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灰谷涼介 二

最近まで、施設のベットで現世にぶら下がっていた父親は、

その全てから解放されて死体安置所に横たわっていた。


 どちらかといえば色黒の肌は別人のように真っ青になっており、

まるで寝ているような死に顔だった。


 自分の父であると言われればば間違い無いのだが、人違いですと言われればやはり信じてしまいそうだった。


「灰谷哲夫さんでお間違いありませんか」


「はい。父です」


「お悔やみを申し上げます。……いくつかお聞きしたいことがございますので、しばらくあちらでお待ちください」


 職員が指し示したあちら、には、

よく見る長机とパイプ椅子が置いてあり、自分が奇妙な夢の中にでもいるのではないかと、呆然としているところに誰かが熱いお茶を用意してくれた。


 ここからだった。

夢の中の方が数段奇妙に思える数日間が始まったのは。




 視線の先に見えるどこに通じているのかわからない、灰色の扉が「がん」と開き、

十人ばかりの男がぞろぞろ入ってきた。


 両脇に様々な……書類だのファイルだの、持ち物はバラバラだったが全員全く同じ表情だった。いや、正確に言うと、表情というものが存在してなかった。

 自分の顔さえもが、もはや制服の一部である。強いていうならそんな表情だった。

 ここの職員の方なのだろうかと思っていたら、一同、涼介を取り囲んだのだ。

 長机の向かいに座ったのは、一際背の低い若い男性だった。

 男性は、机の埃を払うかのように、涼介がまだ一口もつけていないお茶を隅に払い、書類を広げた。

 そして机に積もった埃を指で払うような自然さで、涼介に話しかけた。



「灰谷涼介さんですね」


「……はい」


「灰谷哲夫はお父様でお間違いないですね」


「はい」


「この度はお悔やみを申し上げます」


 ここまでが、まるで用意された脚本か何かのようだった。

男の話し方には一切の癖がなかった。どちらかと言えば小声で、しかしよく通る声なので一字一句がはっきりと伝わってきた。


 続いて男は写真を取り出した。父親が死んだ現場の写真だと思われる。


「哲夫さんの心臓にこちらが根元まで刺さっておりまして。この刃物に見覚えはありますか?」


「ありません」


十人ばかりの人間の視線が、涼介のあらゆる部位を突き刺しているのを感じた。木屑が爪と肉の隙間に刺さるような、ものすごく不愉快な視線だ。

たまらず涼介はもう一度、


「全く、ありません」と口にした。


「午前三時ごろ、何をされていましたか?」


「……家で寝ていました」


「お住まいはどちらですか?」


「立川市の羽衣町です」


「あなたが就寝されていたことを証明できる方はいますか?」


「はい。妻が」


 不思議なのは、この辺りのくだりには男たちはあまり興味を持っていなさそうに感じた。もちろん涼介がそう感じただけに過ぎないが、

少し前の質問と比べるとまるで「そう言うと思ってましたけど確認のために聞いておきました」という心の声が伝わってきそうだったのだ。なぜかはわからない。


「最近哲夫さんの周りで何か変わったことなどありましたでしょうか?」


「変わったこと……は、無いと思います。恥ずかしながら施設の方に父の身の回りのことを丸投げしてしまっている状態だったので……」


 だったので。奇妙なことだこの言葉を口にした時、自分の父親が逝ったことを実感した。しかし、自分は親孝行の模範たるを忠実に行えてたか、父との直近の、後悔の一才の無いかを振り返る隙を、

目の前の刑事は与えなかった。


「哲夫さんと電話やメールでのやりとりもしてない?」


「してませんでした」


刑事は、手品師のように机に写真を一枚ずつ広げた。


「哲夫さんの部屋で見つかった品々です」

 

 最初に目についたのはアルバムだった。中身も涼介は何度か見たことがある。自分の生徒と行った修学旅行の写真。

 同僚の教師と個人的に出かけた旅行の写真。顧問を勤めていた剣道部の生徒が表彰した時の写真。

 自分以外には興味がない父親が、生徒のことを愛していたと、もしくは真冬の湖面の氷層の上で愛していたと思わせる品だ。

 見るたびに涼介は混乱する。なぜなら家族写真がないからだ。

 涼介は、家族で旅行をした記憶がない。

 母親との結婚式の写真も、自分が生まれた時の写真も、涼介は見たことがない。


 アルバムの他には、算数のドリル、国語のドリル。施設の職員さんの話では暇さえあればやっていたそうだ。

 認知症の症状が出始めても、毎晩の日課のように鉛筆で机に向き合っていたようだ。まるで小学生の宿題のように。

 それからかつて自分が剣道の大会で勝ち取った表彰状の数々。

 写真越しでもこれを目にすると、脳内で父が涼介に語りかけてくる。子供の頃何度も聞かされたストーリーだ。



「警察学校の奴は無名校の俺を見下していた。そいつを俺は……

 小手面で一本。どうだみたかって気分だった」



 そのほか、父の財布、くし、歯ブラシ、タオル数枚、下着やオムツ、

父親についての断片的な思い出が涼介の空間に飛び交っていた。

しかし明らかに異質な一枚が刑事の手から出て、突然涼介はまるで知らない世界の際まで追いやられた。


 その写真は、刑事が出した”最後の一枚のさらに一枚後”から出てきた。いよいよ手品だ。

 映っていたものは、涼介にとって全く身に覚えのない現実だった。

 それは名刺のようだ。

 のようだ、というのは、本当にそれが名刺として利用されていたのか判然としなかったもしくは、そういう印象を持ったからだ。



『七曜社 真壁辰巳』




 名刺にはそれだけ書いてあった。



「この名前に見覚えは?」



「ありません。この人が……」


 そこまで言って、涼介は自分が恐ろしいことを口にするのではないかと思って思わず言葉を飲み込んだ。




 この人が、父を殺したのですか?




 男たちの視線はいつの間にか、いやおそらく机にこの名前が現れてからか、

再び涼介を不穏な視線で刺していた。

 刑事は、自分の言いたかったことを察したようだった。




「いえ、それはまだ分かりません。というのは、

 施設の方の話ですと、亡くなるまでに哲夫さんを訪ねた履歴が残っているのは涼介さん、あなたしかいないのです」




「はあ……すると犯人は」


「捜査中です」



 ではこの名刺に書かれている名前は?会社名のようなものは?


 なぜ父親は殺されねばならなかったのか?


 施設に訪ねていない人間の名刺をどうして父が持っているのか?


 深夜とはいえ警備員までついている介護施設に忍び込んで殺人なんてどのような手口を用いたのか?


 爆発的に疑問が湧いてくるが、自分を取り囲む刑事たちの圧が口を開くことを許さなかった。

 これ以上は入ってくるな。そう言われてるとすら感じた。


 そして涼介は、そもそも自分の置かれている状況についてようやく言語化できたところだ。

 なぜ自分は、大勢に囲まれている?


「今日はお疲れ様でした」


 男は机の上にあるものを回収しだした。

 すると突然である、真後ろに立っていた男が、涼介の肩にどん、と手を乗せ、静かに言った。




「くれぐれも、今日見たすべての物について、他人に話さないでください」




「え?」




 気づけば「がん」という音をたて、男たちは灰色の扉の奥に消えていった。取り残された涼介の身の回りには、長机以外は塵一つ残っていなかった。

 まるで足音すら立てずに男たちは出ていったのではないかと思ったほどだ。

 おかげで、自分の父が死んだという事実すら、未だ薄い膜を幾重にも重ねた向こう側に、粗雑に置かれているような感覚だった。


 立川のアパートに帰る頃には、もう自分が父親の年齢になったのではないかと錯覚するくらい歳をとった感覚になった。

 時間は二十時を回っていた。


 いろいろなことに、感情が追いついていない。

 自分が、悲しみたいのか、安心したいのか、そのどちらでもない不安定な足場に取り残されたようで、

居心地の悪い疲労感の塊のようなものが涼介の肩にのしかかっていた。



「お帰りなさい」



家に着くと流石に妻が気遣ってくれたのか、玄関まで出迎えてくれた。


「ああ」


「どうだった? その、お義父さんのこと」


「ああ……」


「くれぐれも、今日みたすべてのものについて、他人に話さないでください」





妻の目に、先ほどの男が映った。




「どうしたの?」


「いや……犯人はまだ捕まってないって。」


「うんニュースで言ってた。でもまさかあんな施設で……」


 殺されるなんて、という言葉を妻は飲み込んだようだった。



「監視カメラとかに何か映ってなかったの?」



「何も教えてくれなかったよ。それよりうちは? 変わった事はなかったかい」



「え?うちは別に……お隣さんが引っ越して出て行かれたくらいかしら」


「そっか」



 するとガタン。と音がした。続いて足音。人の声までする。

全部隣の部屋からだ。



「え?」


妻が玄関を開けて、隣の部屋を見る。


「灯がついてる……」


「引っ越したっていうのは間違いだったんじゃない?」


「え、いや、でも確かにトラックが来て、荷物を運んでいったよ?やだまだ誰かいるのかな……」


「忘れ物をとりにきたとか」


「涼ちゃんは怖くないの? こんなことがあった後でも」


「くれぐれも、今日みたすべてのものについて、他人に話さないでください」





履いていた靴に、先ほどの男が写り涼介に話しかけた。




「大丈夫?」




「ああ……うん。とにかく今日は疲れた。寝るよ」


「晩御飯は?」


「明日食べる」


 涼介は、今日一日何も口にしてないことに気づいた。それでも今は、食欲がその概念ごと涼介から欠如しているようだった。

 まずは部屋着に着替えた。歯を磨いた。そして横になるその前に、なんとなく涼介は机の前の椅子に腰掛けた。

 疲れていたのは本当だが、睡眠欲すら湧かなかった。


 仕方がないから机に向かった。

 でもどう捻り出しても、まだ悲しみや喪失感といった感情からくる涙が出てこない。

 全くただ一人の父親を失った日の夜がこんな事でいいのだろうか。


 しばらくして涼介は部屋の窓を開けて外を見た。

 夜風のみ、言葉では言い表せない涼介の気持ちを撫でてくれているようだった。

 違和感を感じて、眼下の道路に目をやる。


 何もない。でもどこからか視線を感じるのだ。

 ……気にしすぎだろうか?アパートの前に停まっている黒い車に目がいく。



 よくは見えないが……車の中の人物と今目があってるような気がする。

 そして車を見つめるうちに、だんだんと気持ちの悪さの正体に気づき始めた。

 あの車……帰り道に何回か見た車じゃないだろうか?黒い車なんて珍しくもない。普通、他人の車の色など気にすることもない。

 だが、例えばいつの間にか毎日鏡で見ているはずの自分の頬にできた小さいホクロのように、気にし出したら数秒前より大きくなっていく感覚をその車に覚えた。

 涼介は窓とカーテンを閉めた。



 再び机に向かう。

 それにしても妙に肩が重い。

 自分で肩に触ると、不自然な痛みを覚えた。



 「くれぐれも、今日みたすべてのものについて、他人に話さないでください。」の男が叩いた方の肩だった。



 部屋を出て、洗濯機から先ほどまで身につけていた上着を取り出した。

 意識しなければ気づかなかっただろう。

 肩の部分に小指半分ほどの透明なテープが貼ってあった。

 何度か爪で引っ掻いて剥がすと、テープの内側にはやはり透明な個体が張り付いていた。



 …… ……何をしているのだろう一体自分は。考えすぎだ。こんなものはただのゴミだ。よくないことを考えるな。考えるな……


 涼介はしゃがみ込んで、洗濯機に寄りかかり、その三分後に泣いていた。


「涼ちゃん?」


「ああ……ああ。ああ……ごめん」


「ううん。大丈夫?」


「俺、多分疑われてる」


「警察に?そんなわけないじゃない」


「そんなわけないよ。でも、そうとしか思えないんだ」


「仮にそうだとしたら、今頃勾留されてると思うよ」


「…… ……もしかしたら、とっくに勾留されてるのかも……」



 少しだけ落ち着きを取り戻した涼介は、再び机に向かった。


 なぜそうしようとしたのかはわからない。でも、これだけが父親のために自分ができる唯一の事であると感じた。


 あの男も、「話すな」と言っただけで、忘れろ、とは言ってない。

 手帳にあの名刺の名前を、「マカベ タツミ」と書いた。


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