巻く瞳。
生き物の気配ではない。
かといって、完全な魔物にも見えない。
人と獣と影の境界を曖昧にしたような、
不気味なほど静かな佇まい。
割れた祈りの像の破片が足元に散らばっているせいで、
まるで――
“像の中で生まれた”
“祈りの像は殻だった”
そんな錯覚すら覚えた。
「ひ……人間……か……?」
誰かが震える声で呟く。
だが、それは違う。
その灰色の人影は、
何の合図もなく、ゆっくりと首を傾げた。
ぱちり、と瞳がこちらを向いた瞬間、
広間の温度が一気に下がる。
敵意があった。
言葉よりも、本能が先にそれを悟らせた。
そして――
その灰色の手に、大鎌が“いつの間にか”握られていた。
どこから取り出したのか分からない。
だが、その刃だけは異常に長く、薄く、
光を吸い込むような黒を宿している。
持ち主の灰色の身体に反して、
大鎌だけがこの世の物ではないほど鮮烈だった。
灰の人型は、大鎌を片手で持ち上げ、
石畳をひっかくように軽く振った。
ぎ……ぎ、ぎ……と、耳の奥を削るような音が響く。
まるで“開幕の合図”のように。
灰の瞳がこちらを見据えた。
祈りの像はもう存在しない。
その殻から覗いたのは――
天使でも人間でもない。
あれは――灰獣。
その中でも、
どこか“質”の違う、もっと大きな何か。
「な、なんで天使の宝物殿に、灰獣が……!」
誰かの叫びが上がる。
灰獣は答えない。
ぞわり、と肌の奥が総毛立つ。
そのとき――
背後から、聞いたことのない声が響いた。
『――コード#FFFFFF#FF0000、確保』
冷たく、金属のように感情のない声。
だが――紛れもなく“人間が発した声”だった。
聞こえた方向――
ルカがいたはずの方角へ、僕は反射的に振り返る。
「ルカ!」
そこには、誰もいなかった。
さっきまで僕の袖を掴んでいたはずの手も、
彼の小さな背中も。
どこにも、ない。
「……ルカ?」
呼んでも、答えは返ってこなかった。




