第三話 宝物殿
重い扉をくぐった瞬間、世界が白く弾けた。
視界いっぱいに、眩しい光が広がる。
雪よりも柔らかく、焚き火よりも優しい――そんなあたたかさが、肌にふわりとまとわりついた。
「……あったかい……?」
思わず漏れたルカの声も、光に溶けていく。
数歩、足を進めると、やがて光は少しずつ薄れていった。
目が慣れてきて、僕はようやく“中の世界”を認識する。
そこは、外の雪原とはまるで別物だった。
高い天井は、柔らかな弧を描いている。
白い石で組まれた壁には、無数の翼のレリーフが刻まれていて、
天井からは、どこにも吊られていないはずの光球が、静かに宙に浮かんでいた。
床は、雪ではなく、滑らかな白い石畳。
冷たさはあるのに、なぜか足の裏までは刺さらない。
――教会を、何十倍にも広げて、余計な装飾だけを全部削ったみたいだ。
そんな印象だった。
列の前の方から、「おお……」という感嘆の声が漏れる。
「本当に……別の世界みたいだ……」
「これが……天使様の作った場所……?」
誰かがそうつぶやいたのが聞こえた。
広間の中央に、それはあった。
何もない空間の真ん中に、ぽつんと石の台座が一つ。
その上に、厚みのある石碑が立てかけられるように祀られている。
石碑の周りだけ、光が輪のように落ちていた。
「文字……か?」
近くまで進んだ兵の一人がつぶやく。
石碑の表面には、びっしりと文字が彫り込まれていた。
綺麗に揃っているわけでもなく、ところどころ、文字の大きさや行間が歪んでいる。
祈りの言葉のようにも見えるし、誰かの独白のようにも見えた。
先頭にいた騎士が、石碑の前に進み出て、ゆっくりと読み上げる。
『――この門をくぐる者よ、
己が隣人を己より高く掲げよ。
誰よりも強い光を掲げよ。
癒しを求める者には手を差し伸べ、
悲しみに沈む者には寄り添え。
痛む心を抱きしめ、赦しの光を惜しみなく注げ。
強き者は弱き者を守り、
弱き者は強き者を支えよ。
血を分かたぬ者を愛し、
血を分かつ者をより深く愛せ。
分け隔てなく慈しみを注ぎ、
すべての者を抱きとれ。
大いなる天の御使いは、
迷える子を導くために在る。
ただし、忘れるな。
道を見失い“落ちた”者にも、
最後まで手を伸ばし続けよ。
光から遠のき、届かぬ場所へ“落ちゆく”者を、
決して放すな。
すべての子を抱く者は、
どれほど深い影に“落ちる”者であろうと、
その手を離さぬ心を持て。 』
「……“慈愛”……?」
誰かがぽつりと言った。
よく見ると、石碑の端に、小さく二文字だけ刻まれている。
この長い文章全体の題名のように――『慈愛』と。
ざわ、と白の民たちの中で声が広がる。
「慈愛だってよ……」
「やっぱり、天使様の宝物殿なんだ……」
「じゃあ、そんなにひどいことにはならないんじゃ……」
少しだけ、空気が緩んだ。
外の雪原にいたときよりも、肩の力が抜けた声が多くなる。
その後ろから、甲冑の擦れる音が近づいてきた。
騎士団の一団が、石碑の前まで進み出る。
「“慈愛”……ふむ……」
最初に声をあげたのは、中隊長格らしい騎士だった。
「この文面、“癒し”と“赦し”を強く謳っている……
これは、大天使ガブリエル様の御言葉に似ているな」
「いや、ラファエル様ではないか?
飢えた者、凍えた者への配慮……“癒し”の天使だ」
「ザドキエル様という説もある。
“赦し”と“慈悲”を司る御方だと聞く」
周りの騎士たちが、一斉にざわめいた。
「いずれにせよ、“大天使級”の象徴だろう」
「第一の試練が『慈愛』とは……実に、ありがたいことだ」
彼らの声には、わずかな高揚と安堵が混じっていた。
「大天使様が見守っておられるなら、道理を踏み外さぬ限り、理不尽な殺戮はあるまい」
「うむ。悪魔型のような無秩序な殺戮とは違う。ここは“秩序ある選別”の場だ」
――その“秩序”が、誰にとって都合がいいのかを、
この時点で考えていた者は、おそらくほとんどいなかった。
「第一の試練は……“慈愛”か」
中隊長が、石碑に視線を落としたまま呟く。
「全員、記憶に刻んでおけ。
この宝物殿は、“慈愛”を持たぬ者から順に、ふるい落としてゆく――そういう構造と見て間違いあるまい」
騎士たちは一歩下がり、続いて白の民の列が動き始めた。
石板の奥、開き始めた第二の扉へと、ゆっくりと進んでいく。
◇
奥の通路は、外の広間よりも少しだけ狭かった。
とはいえ、大人が肩を並べても余裕がある幅はある。
両側の壁には、やはり翼のレリーフが並び、
ところどころに、掌ほどの光がぽうっと浮かんでいる。
風はない。
でも、どこからともなく、静かな歌のようなものが聞こえてくる気がした。
先頭を行く徴用兵たちの鎧が、かちゃり、かちゃりと鳴る。
その少し後ろで、僕とルカも、列の流れに合わせて歩いていた。
「……ねえ、カイル兄ちゃん」
不意に、ルカが袖を引いた。
「ん?」
「カイル兄ちゃんの……将来の夢って、なに?」
「……なんだよ、いきなり」
思わず苦笑が漏れる。
「だってさ」
ルカは、前を向いたまま、ぎゅっと唇を噛んだ。
「ここで死んじゃったらさ。
叶うはずだった夢とか、やりたかったこととか……全部、なくなっちゃうじゃん」
その声には、さっきまでの“英雄になりたい”なんて言っていた能天気さはなかった。
ちゃんと、自分が“死ぬかもしれない場所”に向かっている自覚が、少しずつ染みてきているのだろう。
「だから今のうちに聞いとかないと、ずるい」
「ずるいってなんだよ……」
苦笑しつつも、言葉に少し詰まる。
だが、すぐに、さっき石碑で聞いた言葉が頭をよぎる。
――慈愛。大天使。
癒し。赦し。抱きしめる者。
「大丈夫だよ」
僕は、わざと明るい調子で言った。
「大天使様だぞ? しかも“慈愛”がテーマの天使様らしいじゃないか。
そんな存在が、いきなり僕たちを殺したりするもんか」
自分で言っていて、説得力があるのかないのか分からない。
それでも、ルカの表情がほんの少し緩んだのを見て、続けることにした。
「それに……そうだな。夢か」
少しだけ視線を上げる。
白い通路の先、ぼんやりと輝く光を見ながら、言葉を探した。
「孤児院のみんなが、幸せに暮らせるといいな、とは思うよ。
ルカも、ミリアさんも、他の子たちも……ちゃんと食べて、ちゃんと眠れて。
冬に寒さで震えなくて済む暮らしができたらいいな、って」
「……それはさ」
ルカが、ぴっと僕の脇腹を小さくつついた。
「“みんなのことを考える”夢でしょ。
カイル兄ちゃんが優しいのは知ってるけど、それは“自分だけの夢”じゃないよ」
「自分だけの、って……」
「そうだよ!」
ルカは、少し怒ったように言う。
「カイル兄ちゃんが本当に叶えたいこと。
もし、他のみんなのことを一旦置いといても、
“それでもこれがしたい”って思うこと。そういうの、ないの?」
返事に詰まった。
孤児院のことで頭がいっぱいで、それ以外を考えないようにしていた――
というのが、本当のところだったのかもしれない。
しばらく歩きながら、黙って考える。
通路の中に、鎧の音と靴音だけが響いた。
「……そうだな」
やがて、僕はゆっくりと口を開いた。
「色の良さを、この世界に証明したいかもしれない」
「……色の、良さ?」
ルカがきょとんとする。
「うん」
自分でも少し照れくさくなりながら、言葉を続けた。
「この世界ってさ。
ノア様が七色を創って、それぞれの色をもらった国ができて……
みんな、自分たちの色が一番だと思ってるだろ?」
「まあ……そうだね」
「赤と青なんか、昔から喧嘩ばっかりだって聞く。
戦と武勇の赤と、海と知略の青。
どっちも“自分こそが世界を守ってる”って顔をしてる」
僕は指を折りながら続けた。
「北の方じゃ、黄と緑が領地のことで揉めてるって話も聞いた。
大地と創造の黄と、自然と繁栄の緑。
どっちの畑がどこまでかで、いまだに言い争ってる」
「……うん」
「藍と紫は……学者と術者だ。
海と哲学の藍と、神秘と儀式の紫。
“どっちの理論が正しいか”で、何十年も口喧嘩を続けてるってさ」
ルカが、少しだけ苦笑した。
「なんか……大人ってめんどくさいね」
「そうだな」
僕も、肩をすくめる。
「で、その上でさ。
白は“外れ色”だって言われてる」
南西の果て、八芒星から少し外れた場所。
雪と氷しかない土地。
大した資源もなく、強い軍隊もなく、“色の恩恵”も薄いとされている国。
「白の民は、他の色から迫害されることもある。
トーンレスだとか、役立たずだとか……そういう扱いをされる」
自分で言いながら、喉の奥が少し熱くなった。
「でもさ。
僕は、本当は違うと思ってるんだ」
「……?」
「赤には赤の良さがあって、青には青の良さがあって。
黄にも、緑にも、藍にも、紫にも……もちろん白にも、それぞれの良さがある。
力も、役割も、得意なことも、全部ちがう」
通路の先で、光が少し強くなった。
どうやら、最初の“部屋”が近づいているらしい。
「もし、みんなが“他の色の良さ”をちゃんと見て、
お互いを尊重して、力を合わせられたらさ。
きっと今より、ずっといい世界になると思うんだ」
「……色の、良さに気づく世界……」
「うん」
僕は、小さく笑った。
「世界を変えるなんて大きなこと、ほんとは柄じゃないけどな。
それでも、もし僕に何かできるなら――
白の民として、“色なんて関係ない”って証明したい」
「証明……?」
「白だから弱い、とか。白だから迫害されて当然、とか。
そういう考えを、いつか全部ひっくり返したい。
“色が違っても、一緒に生きていけるんだ”ってさ」
ルカはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑った。
「それだよ」
「え?」
「それが、カイル兄ちゃんの“自分の夢”だよ」
ルカは、少し誇らしげに言った。
「孤児院のみんなも、大事。
でも、その夢はさ……
カイル兄ちゃんにしか、叶えられないかもしれないじゃん」
「……そう、かな」
「うん。
だから、ここで死んじゃダメだよ?」
ルカは、ぎゅっと僕の手を握り直した。
「色の良さを証明するまで、絶対に死なないでね。
ぼくも……一緒に見るから、その世界」
胸の奥で、さっきまでとは違う熱が灯る。
「……分かった」
僕は短く答えた。
「約束するよ」
ちょうどそのときだった。
通路の先の光が、ふっと形を変えた。
広間のような空間が、ゆっくりと姿を現す。
そこが――第一の試練、“慈愛”の場なのだと、誰かが小さくつぶやいた。
僕はルカの手を離さないように、指に力を込めながら、一歩、また一歩とその中へ足を踏み入れた。




