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第十六話  灰獣(後半)

 無我夢中に走った。後ろを振り返らずに。

 

 魔石にたどり着き、カイルはそれに手を伸ばした。


 魔石は、本来なら魔道具の原動力に使われるものだ。

 色を持つ魔石ほど価値があり、用途も明確になる。


 だが――灰色の魔石は違う。


 どの色にも属さず、

 どの魔道具にも適合しない。


 そこらに転がる石と、大した違いはない。

 市場では値もつかない、いわば“外れ”だ。


(……なのに)


 なぜか、目が離れなかった。


 これが状況を打開するものなのかどうかも、分からない。

 意味があるのかどうかも、分からない。


 ただ――

 胸の奥で、何かが微かに反応していた。


 理由のない、直感。


 カイルは魔石を拾い上げた。


 ルシファーの宝具を手にした時の感覚が、脳裏をよぎる。

 触れた瞬間、世界が反転するような、あの感覚。


(……この感覚、いける。)


 身構える。


 だが。


 何も、起きなかった。


 手の中で、魔石が音もなく崩れる。

 砂のように砕け、指の隙間から零れ落ちていく。


 ――消えた。


「……え?」


 声にならない声が漏れた。


(なんで……?)


 頭が、追いつかない。


(どうして?

 ルシファーの時は、この直感に従って――)


 そこまで考えて、視線の先が揺れた。


 灰が動く。

 ムネモスが、もうすぐそこまで迫っている。


(何が悪かった?

 リセリアはもう限界。

 ここで俺が死んでしまったらルカはどうなる?

 ミリアさんは?孤児の皆は?

 何も告げずに国を出たから、きっと心配するだろうな。

 ああ、俺は宝具を手に入れて黒に変わって、

 もう“守られるだけの存在”じゃないって、勝手に決めつけてたんだ)


 ここで死ぬ。そう思った瞬間。


 胸の奥に、靄が広がる。


 怒りでも、恐怖でもない。

 名前をつけられない感情が、ゆっくりと溜まっていく。


 喉の奥が、詰まる。

 吐き気に近い感覚だった。


(……なんだ、これ)


 自分でも分からない。

 でも、確かに“何か”がある。


 その時だった。


「カイル! 避けて!」


 声と同時に、空気が裂けた。


 反射的に身体を捻る。

 だが、思ったほど動けなかった。


 視界が、滲む。


 ――違う。


 幻覚ではない。

 ムネモスの吐いた灰とは、別のものだ。


 胸の奥に溜まっていた靄が、

 一気に押し広げられる。


(やめろ……)


 そう思ったのに、止まらなかった。


 嫌悪感。

 焦り。

 自分が何もできないことへの苛立ち。


 それらが、ひとまとめになって――


 “沈んだ”。


 光が、消える。


 正確には、暗くなったのではない。

 周囲の輪郭だけが、黒く縁取られた。


 次の瞬間。


 カイルの足元から、

 影が跳ね上がった。


「――っ!?」


 地面に落ちていた影が、

 生き物のように伸びる。


 ムネモスの前脚に絡みつき、

 一瞬だけ、その動きを止めた。


 ほんの一瞬。

 呼吸ひとつ分にも満たない時間。


 だが――


「……今の」


 リセリアの声が、僅かに揺れた。


 彼女は、見ていた。


 確かに、“何か”が発生した。


 ムネモスが、低く唸る。

 影を引き剥がし、距離を取る。


 カイルは、膝をついた。


「っ……」


 吐き気が込み上げる。

 喉の奥に、苦いものが溜まる。


(気持ち悪い……)


 力を使った感覚ではない。

 消耗とも違う。


 ただ、

 自分の内側を無理やり掻き回されたような感覚。


「今のは……あなたがやったの?」


 リセリアが問いかける。


 カイルは答えられなかった。


 やった覚えは、ない。

 やろうとも、思っていない。


 ムネモスが、再び距離を詰め始める。


 リセリアが、剣を構え直した。


「……いいわ」


 短く、言う。


「今の感覚、忘れないで」


 戦場でしか出てこない、

 “確認”だった。


 カイルは、震える手を握り締めた。


 まだ、何もできない。

 制御もできない。


 それでも――


 カイルは、息を整えた。


 無理に呼吸を深くする必要はない。

 むしろ、意識を絞る。


 今は考えるな。

 感じろ。


 リセリアが一歩前に出るのが、視界の端に映った。

 彼女はムネモスに集中している。

 背中越しに、その覚悟が伝わってくる。


 だからこそ――

 今、邪魔はできない。


 もう一度、あの感覚を思い出さなければならない。


 気持ち悪い。

 不快で、胸の奥がざわつく、あの感じ。


(魔石を拾った時、僕は何を思った?

 絶望? 未練? この世界への恨み?)


 ……違う。


 俺は、何かできる側に回ったつもりでいた。

 でも現実は、何一つ変わっていない。

 リセリアは今、必死に命を懸けて戦っているんだ。

 俺だって――力に。


 その瞬間。


 胸の奥に、また靄が広がった。


 喉が詰まる。

 胃の裏を、内側から掻き回されるような不快感。


(……来た)


 足元の影が、揺れた。


 気のせいじゃない。

 確かに、影が濃くなっていく。


 カイルの影は、じわじわと膨らみ、輪郭を持ち始めた。


 ――《影送り》。


 なぜか、その言葉が浮かぶ。


 意味は分からない。

 原理も、使い方も知らない。


 それでも。


 地面から、黒い輪郭が立ち上がった。


 獣の形をした“何か”。

 ムネモスと同じ姿。


 だが、色が違う。


 灰ではない。

 黒だ。


 影でできた獣が、無音で地面を蹴った。


 一直線に、ムネモスへ。


「……え?」


 自分の声が、遅れて聞こえた。


 影の獣が、ムネモスに噛みつく。

 衝突の瞬間、灰が大きく散った。


 空気が、一瞬だけ静止する。


 現実が、追いつかない。


(俺が……やった?)


 この場にいる全員が、わずかに動きを止めた。


 ――ただ、一人を除いて。


「カイル! ナイス!」


 リセリアだった。


 彼女は走るような姿勢で前に出る。

 今まで片手だった大剣を、両手で握り直す。


 刃先が地面をなぞり、火花が散った。


 朱色の炎が、再び強く灯る。


「ここからは――任せなさい」


 低く、力のこもった声。


「朱焔紅!!」


 炎が、剣に絡みつく。


 朱色の炎が、森の奥まで押し広がった。


 ムネモスたちは一斉に距離を取り、

 幻覚を孕んだ霧を残して散っていく。


 追う必要はなかった。

 ――今、この場は守り切った。


 ――だが、カイルの足元の影だけが、

 彼の呼吸より、わずかに遅れて揺れていた。

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