STORY MAKER 〜首都アンダーライン〜【ep.3】歪な首都の胎動
新大久保の夜は、秋葉原の喧騒とは異なる熱を持っていた。駅を出るとすぐ、立ち昇る煙とスパイスの匂いが鼻をつき、韓国料理の鉄板から立つ油の跳ねる音が耳に残る。ハングルのポップミュージックが通りを満たし、原色に彩られたネオンがビルの壁面に乱反射していた。
多国籍な人々がこの街を占拠する。韓流アイドルのグッズを両手に抱える少女たち。スマホを掲げて配信中のインフルエンサー。屋台の前に並ぶ外国人観光客。中国語、タイ語、英語が入り混じり、言語が意味を失っていくかのようだった。
だが、黒崎レイカの視線は、そんな表層には興味を示さなかった。
彼女の目は、都市の笑顔の奥に潜むわずかな『歪み』を捉えていた。街角の防犯カメラが不自然な角度で動いた瞬間。地下へ通じるメンテナンス口の前で足を止めた男の動く視線。壁のグラフィティに紛れ込んだ見慣れない五芒星の落書き。
「空気が変わってる……」
レイカはゆっくりと深呼吸し、すぐにそれが気配の問題ではなく、「情報の流れ」の問題であることに気づく。都市の“脈”が、どこかで鼓動を変えている——彼女には、それが肌でわかった。
路地裏の一角にある、廃業したネットカフェのシャッターが、先ほどからわずかに開閉を繰り返している。コードも何もついていない監視カメラが天井から釣られていた。無意味なはずのその存在に、都市の『非言語コミュニケーション』がまとわりついているように感じられた。
レイカはスマホを胸ポケットから抜き出し、独自のプロトコルで都市の公共ネットワークに侵入する。通常のWi-Fiでは拾えない微弱な電波が、断片的なデータパケットを送受信していた。暗号化されたその情報の中に、『LucidNet』という文字が幾度も浮上する。
LucidNet。表向きは都市開発に関するネットフォーラム。だが実態は、地下ネットワークを駆使した新興の思想集団。噂では、彼らは東京の“都市機構”に介入し、首都そのものを再設計するという狂気じみた野望を掲げている。
「見えてきたわね……」
この街の華やかさの下には、もうひとつのレイヤーが存在する。それは、人々の記憶にも記録にも残らない『不可視のネットワーク』だ。
「地図にない都市構造……これが、奴らの拠点」
レイカは視線を上げ、路地の奥に吸い込まれていく影のひとつを追った。彼女のブーツがコンクリートを鳴らすたびに、都市の奥底に沈んだ“レイヤー”が、わずかに軋む音を立てていた。
その一端が、この雑居ビルの一室に潜んでいる。
レイカはその雑居ビルに入る。鉄製の扉は錆びつき、階段には使われていない監視カメラが沈黙していた。5階建ての古いビル。エレベーターは故障中。彼女は音を立てぬよう、階段を一段ずつ上っていった。革のロングブーツの音を抑え、壁の染みや落書きに視線を走らせる——情報は空間の持つ記憶にも宿る。
3階。目的の扉の前で足を止める。内側から漏れる光。電子音。そして、若干の薬品臭と、焦げたプラスチックの匂い——サーバーを隠している証拠。
ノックもせずにドアを開けると、室内にいた数人の男女がこちらを一斉に見た。彼らは若い。目の奥に常識の欠片がない。MacBook、Linux端末、改造デバイスがテーブルに並ぶ。彼らの瞳は、ネットの闇を覗き過ぎた者のそれだ。
「……誰?」
一人の若い男が訝しげに立ち上がる。
レイカはフードを下ろし、淡々と名乗った。
「黒崎レイカ。都市構造研究のプロジェクトで、LucidNetの活動に興味があって」
一拍、沈黙。そしてその後ろから、誰かが彼女の前に出てきた。
「いいよ、私が話す」
女だった。長い黒髪に白のワイドパンツ、薄い青のシャツ。その姿は、他のメンバーたちのギークな雰囲気とは異質だった。知性と、何かの熱狂が混じったような目をしている。
「私、柊。LucidNetの中心的なプロジェクトに参画してる。……あなた、何かを持ってるね」
彼女の声には、妙に耳に残る音色があった。理性的に聞こえるのに、どこか祈りのような響きがある。
レイカは、柊の視線の強さに一瞬だけ呼吸を忘れた。
その目は「あなたの奥を見ている」とでも言いたげだった。
「都市ってさ、建物だけじゃなくて“構造”でしょ? エネルギーや人の流れ、感情のルート、情報の重心。LucidNetはそれを“再設計”しようとしてる」
柊が言ったその言葉に、部屋の空気が微かに変わった。単なる理想論ではない。これは信仰だった。
「あなたも、こっちに来たらいい。Ω様は“これからを見立てている”から」
その名を聞いた瞬間、レイカの背筋に冷たい電流が走った。
柊が口にした『Ω様』という名に、レイカの中で記憶の薄膜がざわめいた。
まただ——名前に反応する。
理屈じゃない。身体が、神経が、その名に“警告”を発している。
「Ω様……ね。ずいぶん宗教っぽい響きね」
レイカは声を崩さずに返す。
「宗教とは違う。……むしろ“最適化”って言った方が近いかも。感情と都市、記憶と構造。全部を繋げて、“都市の自我”を作る」
柊はごく自然に話していた。狂気を纏う者特有の、過度な熱も、理屈っぽい押し付けもない。ただ、静かに“信じている”目だった。
レイカは、そういう人間に一番警戒する。
「……で、その“都市の自我”ってのは、どこから始まるの?」
レイカが探るように問いかけると、柊は嬉しそうに目を細めた。
「東京駅の地下。そこにね、戦後に封印された“何か”があるって言われてる。私たちはそれを目覚めさせるために動いてるの」
くだらない都市伝説の1つ——そう思いたかった。だが柊の口ぶりは、明らかに『知っている者』の語りだった。
「東京駅の地下に……何かが?」
レイカの言葉が、わずかに震える。
柊は頷いた。
「“五芒星結界”って知ってる?」
その単語に、レイカの視界がわずかに暗転した。記憶のどこかで、かすれた文字が脈打つ。
——“目を開けるな”——
一瞬、幻聴のような囁きが耳の奥を滑る。
柊は続ける。
「戦後の混乱期に、都市の記憶と秩序を安定させるために、政府が“結界”を張ったっていう話。都市そのものを一種の記憶装置に変える、呪術と技術の融合。……でも、封じたままじゃ意味がない。動かさなきゃ」
「動かすって……具体的に、何を?」
「感情、記憶、流れ。“都市そのものの再編集”。それがΩ様の目的。彼はそれを——“物語”と呼んでいる」
レイカの心臓が跳ねた。
「物語……?」
柊がレイカに微笑みかけた。まるで、同じ言語を知る者に出会ったときのように。
「ねぇ、あなた——“記憶を変える”力を持ってるんでしょ?」
一瞬、部屋の音が消えた気がした。
なぜ柊がそれを——
レイカは反射的に口元を引き結んだが、表情を崩さなかった。
「さぁ、何の話かしら」
「隠さなくて大丈夫。私たち、そういう力を探してるの。あなたもきっと、選ばれた側の人間……
“ストーリーメーカー”なんでしょ?」
その単語に、レイカの喉奥がひりついた。
この女、どこまで知っている……?
「……知らない名前ね」
レイカは平静を装いながら、人差し指のスマートリングを回した。
緊急時には、ここから直接遮断コードを発信できる。柊が何か仕掛けてきたら、その瞬間、遮断し記憶領域をロックする。だが柊は一歩も詰めてこなかった。むしろ、どこか安堵したように、声を柔らかく落とす。
「大丈夫。あなたがそう言うと思ってた。でもね、私もそうだったの。最初は、全てを疑っていた。でも、Ω様と出会ってから、世界の構造が“意味”を持ち始めたの」
“世界の構造に意味”?
レイカの胸の奥に、ひやりとした感覚が走る。
「あなたも感じてるんでしょ。日常がどこか偽物みたいで、都市が“物語られて”いる感覚」
レイカの喉が渇いた。
それは、彼女が“ストーリーメーカー”の能力を使った後に、必ず訪れる感覚に似ていた。
——現実と記憶の境界が、わずかに軋む。
「あなたがその力を使うと、都市の“記憶”が変わる。でも、同時に……あなた自身も失っていく。そうでしょ?」柊の言葉は、レイカの核心を撃ち抜いた。
反射的に拳を握りしめる。今にも立ち上がり、目の前の女に問い詰めたくなる衝動を抑え込んだ。
「私たちは、そんな“苦しみ”を終わらせようとしているの。……Ω様は、全てを再編成する。あなたの“空白”すら、意味のある物語に変えることができる」
柊の目が、一瞬だけ真剣さを帯びる。
そこには狂信の色はなく、むしろ“救済”を信じる者の静かな光があった。
だが、レイカはすぐにその視線を断ち切る。
その光は、かつて彼女が「空白」に堕ちたときに、すがりそうになった幻想と同じものだったからだ。
「私は、私自身の記憶で十分よ。他人に書き換えられた人生に意味なんて感じない」
柊はわずかに笑った。まるで予想通り、という顔で。
「そう思うのも、あなたの物語。けれど——選択肢は増えていく」
彼女はそう告げると、名刺のような黒いカードをテーブルに置いた。
その表面には何の文字も記されていない。ただ、中央に五芒星の紋様が浮かんでいた。
「そのカードをかざせば、アクセスできる。“結界”の断片に。もし、あなたが本当に自分の物語を知りたいなら——来て」
そう言って、柊は席を立った。
「どこに?」
「都市が導くわ。……私たちは、常にそこにいる」
柊は、黒いアクリル扉の向こうに消えた。残された空気は、静かに揺れていた。
レイカはカードを睨みつける。
その五芒星の紋様は、まるで記憶の中に焼き付いていた“あの日”の記号と一致していた。
彼女の手が、震える。だが——握りしめた。
「いいわ。記憶が私を否応なく呼ぶなら、徹底的に付き合ってあげる」
レイカの中で、何かが再び目覚めようとしていた。
“空白”が導く“物語”の始まりに向けて——。