STORY MAKER 〜首都アンダーライン〜【ep.2】不確実な依頼
秋葉原の雑踏を抜け、レイカは視線を横に逸らした。路地裏へと続く細く暗い道。壁にこびりついた古いポスターは色褪せ、剥がれかけた端が風に揺れている。
道の奥には、場末のバーのような小さな建物があった。看板は半分消えかかり、片側だけが不規則に点滅している。入り口には煙草の焦げ跡が無数に刻まれ、ドアの取っ手には手垢がこびりついていた。一見するとただの古びたカウンターバー。しかし、ここは『事件屋』の隠れた拠点だった。
扉を押し開けると、店内の空気がどっと押し寄せてくる。酒と煙草の入り混じった濃密な匂い、カウンターに染み付いた古いウイスキーの香り。磨かれていないグラスの鈍い光。低く流れるジャズの音が空気を揺らし、店内の隅で会話する男たちの声が混ざり合っている。
視線を向ければ、誰もがこちらを警戒しているのがわかる。酒を嗜む者もいれば、無言でグラスを傾ける者もいる。
この場所にいるのは、表の世界では決して語られない仕事を請け負う者たち。情報が集まり、金が動く場所——それがこのバーだった。
カウンターの中央に、一人の男がいた。スーツに身を包み、グラスの中の酒をゆっくりと揺らしている。
上杉直樹。企業向け危機管理コンサルタント会社『フォートレス』の代表。堅気のように見えるが、彼の仕事は時に法のグレーゾーンを軽く超える。彼の顧客は企業だけではない。時にはフィクサーのような汚れた連中ともつながる男だった。
レイカはカウンターに腰を下ろし、軽く顎をしゃくった。
「……で、仕事の話ってのは?」
上杉はゆっくりと視線を上げ、グラスを回しながら口を開いた。
「『LucidNet』、新大久保に拠点を置く零細ネット企業だ。こいつらが最近、特定の企業のシステムに不審なアクセスをしている」
レイカはグラスを軽く回しながら、その言葉を吟味する。単なるサイバー犯罪の依頼なら珍しくもない。だが、上杉の表情はいつになく硬い。
「単なるハッキングの話じゃないってこと?」
上杉は微かに頷いた。
「こいつらの動きには、何か別の目的がある。ただの金儲けじゃない……こいつら、何かを探しているような動きなんだ」彼の目が一瞬、揺れた。
レイカはその僅かな変化を見逃さなかった。彼は何かを知っている。そして、それを言葉にすることをためらっている。
「……関与してる可能性は?J-DARPAの」
その名を出した瞬間、店内の空気が張り詰めた。
ジャズの音が一瞬、遠ざかったように感じる。カウンターの隅で話していた男たちの会話が途切れる。誰かの指がグラスの縁をなぞる微かな音だけが聞こえた。
J-DARPA——日本の先端軍事技術開発機関。表向きは政府の防衛研究所の一部門だが、その裏では生体実験や認知戦略技術の研究を行っていると言われている。
上杉はグラスの縁を指でなぞり、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「……俺のクライアントは、過去にJ-DARPAと契約を結んでいた」
「だが、今回の件に関しては……」彼は一瞬、言葉を詰まらせた。
「正直、何が関係しているのか、まだ確信が持てない」
レイカはその言葉に眉をひそめた。
上杉のような男が「確信が持てない」と言うとき、それは "確信を持ちたくない" という意味だ。
「報酬は?」
上杉は一度息を整え、答えた。
「通常の三倍だ」
レイカは静かにグラスを置いた。
「……なるほど。よほど危険な仕事ってわけね」
この金額には二つの意味がある。
一つは、この仕事が通常のリスクの範囲を超えていること。
もう一つは、依頼人自身がすでに恐れを抱いていること。
「引き受けるか?」
レイカは一拍の沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「いいわ。ただし、情報はすべて吐いてもらう。途中で隠し事をしたら、倍の報酬を請求する」
上杉は苦笑しながら頷いた。
「了解だ。……よろしく頼む」
契約が結ばれた瞬間、レイカの脳裏に微かな違和感が走った。
背後——誰かが、見ている。
振り返ることなく、その気配を探る。
バーの入り口近く、隅の席。黒いキャップを目深に被った男が、こちらを見つめていた。
目が合った瞬間、男はすっと席を立ち、店の奥へと消えていく。
(……誰?)
レイカの視線を受け、上杉が小さく苦笑した。
「お前が動き出せば、いろんな奴が興味を持つのさ」
レイカは、氷が解けかけたグラスを一瞥しながら答えた。
「ええ、知ってるわ」
仕事が始まる。
すでに、何かが動き出していた。
時計の針が午前二時を指していた。外では、まだ都会の喧騒がかすかに響いていたが、この部屋は別世界のように静かだった。 レイカは、秋葉原から離れた小さなアパートの一室に身を潜めていた。
賃貸契約は偽名、ネット回線は匿名VPN経由。室内には、最低限の家具しかない。ベッドはシーツが適当にかけられたまま、部屋の隅にはダンボール箱がいくつか積まれていた。壁には湿気が染み付き、換気の悪い空間に微かにカビの匂いが漂っている。
ノートPCが机の上に鎮座し、青白い光を部屋に落とす。液晶画面には公安のデータベースが映し出されていた。彼女は背筋を伸ばし、軽く指を鳴らすと、キーボードに手を置いた。
——『LucidNet』彼女はその名前を検索窓に打ち込み、エンターキーを押した。即座に画面には膨大なデータが流れ出す。
メンバーのリスト、IPアドレスのログ、ダークウェブでの活動記録。レイカは素早くスクロールしながら、情報をフィルタリングしていく。
リストに目を走らせる。
「ただのハッカー連中じゃない……」
組織の構成員には、かつて日本の大手企業に勤務していたエンジニア、公安の元捜査官、軍事技術に関わる研究者……異様な人材の名前が並んでいた。
通常のサイバー犯罪グループとは違う。こいつらは、やはり何かを探している。
スクロールを続けると、彼女の目がある単語に釘付けになった。
——『カムナ真典教』 その瞬間、レイカの脳内に鋭い衝撃が走った。
視界が揺れる。耳鳴り。眩暈。
指先が震え、思わずキーボードから手を離した。
どこか遠くから、誰かが囁く声が聞こえる。
——「目を開けるな……」何かが崩れる。
闇の中に引きずり込まれるような感覚。
目の前の液晶画面が滲み、歪む。
その奥に、見覚えのない光景が浮かんだ。
地下の空間。冷たいコンクリートの壁。
壁には、無数の手形が焼き付いたように残っている。
湿った空気の中で、無数の影が蠢いていた。
——崇拝
誰かが膝をつき、頭を垂れる。
周囲に漂う、鉄臭い血の匂い。
白装束の集団が円を描き、一定のリズムで低く呪詠を唱えている。
(何かがいる——)
彼女の脳裏に鮮烈な恐怖が走る。
これは、自分の記憶なのか?
それとも、誰かが植えつけた『偽りの記憶』なのか?
「違う……!」
レイカは弾かれたように椅子から立ち上がった。
指先の冷たさ。喉が乾く。心臓の鼓動が異常に早い。
呼吸を整えながら、机の端を強く握った。
「私は、あの事件に関わっている?」
その疑問が、彼女の中に刻まれた。
彼女は再び椅子に座り、震える指を無理やり落ち着かせながら検索を続けた。
このままでは、また記憶が壊れる。
今は、事実を確認するのが先だ。
新たな情報が表示された。
——『カムナ真典教事件の生存者』レイカの指が止まる。
画面には、公安がマークしている『生存者の一覧』が映し出されていた。
名前、年齢、住所。
レイカは息をのんだ。数ある生存者の中で、現在も行方が判明しているのは、たった一人。
——「なぜ、こいつだけが……?」
『高尾山薬王院』画面の情報を確認しながら、彼女の脳裏には新たな疑問が浮かんだ。
公安が監視し続けているのか?
それとも、意図的に「生かされている」のか?
レイカは素早くPCを閉じ、手早くデータの痕跡を消去した。
VPN接続を切断し、ログを完全に削除。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
今夜から、彼女は『狩人』になる。
"失われた記憶を取り戻すために——"