灰谷涼介 四
写真は、当然だが父親が認知症を発症する前のものだと思われた。
おそらく教員をやっていた時代。そして、母親も生きていたあたりの写真ではないだろうか。
父の隣にいる男は、父よりも若く背も高く山高帽を被っているので、
運転中の初見では外国人に見えた。
「父と、誰ですか?」
「それが、わからないのです。『憂国の錨』の生徒ではないことは間違いないのですが」
「なぜこれを貴方が?」
「お父様に託されました。自分の死の後に、涼介さんに渡すように」
「なぜ?」
「わかりません……」
助手席の老人からは、いまいち現実味の感じない、悪い悪戯とも取れる言葉意外与えられなかった。
どれもこれも、涼介の思っている父の印象からかけ離れすぎている。
父親は家族には……特に息子には何も与えなかった。
与えるべき知識、温もりを、全て自分の生徒に与えていた。
少なくとも涼介はそう感じていた。
少しの沈黙の後で、老人は口を開いた。
「差し支えなければ……、そこの角で止まってください。そこで降りますので」
「……わかりました」
涼介は言われた通り車を停めた。偶然止まった目の前の店は街の喫茶店で、
『My fathers eye』という名前だった。
老人はそっと助手席の扉を開けて、物音一つ立てずに車を降りた。
本当に音がしなかったのである。このままでは、
老人は本当に体温のある人間で、現実の存在なのか怪しくなる。
涼介は思わず老人を呼び止めた。
「本橋さん……? よかったら連絡先を聞いてもいいですか?」
すると本橋さんは、突然口角を持ち上げて薄気味悪いアルカイックスマイルを浮かべた。
皺だらけの目尻。何が嬉しいのか涼介には理解ができなかった。
「私としたことが…… お父様から預かっている言伝をまだ伝えておりませんでした」
すると車の外から、『ぬ』と本橋さんは身を乗り出し、運転席に体を近づけた。
その瞬間に、本橋さんの表情がガラリと変わった。
黒めがちな大きな二つの目が、涼介を捉えている。
「いいですか?4つあります………。
『寒泉御岳山に近づくな』
『留守番電話を聞くな』
『今後、側溝を覗くな』
『それを決して探すな』
……以上です」
??? 要領を得ない言伝のオンパレードと、本橋さんの両目の圧に耐えきれず、一瞬涼介が目を逸らしたその隙に、
本橋さんは消えていた。
音も立てず、助手席の扉は閉まっていた。