STORY MAKER 〜首都アンダーライン〜【ep.1】秋葉原の夜
アニメキャラクターの看板が視界の端で踊り、フィギュアショップのガラスケースには非現実的なまでに整った造形の少女たちが並んでいる。その足元を、カートを引く外国人観光客が忙しなく行き交い、カメラを構えながら『Tokyo Cyber City』とでも言いたげに感嘆の声を漏らしていた。
メイド服を纏った少女たちが軒を連ね、猫なで声で道行く男たちの袖を引く。
「ご主人様、寄っていきませんか?」
「今日は特別サービスですよ♡」
手を引かれた男たちは、苦笑しながらも足を止め、迷いの表情を浮かべる。中には何度も通い詰めたのか、メイドと親しげに会話を交わす者もいる。
その中を、黒崎レイカは歩いていた。
彼女の革のロングブーツが、アスファルトを乾いた音で打ち鳴らす。彼女が通るたび、秋葉原の夜の空気が僅かに変わる。
男たちの視線が、一瞬、迷うように彼女の姿を捉えた。
——惹かれるように目を向ける者。
——見てはいけないものを見たかのように、すぐに逸らす者。
そこにあるのは、興味でも、憧れでもない。
それは、警戒と畏怖が入り混じった、得体の知れない距離感だった。
彼女の名を知る者は少なくない。
秋葉原のSMクラブ『Dominance』のNo.1女王様。
彼女はこの街の欲望の構造を知り尽くし、支配する側に立つ者だった。
だが、それは彼女の『一面』に過ぎない。
表の顔——人を弄び、支配する悦びを売る仮面。
裏の顔——都市の闇に潜み、真実を暴く『事件屋』。
彼女はその両方を使いこなしながら、この街を歩く。
——忘れている。
確かにそこにあったはずのものが、ぽっかりと抜け落ちている。
黒崎レイカは、過去のある時期から、自分の記憶が不自然に欠落していることに気づいていた。
日常の中では、その穴を意識することは少ない。
だが、不意に何かの拍子で——
たとえば、街中で見覚えのない場所に違和感を抱いたとき。
あるいは、知らないはずの人間に「久しぶり」と声をかけられたとき。
理由のわからないデジャヴに襲われるたび、背筋に冷たいものが走る。
そこにあったはずの記憶が、ない。
見えないはずのものが、脳裏に焼き付く。
——この空白は、何なのか?
レイカは何度も考えた。
しかし、答えはいつも霧の向こうにあった。
その夜も、何の前触れもなく、それは襲ってきた。
激しい耳鳴り。視界の揺らぎ。
遠くで、誰かが囁いている。
「目を開けるな……」
——誰の声?
まぶたの裏に映るのは、暗い空間。
白装束を纏った集団。
意味のわからない言葉が、波のように押し寄せる。
鉄の匂い。床に広がる紅い染み。
意識がそこに釘付けになる。
——この光景を、私は知っている?
記憶の奥底から、何かが無理矢理引きずり出されるような感覚。
この場所を知っている。この人たちを見たことがある。
けれど、それ以上は——
レイカは息をのむと、震える指でこめかみを押さえた。
頭痛は収まらない。
それは彼女の特異な能力と関係する。『ストーリーメーカー』——
右手に刻まれた呪印を触れさせることで、相手の記憶を書き換えることができる。
だが、その代償として、彼女自身の記憶もまた、少しずつ崩壊していく。
人の記憶を改変すればするほど、自分の中から何かが消えていく。
それは意識的に忘れるのではなく、まるで誰かに削られているような感覚だった。
何を失ったのかもわからないまま、ぽっかりと欠けている。
まるで、誰かが意図的に、彼女の記憶を『改変』したかのように——。
あの言葉。『カムナ真典教』——
その単語が脳裏をよぎるたび、警報のように頭の奥が軋む。
何かが、警告を発している。
胸が締め付けられるように苦しい。
知らなければならない、この記憶が何なのかを。
この欠落が何を意味するのかを。
彼女は追う。
事件を解き明かせば、きっと、自分が何者なのかがわかる。
いや——わからなければならない。
光が満ちた大通りから一本奥の路地に入ると、風景は一変する。
無数の看板が煌めく通りとは違い、ここには喧騒の残響だけが微かに響いていた。雑居ビルが並び、裏路地の奥には古びた電子パーツ屋が軒を連ねている。
パソコンショップの店先には、基盤むき出しのハードウェアやコードが雑多に積まれ、時代遅れのモニターがガラス越しに寂れた光を映していた。
ここには、昼間の『秋葉原』とは違う住人たちがいる。
目つきの鋭いハッカー崩れの男たち、裏取引の噂が絶えない密売人、そして「街の異端者」として漂流してきた者たち。
レイカも、その中にいた。
彼女のロングブーツが路地の石畳を静かに踏みしめる。
影のように気配を消しながら歩くその姿は、この街の闇と完全に同化していた。
誰もが、自分の欲望を抱えてこの街に集まる。
だが、彼女にとって、この街は『獲物を狩るための場所」だった。
『Dominance』の控え室には、特有の匂いが満ちていた。
赤いベルベットのソファに沈み込んだ香水の残り香、酒とタバコの煙が入り混じった空気、そして甘ったるいボディローションの匂いが、薄暗い照明の下でじっとりとまとわりついていた。
レイカは、化粧台の前に座っていた。
鏡に映る自分の姿を見つめながら、黒のレザーコルセットを締め上げる。革が肌に密着し、心臓の鼓動が僅かに締め付けられる感覚を覚える。彼女の指は慣れた動作でホックを留め、太ももまで伸びるロングブーツのジッパーをゆっくりと引き上げる。
足を組み替えながら、手鏡を持ち上げた。角度を微調整し、光の加減を確かめながら、赤い口紅を滑らせる。
カチリ、と蓋を閉じる音が鳴る。
それは、彼女が「仮面を装着する瞬間」だった。
控え室には、他のキャストたちもいた。
レースやラバー、ボンデージに身を包んだ女たちが、思い思いの時間を過ごしている。
壁際では、細身の女が片脚を組みながらタバコを吸っていた。赤く塗られた爪が灰皿の縁をなぞるたびに、灰が細く崩れ落ちる。その向かいでは、豊満な体つきの女が鏡に向かって髪を整え、手首にチョーカーの金具をはめながら微笑んでいた。
「今夜の客、また変なのばっかりだったわ」
誰かが軽口を叩くと、すぐに笑いが返ってくる。
「うちの支配人、変態の嗅覚だけは異常だからね」
「まあ、それで食えてるんだから、文句言えないけど」
笑い声が、天井の間接照明に弾かれ、空間のどこかで湿り気を帯びて消えていく。
レイカもその輪の中にいた。だが、彼女だけが、どこか異質だった。
彼女に向けられる視線は、明らかに他のキャストとは違っていた。
「この人は別格」
それを言葉にする者はいないが、空気がそう物語っていた。
畏敬と嫉妬、あるいは単純な距離感。
彼女はこの店で頂点に立つ存在だった。No.1。
しかし、それゆえに、誰も彼女を『仲間』とは思っていなかった。
彼女は、支配する者だった。
だからこそ、彼女は完璧な仮面を纏わなければならない。
支配人が控え室のドアを開け、低い声で告げた。
「今夜の客はVIPだ、頼むぞ」
レイカは、鏡越しに微笑んだ。
「ええ、もちろん」
その声は、完璧だった。
甘く、誘うようでありながら、一線を引くような冷ややかさを含んでいた。
支配と服従、その境界線をわずかに滲ませる声色
——彼女は、長年の経験から、それを知り尽くしていた。
だが、その微笑みの奥で、彼女の心は別の場所にあった。
彼女は、もう一人の自分——事件屋としての自分を、常に隠し持っている。
この仮面は、どこまでが「本物の自分」なのだろうか。
そう思う瞬間が、時折、ほんの一瞬だけ訪れる。
だが、彼女はそれを振り払う。目の前の仕事を完璧にこなすこと。
それが、この店における「黒崎レイカ」というキャラクター。
今夜もまた、彼女は支配者としての役割を演じる——。
彼女は仮面を整え、席を立った。