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橋爪紗希 一
東京都、世田谷区某所。
このところ不安定だった天候は本日ついに大粒の雨を降らす。
春一番と大雨が一緒に来てしまい、これでは春の台風であった。
響くのはどこまでも雨音ばかりである。
人気のない早朝のことである。
青いダウンジャケットを羽織った、年齢不詳の男が駅前の、
側溝の淵を、傘の先端でほじくっていた。
傘をさしているわけではないので、男はフードを被り、ずぶ濡れになることを厭わず、
何かに取り憑かれたように一心不乱、
カリカリカリカリ…… カリカリカリカリカリ…… と、
側溝の周りの土の部分を掘っていた。
両手で力強く、カリカリカリカリ……
息をきらしながら。
まるで側溝と戦うかの如く、掘れるはずもないものを頑なに男は掘っていた。
別に側溝に大事なものを落としたと言うのでは決してないだろう。
どちらかと言うと、『そうしないと』まるで大変なことが起きると言うほどに、
つまるところ男は切羽詰まっていた。
息をきらしながらも、男の口元はわずかに動いていた。
しかし男の吐息と雨音にかき消され、何を呟いているのかはわからなかった。