第十三話 旅
街道を外れ、森に入ってからしばらくが経っていた。
昼を少し回った頃。
木々の隙間を抜ける風は穏やかで、空気も柔らかい。
カイルは歩きながら、ふと腹部に手を当てた。
「……あ」
「なに?」
「いや、その……」
少し間を置いてから、観念したように言う。
「お腹が空きました」
リセリアは足を止め、横目で見る。
「今さら?」
「我慢はしてました」
「顔に出てたわよ」
「出てましたか……」
彼女は周囲の森を見回し、軽く指で下草を払った。
「山菜は取れるわ」
「助かります」
一拍置いてから、何でもない調子で続ける。
「……できれば、肉も欲しいわね」
カイルが、ぴたりと止まった。
「……その言い方、完全にフラグじゃないですか」
「なにが?」
「“このあと魔物が出ます”って前振りにしか聞こえません」
リセリアは肩をすくめる。
「この辺りなら、出るとしたらグレイボアね」
「ほら来た!」
「ランク紫。イノシシ型」
「情報が具体的すぎます!」
「突進力はあるけど、動きは単調よ」
「聞けば聞くほど安心できません!」
――その瞬間だった。
藪の奥から、低く湿った呼吸音。
ぐ、ぶう……と、地面を掘り返す音。
カイルは即座に言った。
「ほら! だから言ったじゃないですか!」
「ええ、言ってたわね」
木々の間から、巨体が姿を現す。
泥と枯葉を纏ったような硬い毛皮。
短く太い脚、地面を削る牙。
「……グレイボアですよね!」
鼻を鳴らし、地面を蹴る。
迷いのない突進。
「……行きます!」
カイルは一歩、前に出た。
腰の剣に手を添える。
宝具。
ただ今は“形をした剣”。
それでも、今のカイルにとっては唯一の武器だった。
(魔物は、知っている)
(本で、何度も見た)
でも――
目の前のそれは、紙の上の挿絵とはまるで違った。
(……速い)
想像よりも、ずっと。
圧が迫り、思考が追いつかない。
(斬れるのか? 今? 本当に?)
目を閉じた。
「――だから、無理しないでって言ったでしょ」
赤い閃光。
熱と風を切る音。
次の瞬間、重たい衝撃音が地面に響いた。
目を開けると、グレイボアは横倒しになっている。
首元には、一直線の赤い痕。
剣を払った姿勢のまま、リセリアが立っていた。
「……」
「……」
カイルはゆっくり振り返る。
「……あの」
「なに?」
「僕、今、前に出た意味ありました?」
「勇気はあったわ」
「結果は?」
「ゼロね」
「ですよね……」
視線を落とす。
「今まで僕は、戦った“経験”が、ほとんどないんです。」
沈黙。
それを破ったのは、リセリアだった。
「……正直でいいわ」
そう言って、グレイボアを見る。
「でもね。
それを自覚しているなら、話は別よ」
カイルは顔を上げる。
「午後は、少しだけ剣を見てあげる」
「……本当ですか?」
「王国剣術じゃないわ。
もっと基本的なもの」
彼女は剣を軽く振り、構えを見せる。
「立ち方、踏み込み、振り下ろし。
それと――」
一瞬、カイルの剣を見る。
「模倣の使い方。
あなたの“癖”を、ちゃんと武器にするために」
カイルは、静かに頷いた。
「……お願いします」
「その前に」
リセリアは、グレイボアの方を見て言った。
「でも」
「?」
「ちょうどいいお肉ではあるわね」
カイルもそちらを見る。
「……確かに」
「だから言ったでしょ」
「言ってましたけど!」
それから、カイルが小さく笑った。
「じゃあ……昼ご飯ですね」
「ええ」
「修行は?」
「食べてから」
焚き火に、赤い火が灯る。
緊張も、使命も、
今は少しだけ後回しだった。
旅は、まだ始まったばかりだ。




