第二十話 静かな夜
森が、静まり返った。
フジライチョウの群れは、完全に姿を消していた。
逃げたというより――戻った。
そう表現した方が近い。
憲兵の一人が、盾を地面に下ろした。
別の者はその場に座り込み、膝に手をついて深く息を吐く。
「……助かったな」
誰かが呟いたが、返事はなかった。
声を張り上げる者はいない。
安堵と疲労が、同じ重さで場を満たしている。
その視線が、自然と一点に集まった。
王国騎士団副隊長――サラ・フューシャ。
杖を下ろしたまま、少し離れた位置に立っている。
表情は変わらない。
こちらを見渡すこともなく、誰かに声をかけることもない。
「……なあ」
憲兵の一人が、ひそひそと囁いた。
「さっきの聞いたか?」
「聞いた……喋ったよな?」
一瞬、周囲が妙に静かになった。
次の憲兵が、信じられないものを見る顔で言う。
「俺、初めて見たんだけど」
「俺も。……噂じゃ、団長としか口きかないって――」
言葉は、途中で途切れた。
サラが、何も言わずに背を向けたからだ。
紫のロングコートが、風に揺れる。
次の瞬間には、彼女の姿は夜気に紛れていた。
まるで最初から存在しなかったように。
だが、その場の誰ひとりとして、彼女の言葉を疑わなかった。
「……門を閉めろ」
「負傷者を先に運べ」
サラが残した短い指示だけが、遅れて効き始める。
憲兵たちは我に返り、慌ただしく動き出した。
◇
「……カイル」
呼ばれて振り返ると、
大剣を背の留め具に戻したリセリアが近づいてきた。
「大丈夫?」
「うん。……リセリアこそ」
カイルは彼女の肩を見た。
上下する幅が、普段よりわずかに大きい。
呼吸が、まだ整いきっていない。
「……まあね」
リセリアは苦笑して、肩をすくめた。
「連戦はさすがに効くわ。しかも、この国……空気が変」
「変?」
「吸うたびに、変な気分になる。甘ったるいっていうか……」
リセリアは歩き出した。
「でも、倒れてない。偉い」
「それ、褒め方が雑すぎない?」
「雑でいいの。今は」
軽いやり取り。
それだけで、二人の足は自然と並んだ。
憲兵の一人が、深く頭を下げる。
「後はこちらで処理します。助太刀、感謝します」
リセリアは軽く頷き、踵を返した。
カイルも一度だけ門の方を振り返る。
槍と盾だけで前線に立っていた憲兵たち。
押されながらも、確かに戦っていた。
一方で、自分は――
(……使えなかった)
影は揺れた。
反応は、あった。
それでも形にならなかった。
(今回は、たまたまだ)
胸の奥で、いつもの結論が先に立つ。
紫の国の空気。甘い匂い。条件が悪かっただけ。
影はある。方向も、間違っていない。
――だから次は。
その考えを、不思議に疑わなかった。
◇
王都マドゥスへ向かう道は、整備されていた。
街灯もある。
建物もある。
人も、いる。
見た目だけでは、何の被害もない。
――ただ、機能していない。
看板が出ていない。
酒場の扉が閉じられている。
露店の台が畳まれたまま、雨よけの布だけが風で揺れている。
通り過ぎる人々は、目を合わせない。
避けるように半歩ずつ距離を取っていく。
「……避けられてる?」
カイルがぽつりと言うと、リセリアは否定しなかった。
「“いない”んじゃない。……関わらないだけ」
「なんで?」
「巻き込まれたくないからよ。幻覚の噂、聞いたでしょ」
リセリアは門前で押さえつけられていた男を思い出すように言う。
◇
二人が辿り着いたのは、ハンターギルドが経営する宿だった。
外観は拍子抜けするほど普通だ。
木造の二階建て。看板も派手ではなく、剣や魔獣の意匠が控えめに刻まれているだけ。
「……ここが、ハンターギルドの宿?」
カイルが、少しだけ首を傾げた。
「もっと、こう……殺気立ってると思ってた」
「血生臭い? 怒号が飛び交ってる?」
リセリアが横目で見る。
「うん。あと、床に血痕とか」
「それは偏見よ」
そう言いながらも、リセリアは扉の前で一度立ち止まった。
中から聞こえてくるのは、話し声と、食器の触れ合う音だけだ。
扉を開ける。
ロビーは、思ったより静かだった。
壁際のテーブルに、数人の宝具ハンター。
酒を飲んでいるが、騒ぐ者はいない。
視線だけが、ちらりとこちらを掠めて――すぐに逸れる。
「……普通だな」
カイルは小さく呟いた。
「ええ。普通ね」
その「普通」が、この国ではどこか浮いている。
それに気づいているのかいないのか、誰も言葉にはしなかった。
受付の奥で、ギルド職員が顔を上げる。
「宿泊ですね?」
事務的な声。
淡々と鍵が差し出される。
カイルは、受け取る鍵を見て一瞬だけ目を丸くした。
「……ほんとに、泊まれるんだ」
「何だと思ってたの?」
「もっと審査があるとか、身分証出せとか」
「それは依頼を受ける時よ」
リセリアは肩をすくめた。
ロビーの隅から、ひそひそ声が聞こえる。
「依頼、全然出ないらしいな」
「宝物殿の中が“甘い”って……何なんだよ」
「王国騎士団が動いてるって話だ」
それ以上は続かない。
誰も、踏み込まない。
階段へ向かう途中、リセリアが足を止めた。
「明日だけど」
カイルが振り返る。
「まずは街を見ましょう。
ギルドにも顔出して、噂を拾う」
「宝物殿は?」
「様子次第。いきなり突っ込む国じゃないわ、ここは」
カイルは少し考えてから、頷いた。
「……うん。分かった」
特別な計画じゃない。
けれど、“何もしない”わけでもない。
それで十分だった。
「今日は休むわ。無理する日じゃない」
「……そうだな」
短いやり取り。
だが、それで一日の終わりが決まった。
階段を上りながら、カイルはふと天井を見上げる。
(ハンターギルドの宿、か)
思っていたより静かで、
思っていたより普通で、
思っていたより――安心できそうだった。
◇
夜。
部屋には、静かな灯りだけがあった。
宿のランプが、一定のリズムで揺れている。
カイルは、肩のコートを外し、
壁際のフックに掛けた。
藍色の裏地が、揺れてから静まる。
ベッドに身を沈めた瞬間、
胸の奥が、ゆっくりとほどけていく。
――柔らかい。
ここまで、まともに横になったのはいつぶりだろう。
野営。仮眠。椅子での眠り。
気を抜けば命に関わる場所ばかりだった。
「……ベッドで寝るなんて、久しぶりだな」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
天井を見上げる。
木目の板。ひびも、歪みもある。
けれど、それが今は妙に落ち着いた。
(ここまで、色々あった)
自然と、思考がほどけていく。
宝具を手に入れたこと。
戦う理由が、はっきりしてしまったこと。
そして――
髪に触れる。
指先に感じる、黒。
(……もう、ハクレインには戻れないな)
不思議と、悲しさはなかった。
覚悟の後に残る、静かな事実として、それはあった。
(ミリアさん……元気かな)
白の国の教会。
穏やかな声。
祈りの時間と、子どもたちの笑い声。
(みんな、ちゃんとやってるといいな)
そして――
(ルカ)
胸の奥で、名前を呼ぶ。
(必ず、取り戻すから)
どこにいるかも分からない。
無事かどうかも分からない。
それでも。
(待っててくれ)
その言葉だけは、はっきりしていた。
瞼が、ゆっくりと重くなる。
身体が、ベッドに馴染んでいく。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
ランプの光は、いつの間にか消えていた。
部屋は暗い。
だが、不安はなかった。
外から聞こえるのは、風の音だけだ。
人の気配も、足音もない。
(……静かだな)
そう思ったところで、瞼が完全に閉じる。
深く、眠りに落ちた。
――そのまま、夜は何事もなく過ぎていった。
床に落ちる影も、
いつも通りの形で、じっとそこにある。
紫の国の夜は、
ただ静かに、時を進めていた。




