第十八話 紫の国《アメジマドゥス》前半
紫の国には、太陽がない。
正確には――
光が、通ってこない。
雲があるわけでも、夜というわけでもない。
ただ、空は常に暗く、星も月もはっきりとは見えなかった。
紫の国。
常夜の国。
国境に立った瞬間、空気が変わった。
甘い匂い。
喉の奥に、わずかに残る余韻。
それが香なのか、霧なのか、分からない。
影の輪郭が、どこか曖昧だった。
足音が、半拍遅れて返ってくる。
振り返ると、距離感が狂っている。
街道は、ただ続いていた。
舗装はされている。
王国へ続く主要路だと分かる作りだ。
だが――人がいない。
本来なら、王国へ向かう巡礼者や行商、
占いを目当てにした旅人が列をなしていてもいい。
足音、話し声、馬のいななき。
そういったものが、何一つない。
カイルは、思わず口にした。
「……なんか、静かすぎない?」
リセリアは、すぐには答えなかった。
周囲を見回し、地面の痕跡を確かめるように視線を走らせる。
「静か、じゃないわ“人が通った気配がない”の」
やがて、王国の外壁が見えた。
紫の石で組まれた高い城壁。正門は、開いている。
――だが。
そこに立つはずの審査官が、いない。
詰所も、警備兵も、空だ。
「……ねえ、人がいない」
カイルは周囲を見回した。
入国門は開いている。
本来なら審査官が立っているはずの場所にも、誰もいない。
「紫の国って、こういう雰囲気なんじゃないのか?」
カイルは首を傾げる。
「儀式とか、占いとか……
正直、ちょっと近寄りがたい国だって聞いてたし」
リセリアは即座に首を振った。
「いいえ。
ここは“怖い国”じゃないわ」
視線が、門の奥へ向く。
「占い、運試し、儀式見物。
この国、そういう目的で人が集まるの」
「……集まる?」
「ええ。
いつもなら、行列ができてる」
その言葉に、カイルはもう一度周囲を見た。
やはり、誰もいない。
国の中へ進むにつれ、灰が舞っているのが分かった。
降っているというより、漂っている。
「……宝物殿、か」
リセリアの表情が硬くなる。
アメジマドゥスの中心。
門の外からでも見えるほどの大きさの建造物が、奥にそびえていた。
視線を向けただけで、
胸の奥が、わずかにざわついた。
だが、そこへ向かう途中――
「やめろ! 動くな!」
怒号が響いた。
憲兵達が、一人の男を地面に押さえつけている。
男は暴れているわけではない。
ただ、必死に何かを訴えていた。
「ちょっと! 何してるの!」
リセリアが駆け寄る。
「その人、一般人でしょ! 手を放しなさい!」
すぐに、別の憲兵が行く手を塞いだ。
「これ以上近づくな!
一般人の立ち入りは禁止だ!」
「私は宝具ハンターよ。
あなた達、分かって言ってる?」
「この国は――」
憲兵は、歯噛みする。
「宝物殿の影響で、汚染されている!」
カイルは思わず眉をひそめた。
(人間が……汚染?)
魔物や動物なら、まだ分かる。
だが、人間に直接影響が出るなんて、聞いたことがない。
「……その人は、どういう状態なんですか?」
カイルが尋ねる。
憲兵は、押さえつけている男を一瞥した。
「幻覚だ。
この男は、“知らない女に誘われた”と言っている」
「……誘われた?」
「俺のことが好きだ、ついて来い、だのな。
観賞植物に話しかけていたらしい。」
憲兵は吐き捨てるように言った。
「灰が舞うようになってから、こういう事例が何十件もある。
俺達も手を焼いてる」
その瞬間。
――カーン。
――カーン。
――カーン。
鐘の音が、国中に鳴り響いた。
「北だ!」
憲兵たちが、一斉に走り出す。
「カイル、行くわよ!」
リセリアが言う。
二人が辿り着いた門の先には、魔物がいた。
フジライチョウ。
紫の羽毛を持つ、本来は臆病な魔物。
だが――
上半身が、灰色に染まっている。
数は、三十体程度。周囲の空気が、甘く淀んでいた。
王都マドゥスの内側から漂ってくる、
粘つくような匂い。
フジライチョウ達は、
その匂いに引き寄せられるように集まっている。




