刺してスティンガーは舞う
11杯め
店内が賑わいを見せはじめたころ、項垂れた男の背を女が押すように彼らは入ってきた。
ふたりはバーテンダーに誘導されて、カウンターの空席に通された。席に座るときもおしぼりを受け取ってからも、その都度、男からため息がこぼれた。
「お兄ちゃん、なに飲む?今日はあたしの奢りだから、気がすむまでほどほどに飲んでいいよ」いってバーテンダーに手をあげた。「あたしはラム・ソニックください。ラムうすめで」
バーテンダーは口角を上げて首肯すると、男に顔を向けた。
「あ・・・っと、おれはビールで」彼は注文して、はぁ、とまた下を向いた。
ソニックとはソーダとトニックウォーターの同割のことで、すっきりと甘ざっぱりの中間にある味わいだ。
「もうっ、いつまでめそめそしてんの。しょうがないじゃない、結果は結果。ちゃんと受け止めなきゃ」
「いや、わかっちゃいるんだけど・・・。あまりに自分が不甲斐なくてさ」
男はつい先日ボクシングの試合を終えたばかり。結果はドローで、これで彼の戦績は7戦3勝3敗1引き分けとなった。アマチュアのボクシング全国大会である全日本新人王を獲り、華々しく、そしてジムの会長からも大いに目をかけられてデビューしたわけだが、良かったのは3戦目まですべて1ラウンド全KOまでで、その後は人が変わったようにいいところなく敗戦がつづいた。妹はダイエット目的で同じボクシングジムに通っている。
ふたりは特に乾杯することなく、それぞれのグラスに口をつけた。
「この前の試合のあともいったけどさ、不甲斐ない結果に終わったときは、あたしの名前を思いだしなよ、お兄」
「はぁ・・・、そうだな、クルミ。ねぇ、くるみ・・・かぁ」最後は曲の歌いだしをぼそりといった。
ロックバンドのミスターチルドレンに”くるみ”という楽曲がある。いい曲だから聴いてみなよ、と彼は妹からいわれていた。ちなみに、くるみとは来る未来の略だそうだ。
「希望の数だけ失望は増える・・・、かぁ。もうおれに希望なんてものはないな、誰も期待してないだろうし」
「あー、もう!女々しいってこういう人のことをいうんだよ、きっと。いやだいやだ」
しばらく経って妹がグラスを干して隣を見ると、兄のピルスナーにはまだ半分ほどのビールが残っていたがとっくに泡も消え、彼を映す鏡のように元気のない気泡がゆっくりと立ち昇っていた。
「お兄、せっかくバーにきてんだから何かカクテル飲みなよ。そんなにまずそうに飲んだらビールに失礼」
「だけど、おれカクテルなんてレモンサワーくらいしか知らないよ」
「あーっ、それ居酒屋のやつー。酎ハイにレモンしぼったやつー。バーでレサワ頼んだらまったく別物がでてきますー」妹が笑いながらいった。
「そうなの?・・・おまえずいぶん詳しいな」妹の背後にいるかもしれない男の影を怪しむ視線を彼は送った。
「まぁ、それはいいから。レサワもいいけど、せっかくだからテンダーさんにお勧め訊こうよ」そう濁して妹はバーテンダーに手をあげた。
「あたしたち兄妹なんですけど、何かカクテル作ってもらえませんか?」
バーテンダーはにこにことして、ふたりの前にきた。「じつはお二人のお話が少し聞こえてきて、わたしも少し考えていたんです。何かいいカクテルはないかと」
女はカウンターに身を乗り出して、おぉーっ、といって、「あたしたち、基本的にお酒はザルだし、ミルク系だけ外してもらえれば、なんでもオッケーです。なんならこの人を一発KOするカクテルお願いしまーす」あははと笑った。
「おい!冗談がすぎるぞ」
いつものことなのだろう。兄は口ほど怒っている様子もなく、むしろやれやれといった感じだ。
バーテンダーは数秒ほど、どこを見るともなく俯いて何事か考えていたが、ふたりを交互に見た。
「ミント味は大丈夫ですか?」
「ミント?あたしは好きですけど・・・、お兄は?」
「ハッカだろ。別に嫌いでも特別好きでもないかな」
バーテンダーはそれを聞いて、「わかりました。それではおふたりのお任せということでカクテルをお作りします」そういうと、数百と並ぶバックバーのボトルから迷うことなくいくつか取り出し、準備しはじめた。
兄はその様子をぼんやり眺めていたが、妹は興味津々といった感じだ。
やがてバーテンダーはふたりにそれぞれカクテルを出すと、間をおいて彼らの目の前のカウンターにひょうたん形の二本のボトルを置いた。それぞれGETと表記された横に透明色の31と緑色の液体に27という数字がある。
「妹さんにはエメラルドクーラーを、お兄さんにはスティンガーをお作りしました。どちらもこのミントリキュールを使っています」
女はさっそく口に含むと、「あーっ、すっきりさっぱりだぁ。アルコールもそんなに強くなさそうだし、イケる味だー」笑顔でいって、隣の兄を表情で促した。
男は初めて飲むショートカクテルにおそるおそる口をつけた。瞬間、コクのある深い味わいに爽快なミント風味が脳内を突き抜けた。「うまい・・・。なんだ、これ」
スティンガーはブランデーとホワイトミントリキュールを合わせてシェイクしたショートカクテル。20世紀初頭のニューヨークのレストランで生まれたという。
バーテンダーはふたりの表情に満足すると、二本のリキュールに手を添えた。
「このミントリキュール、GETと書いてますが、読みはゲットではなく”ジェット”といいます。1796年にジェットという南フランスの兄弟が造ったのがはじまりです」
「えーっ!ほんとですか?!」女が目を見開いた。
「はい、こちらのジェット31は後発なんですが」
「27と31だって、お兄。あたしらと歳の差同じじゃない」
男はなんと返したものか、う~んと唸っている。
「残念ながら27と31というのは、年齢の事ではなく、発売当時のアルコール度数のことを指しています。ちなみに2025年現在ではそれぞれ21度と24度ということになっています」
「あー、そうなんですね。だけど面白い。お酒の全部にストーリーがあるってことですもんね」妹が同意を求めるように兄を見た。
それを無視して彼はバーテンダーと自身のカクテルに目をやった。
「その、兄弟が造ったリキュールってのはわかりました、だけど、す、ス?・・・これはめっちゃおれの好みの味です」
「スティンガー、気に入っていただき何よりです。少々アルコール度数は高いんですが、先ほど妹さんの情報があったので。・・・お兄さんはボクシングをなさっているそうですね。わたしはその方面には疎いんですが、唯一知っているボクサーがいて、モハメド・アリというヘビー級の往年の世界チャンピオンです。ご存じですよね?」
「それは、まぁ・・・。ボクシングしてるヤツで、その名前を知らない人間はまずいないから・・・」
バーテンダーは笑みを浮かべたまま、「彼のボクシングを表現するときによく使われる言葉がありますよね。”蝶のように舞い、蜂のように刺す”。正直、この言葉をはじめて知ったとき、あぁ、これがプロフェッショナルなのか、と感じたものです。僭越ながら、スティンガー、直訳すると刺すということになりますが、あなたのストレートパンチ、もしくはボディパンチが相手へ、という願いを込めてお作りしました」
「お兄ちゃん・・・」
妹が、話の途中で嗚咽を漏らしうつむいて肩を震わせる兄の背中に手をやった。
だがそれも束の間、先ほどまでと表情を変えた彼はスティンガーをキュッと飲み干すと立ち上がった。そして、バーテンダーにかるく頭を下げると、「ジムに行く。あと、頼む」といって店を出ていった。
妹はおおげさにため息を吐くと、まだ眼前に立つバーテンダーにいった。
「あたしにも強いスティンガーください」