第二十一話 書庫
月の光は、階段の途中で形を失っていた。
窓から差し込んでいるはずなのに、床に影を落とさない。
カイルは、それを気に留めなかった。
身支度を終え、音を立てないように階段を降りる。
空気は澄んでいる。だが、肺に入ると、わずかに重い。
食堂には、すでに人がいた。
リセリアは窓際の席に座り、朝食を前にして待っている。
白いパン、果実、薄く切られた燻製魚。
それらが整然と並んでいる。
カイルは一瞬、それを料理として見なかった。
並んでいる、という事実だけが目に入り、どう扱えばいいのかが分からない。
パンは白い。きれいすぎる。
果実は名前だけ知っている。
魚は――薄い。こんな切り方を、見たことがなかった。
考えるより先に、手が動いた。
席に腰を下ろし、パンを取る。
指先に、わずかな力が入る。
「紫の国の調味料らしいわ」
皿の中央に、小皿が置かれている。
黒紫に近い色の草を練り込んだバターと、結晶の形が揃わない塩。
その小皿だけが、はっきりと色を持っていた。
「……なにこれ」
思わず、声が出た。
香りが、遅れて残る。
口の中に、さっき食べたはずのパンが戻ってくる。
「おいしいでしょ」
リセリアが、少しだけ得意そうに言った。
「……うん」
理由は分からない。
でも、もう一口食べていた。
良いとも、悪いとも思わない。
食べられる。それで十分だった。
「このあとだけど」
リセリアは、器から目を離さずに言う。
「まずは書庫ね。紫の国の秘儀書は、あそこに集まってる」
「……分かった」
考えたわけではない。
自然に、そう答えていた。
食堂の奥で、器が落ちる音がした。
乾いた音が一度だけ響き、すぐに消える。
二人は顔を上げない。
朝は、そういうものだと思えた。
◇
通りに、露店は出ていなかった。
その代わり、石造りの建物の一階に、店が並んでいる。
香料店、古書店、儀式具を扱う店。
どれも扉と看板を持ち、通りから一段奥まった位置にあった。
カイルは、歩きながら何度も視線を走らせた。
「……え、ないのか?」
思わず、声に出ていた。
ハクレイン王国では、朝になれば自然と布が広がる。
売る場所がなければ、道を借りるしかない。
それが当たり前だった。
「紫が特別なわけじゃないわ」
リセリアは、歩調を変えずに言った。
「本当は、どこの国でも店を構えるのが普通よ。
ハクレイン王国みたいに、露店が当たり前なのは珍しい」
「……まじで?」
カイルは、思わず足を止めかける。
「ええ。土地も建物も、お金がかかるでしょう?
それを維持できる国じゃないと、店は成り立たないの」
「……そりゃ、無理だわ」
即答だった。
「土地も、建物も、国が管理してる。
勝手に売る方が、むしろ危ないの」
カイルは、並ぶ扉を見上げた。
看板。扉。鍵。
全部が、ちゃんと「持ち物」だ。
「……金、いくらあっても足りなさそうだな」
冗談のつもりだったが、半分は本音だった。
「かかるわね。でも、その分――」
リセリアは、店の並びを一度見渡す。
「残るものも多いの」
扉の奥は暗い。
だが、閉ざされてはいない。
人が入れるのは、入口に近い場所だけ。
それでも、店は開いている。
カイルは、少しだけ居心地の悪さを覚えながら、
それを「普通」として受け取ろうとした。
通りを進むにつれて、店の窓が増えていく。
ガラス越しに見えるのは、どれもハクレインでは見たことのない品ばかりだった。
古い器が並ぶ店がある。
欠けも、歪みも、そのまま残したまま棚に置かれている。
値札は付いているが、使い道は書かれていない。
カイルは、思わず足を止めた。
「……これ、売り物なのか?」
「骨董品よ。
儀式に使われたものも多いわ」
「儀式……終わった後の?」
「ええ。終わったから、売れるの」
納得できたような、できていないような顔のまま、カイルは次の窓を覗く。
紙を扱う店。
棚いっぱいに積まれた札や符に、細かい文字がびっしりと書き込まれている。
同じ形のものは、ひとつもない。
「……全部、手書きか?」
「当然でしょう」
当然、という言葉が軽い。
「書いた人の癖が残る方が、効くもの」
「効く……?」
問い返す前に、リセリアは歩き出していた。
次の店は、奥が暗い。
光を吸うような石が、箱に収められている。
どれも小さいが、視線を引きつける。
「魔道具よ」
「……触っていいのか?」
「ガラス越しなら」
その答えに、少しだけ安心して、カイルはガラスに近づいた。
石に刻まれた紋様は、見ていると形を変えている気がする。
目を離すと、何がどう変わったのかは分からない。
「紫の魔物から採れた魔石を使ってるの」
「……危なくないのか?」
「だから、店の中に置くのよ」
窓が、境界の役目を果たしていることを、カイルはようやく理解した。
さらに歩くと、別の店の奥に、布をかけられた細長い箱が見えた。
他の商品よりも、明らかに扱いが違う。
「あれは?」
リセリアは、一瞬だけ視線を向ける。
「宝具。
正確には、宝具だったもの」
「……売っていいのか、それ」
「使えなくなったものだけよ」
それ以上は、説明されなかった。
カイルは、無意識のうちに息を吐いていた。
どの店も、開いている。
だが、奥へ招く気配はない。
見て、知って、考えろ。
入るかどうかは、自分で決めろ。
そう言われているような通りだった。
歩き続けていると、建物の形が変わる。
窓が減り、壁が厚くなる。
「……あれだな」
カイルが前を指す。
低く、広い建物。
派手さはないが、通りの流れが自然とそこを避けている。
「ええ」
リセリアが頷いた。
「紫の書庫――図書塔よ」
カイルは、最後にもう一度だけ振り返った。
窓の向こうの世界は、まだ遠い。
だが、さっきよりも、少しだけ輪郭が見えた気がした。
二人は並んで、図書塔へ向かった。
◇
扉をくぐった瞬間、音が一段落ちた。
街のざわめきが消えたわけではない。
ただ、厚い布を一枚隔てたように、遠くなる。
中は広い。
天井は低くはないが、高さを誇る造りでもない。
横に、奥に、静かに広がっている。
壁一面に棚が並び、同じ色の背表紙が続いている。
派手な装丁は少ない。
金属の留め具や、革の背が目立つ。
「……すげぇ」
カイルの口から、素直な声が漏れた。
ハクレイン王国で見た書物は、数えるほどだった。
役所に置かれた記録か、古びた宗教書くらいだ。
ここでは、
本が“置かれている”というより、
積み重なっている。
「触らないでね」
リセリアが、当たり前の調子で言う。
「登録しないと、閲覧もできないから」
「……見るだけでもダメか?」
「表紙くらいなら。
中身は、だめ」
カイルは、思わず手を引っ込めた。
通路は広く取られている。
人がすれ違っても、肩が触れない。
その分、足音が響く。
自分の歩く音が、やけに大きく聞こえた。
「なんか……緊張する」
「そう?」
リセリアは、きょろきょろと棚を見回している。
「私は落ち着くけど」
「慣れの差でしょ?、それ」
視線を走らせるたび、
意味の分からない記号や、古い言語の題名が目に入る。
読めない。
分からない。
それでも、重みだけは伝わってくる。
知識が、
力としてここに集められている。
カイルは、無意識に息を整えた。
「……ここに、黒の記述もあるんだよな」
言葉にした途端、声が少しだけ低くなった。
「ある可能性は高いわ」
リセリアは、頷く。
「紫は、隠すより残す国だから」
「残す、って……」
「危険でも。
理解できなくても」
それが、当然だと言う口調だった。
奥へ進むにつれて、
棚の配置が変わっていく。
分類が細かくなり、
区画ごとに色の違う札が下がっている。
「……迷子になりそう」
「なるわよ」
即答だった。
「だから、案内を頼むの」
少し先に、人影が見えた。
机に向かって、何かを書き留めている。
「……あれ、司書?」
「ええ」
リセリアは、歩みを緩める。
「ここからは、勝手に動かないで」
「分かってる」
返事は素直だった。
司書が、顔を上げた。
年齢は分からない。
若くも老いても見えず、服装も飾りがない。
ただ、姿勢だけが妙に整っていた。
「……何か、ご用ですか」
声は低く、感情が薄い。
リセリアが一歩前に出る。
「閲覧申請を。
外部者が一名います」
司書の視線が、カイルに向いた。
値踏みではない。
確認、という目だった。
「身分証は?」
「ありません」
即答だった。
「……持ってないです」
司書は眉一つ動かさない。
「珍しくはありません」
引き出しから、薄い札を取り出す。
「こちらが、代理申請の札になります」
「ええ。責任は、私が持ちます」
司書は札に何かを書き込み、差し出した。
「閲覧可能区域は限定されます。
持ち出しは禁止。
記録は禁止。
書き写しも、原則不可」
「……見るだけ?」
思わず、カイルが聞いた。
「見るだけです」
断定だった。
「理解できないものを、理解した気になられても困ります」
少しだけ、語気が硬くなる。
「……すみません」
謝る理由は分からなかったが、口をついて出た。
司書は歩き出す。
棚の間を抜け、奥へ向かう。
人の姿が減っていく。
棚の配置が変わり、分類が細かくなる。
「危険度が高いほど、奥です」
振り返らずに言う。
「扱う内容ではなく、
誤読の危険性で区分しています」
「誤読……?」
「一部を読んだだけで、
すべてを理解したと思い込む。
そういう本が、一番厄介です」
カイルは、口を閉じた。
やがて、司書が足を止める。
周囲の棚は低く、
背表紙の色が揃っていない。
「この区画です」
リセリアが視線を巡らせた。
「……ここが黒に関する記述? 本当に?」
「ええ」
司書は頷く。
「分類名は『無彩色域』」
カイルは、小さく息を呑んだ。
「……色じゃない、ってことですか」
「色として扱えなかったものです」
司書が、棚に手をかける。
「完全な記述はありません。
仮説、観測、失敗例だけです」
「……それでも、残してるんですね」
「消す理由が、見つからなかったので」
そこで、司書は――
初めて、カイルを見た。
「……不躾なことをお聞きしますが」
一拍置いて、淡々と続ける。
「なぜ、黒の記述を探しているのですか?」
空気が、張り詰めた。
理由。
――そんなもの、今ここで言えるはずがない。
「研究者は、私です」
リセリアが、間を置かずに言った。
「彼は同行者。調査の補助を――」
「あれ?そういう設定だったけ?」
後ろを向いて、二人は小声で抗議する。
「今は、そういう設定よ」
即答だった。
「でも、俺達の見た目ってどう考えても研究者から遠すぎないか?」
二人は自分の服装に目を向けた。
「そ、そんなこと言うならカイルが考えてよ!」
「うーん、大道芸人とかにしとく?リセリアが火でなんかやって見てさ、
もしかしたらいけるかも?」
「それだけは絶対に嫌。しかも、本がある所で火なんかつかる訳ないでしょ!」
「そろそろ、後ろの視線が辛くないか?」
「同感。せーの!で後ろに振り返りましょ。」
「せーの!」
恐る恐る振り返る。
司書は、呆れた顔で、こちらを見ていた。
すごい沈黙と眼力だ。やっぱり研究者で誤魔化すのは無理だったのか?
―――――――――――
「黒は」
静かな声が沈黙を破る。
「調べたい理由がはっきりしている者ほど、
説明を避ける傾向があります。
理由を聞いたのは、止めるためではありません」
司書は視線を棚へ戻す。
「記録の扱いを誤らないためです。
この区画の記述は、読む者の事情で意味が変わります」
少し横へずれる。
「一冊ずつ。
司書立ち会いで」
それだけ言って、司書は一歩、横へずれた。
道が、開く。
カイルは、息を吸い直した。
心臓の音が、まだうるさい。
「……鋭いな」
小声で言うと、
「だから、司書なのよ」
リセリアも、小さく返した。
どちらも、本当の理由には触れなかった。
触れられるほど、まだ整理できていなかったからだ。
カイルは、棚に並ぶ不揃いな背表紙を見る。
――黒。
調べたい理由を、
まだ言葉にできないまま、
彼は最初の一冊に手を伸ばした。
ページをめくる音が、一定の間隔で続いていた。
最初の一冊。
次の一冊。
どれも、似たような書き方をしている。
黒を定義しようとして、失敗している。
言葉は違う。
理屈も違う。
だが、どの本も、途中で同じ場所に行き当たる。
――それ以上は、書けなかった。
カイルは、机に肘をついた。
「……疲れるな、これ」
「でしょうね」
リセリアは、視線を本から外さずに言った。
「読む側が、合わせ続けなきゃいけないから」
「書いてる方は?」
「……多分、もっと」
どれくらい時間が経ったのか、分からない。
この国は常に夜だからか余計に時間の感覚が分からなくなる。
多分、昼下がり頃だ。
司書は、少し離れた位置に立ったまま、
二人の動きを見ている。
視線は淡々としている。
だが、目を離してはいない。
「……次、これ」
カイルが、棚の奥から一冊を抜いた。
装丁が、他よりも古い。
留め具の金属が、わずかに歪んでいる。
カイルは、机に置き、留め具を外す。
ページを開いた。
「……?」
一瞬、意味が分からなかった。
文章が、途中で終わっている。
正確には、
終わっているのではなく、なくなっている。
「……破れてる?」
リセリアが、すぐに覗き込む。
ページの端が、不自然に裂けていた。
引きちぎられた跡が、そのまま残っている。
「……これは」
司書の声が、冷たくなった。
淡白さは変わらない。
だが、温度が違う。
「信じられません。私もここにいて長いですが、
こんなことが起こったことなど一度もありません。」
その言葉が出た瞬間、
空気が変わった。
司書は、すぐに机の脇へ移動する。
引き出しを開け、別の札を取り出した。
「この書は、無彩色域の中でも、
特に厳重に保管されているものです」
指先が、札の表面をなぞる。
「私達は書物を関連する時はこのように、
常に横にいて監視しております。司書立ち会い以外での閲覧は、ありません。」
「……じゃあ、なんで?」
カイルの問いに、司書は答えなかった。
代わりに、札を机に置く。
「入室履歴を確認します」
淡々とした声だが、動きは速い。
「……最近、この区画に入った者は」
一拍。
「一人だけです」
リセリアが、視線を上げる。
「司書立ち会いで?」
「いえ」
即答だった。
「特別許可。
警備確認の名目で」
司書は、札に記された項目を追っていく。
所属。
配属日。
入室記録。
そこで、指が止まった。
「……憲兵。
名は、ロッシュ・ギニョール。
最近憲兵に入った新人です。」
その名を聞いても、すぐには何も繋がらなかった。
ただ、「新人」という言葉には、心当たりがある。
昨日。
戦場の後で、そう呼ばれていた人間がいた。
同じ人物かどうかは、分からない。
別人の可能性だって、ある。
だが――
無関係だと切り捨てるには、引っかかりすぎていた。
机の上で、破られたページが静かに開いている。
喉の奥が、ひりついた。
これは、偶然じゃない。
――以上をもって、図書塔は一時閉館します」
司書は、事務的に告げた。
「理由の説明は、後日。
本日は、これ以上の閲覧は認められません」
「……今すぐ、ですか?」
「今すぐです」
反論の余地はなかった。
外に出ても、さっきの感覚が抜けなかった。
カイルは、しばらく黙って歩いていた。
「……」
声にならず、喉で止まった。
「さっきの……司書さんが言っていた憲兵。」
言葉を探して、止まる。
「なんか……引っかかってる」
理由は言えなかった。
自分でも、うまく説明できない。
リセリアは、少しだけ口元を緩めた。
「……気になるなら、見に行きましょうか」
カイルは、一瞬だけ迷ってから、頷く。
「……うん。ちょっとだけ」
それだけで、行き先は決まった。




