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十五話  灰獣(前編)

 二日が過ぎた。


 紫の国の国境が、ようやく視界に入る距離まで来ていた。

 森の緑は沈み、影は必要以上に濃く、昼だというのに光が素直に届かない。

 風に混じる匂いは甘く、花の香りにも似ているが、

 どこか人工的で、長く吸い込むと頭の奥がぼんやりしてくる。


「もう少しで境だね」


 何気なく口にしたつもりだった。

 返事はない。


 リセリアが立ち止まっていた。

 視線は前でも後ろでもなく、周囲に散っている。


「……気配が、増えてる」


 言い切るより早く、空気が歪んだ。


 灰が、動く。

 木陰から、岩陰から、地面の裂け目から。

 複数。数え切れない。


 囲まれている。


 魔物除けが、胸元で鈍く鳴った。

 効いている――はずだった。

 だが、距離を詰めてくる足取りは止まらない。


「……夢喰灰獣ムネモス


 リセリアが、低く名を告げた。


 その声と同時に、獣たちの鼻先が揺れた。

 吐き出された息が、灰を含んだ霧となって広がる。


 甘い匂い。

 花の香りに似ているが、どこか違う。

 喉の奥にまとわりつき、深く吸い込む前から、頭の奥がじんと痺れた。


「吸わないで!」


 叫び声が飛ぶ。


 だが、もう遅かった。


 足元の距離が、狂う。

 一歩踏み出したはずなのに、思った位置にいない。


 同じ木を、二度見た気がした。

 影が動いたように見えて、次の瞬間には消えている。


(……今の、何だ?)


 視界の端が、わずかに滲む。

 輪郭が曖昧になり、現実と錯覚の境が溶けていく。


 ――幻覚。


 幻覚が、現実に溶け込んでいく。


 リセリアが前に出る。

 反射的に、カイルは一歩下がった。


 甘い匂いが、さらに濃くなる。


 ムネモスたちは距離を詰めようとした。

 だが――踏み出した瞬間、足が止まる。


 リセリアを中心に朱の炎の壁が成形された。


 カイルも守れるほど広い壁。


 彼女の身体を中心に、一定の距離を保ったまま燃える炎。

 それ以上、灰は近づけない。


 吐き出された霧が、炎の縁に触れる。

 触れた瞬間、幻覚を孕んだ灰は意味を失い、ただの熱気となって散った。


 ムネモスが唸る。

 獣の本能が、危険を理解していた。


 それでも、数の優位は捨てない。

 左右から、背後から、距離をずらして迫る。


 リセリアは動かない。


 炎の内側で、ただ剣を構えた。


「……来なさい」


 低く、短い声。


 次の瞬間、彼女の足元の炎が揺らいだ。

 朱が、ゆっくりと剣へと流れ込む。


 刃をなぞるように、炎が纏わりつく。

 金属が熱を帯び、空気が歪む。


 ――攻撃に転じた。


 一体が、正面から飛び込んでくる。


 リセリアは一歩、踏み出した。


「《朱焔・断罪》」


 技名と同時に、剣が振り抜かれる。


 炎を纏った斬撃が、ムネモスの輪郭を正確に捉えた。

 灰が散る前に、朱の炎がそれを焼き切る。


 再生は、起こらない。


 間髪入れず、二体目。


 角度を変え、踏み込みを浅く。


「《朱焔・払暁》」


 横薙ぎの一閃。

 幻覚を吐く前に、首元が断たれた。


 ムネモスの群れが、明確に怯む。


 距離を取ろうとした個体に、視線が走る。


「逃がさない」


 剣先が、わずかに下がる。


「《朱焔・追撃》」


 踏み込みと同時に、炎が伸びた。

 刃先から走る熱が、空間を裂く。


 三体目が、地面に崩れ落ちる。


 炎は派手に燃え上がらない。

 必要以上に広がらない。


 すべてが、制御されていた。


 複数を相手にしながらも、

 距離、角度、数を正確に把握している。


 それが――

 リセリアの“戦い方”だった。


 カイルは、ただ立ち尽くしていた。


(……次元が違う)


 剣を振るっている。

 魔法を使っている。


 だが、それ以上に

 戦場そのものを支配している。




 ――――――――――

 

 

 それから、数分が過ぎた。


 一体また一体、灰が崩れる。

 同時に、リセリアの膝が地面に触れた。


「っ……」


朱色の炎は、まだ燃えている。

 だが――最初のような張りはない。


 呼吸が、荒い。


 時間が、奪われていく。


(間に合わない)


 理由は分からない。

 でも、そう感じた。


 そのときだった。


 倒れた灰獣の中から、鈍い音がした。

 転がり出たものが、地面で止まる。


 魔石。


 不思議と、目が離れなかった。


 暗い。

 本来灰色の魔石のはずなのに、どこか黒い。


 ――呼ばれている。


 理屈はない。

 説明もできない。


 ただ、胸の奥が、あの時と同じ感覚を思い出していた。

 ルシファーの宝具を手にする前。

 選ぶ前に、選ばれていた、あの感じ。


「カイル!」


 リセリアの声が、遠くなる。


 考えるより先に、足が動いた。


 走る。


 距離は短い。

 だが、時間が足りない。


 背後で、複数の足音が地面を叩いた。


 間に合うかどうかは、分からない。


 それでも――


 カイルは、走った。

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