第一章「聖者の漆黒」第四部「回帰」第2話
最初は覚束無い足取りに思えた。
本祭壇の前に腰を降ろしたのは、御簾世と三十年以上ぶりに相対する麻紀世の姿。
御簾世と同じ年数を重ねた麻紀世の立ち振る舞いは、例え当主の座を義理の娘の憂紀世に受け渡したとて衰えてはいなかった。それでも巫女服の着崩れたような皺が目立つ。服を着替えるのにも時間が掛かるのか、事実として御簾世は祭壇の前でしばらく待たされていた。
麻紀世が病に伏せっているのは伝え聞いていた所。しかし御簾世はそれに情を動かされたとは思っていない。
総ては亥蘇世の存在。
数日前に夢に現れたことが始まりだった。
〝 呪いには、必ず代償が伴います 〟
それは御簾世にも分かっていたこと。神社で巫女としての修行をしてきた人間が知らぬはずがない。
それでも御簾世は麻紀世を恨んだ。
御陵院家を恨んだ。
御陵院の〝血〟を恨んだ。
そして、総ての元凶と思えた〝清国会〟を恨んだ。
〝 その想いは、やがて形を持ちます 〟
何度も繰り返される亥蘇世の言葉は、やがて目が覚めてからも続いた。
〝 終わらせられる者が、やっと見付かりまして御座います 〟
その意味は御簾世には分からないまま。
〝 手遅れになる前に、御早く 〟
数日、亥蘇世の〝幻〟に気持ちを掻き乱されながら御簾世は悩んだ。
自ら望んだ未来。それを〝呪い〟で具現化してきた。そこには何の迷いも無かったはず。その代償も見返りも覚悟してきた。そして、事実として自らも楢見崎家の血の継承で苦しんできた。
男子を呪い殺され、女子には傷一つ付けずに守り続けなければならない。
それでも気持ちのどこかに淀みがある。
それは松明の下で淡く光を放つ埋み火のように、御簾世の奥底に小さく燻っていた。
いつからか、それは御簾世の中で迷いへと変化していたのかもしれない。しかしすでに手遅れだとも感じていた。今更になって時を戻すことなど出来ようはずもない。
どこかで御簾世は諦めていたのかもしれない。そんな御簾世が、どういうわけか亥蘇世に動かされた。最初は〝今更〟という気持ちを抱いたのも当然だっただろう。今更現れて呪いを終わらせろという。簡単に受け入れられるものでは無かった。
しかし〝手遅れ〟という亥蘇世の言葉が心を突く。
──……手遅れ…………? どうにか出来るとでも…………
そこに僅かながらの希望を見出したい気持ち。
そこに踏み込む不安と恐怖。
──……私の望む未来は…………
呪いに想いの総てを求めた時点で、御簾世は地獄を覚悟してきた。それは宗教概念としての人間の作り上げた地獄ではない。
自らの残りの人生での地獄。
そこに〝幸せ〟などあろうはずがない。
そして、それを自ら求めたことへの贖罪等は一片も無かった。
それでも、心の奥底の、鍵を掛けたはずの引き出しの存在を思い出す。そして御簾世はその鍵を見失う。
その鍵を御簾世に手渡したのは、亥蘇世だった。
そして、御簾世は御陵院神社を訪れる。
麻紀世の元を訪れる。
あの世で相対するまでは会うことは無いであろうと思って生きてきた。しかしお互いに呪いを掛け続けた結果として、少なくとも御簾世の中で何かが変化してきていたことは認めざるを得ない。もちろん三十年以上会っていない麻紀世の気持ちなど分かりようもなかった。お互いに今更許し合える関係性でもないだろう。
長い年月の中で、ただ、恨み続けてきた。
その相手が、今、祭壇を背に、目の前にいる。
歳を重ね、病のせいか窶れようとも、その立ち振る舞いは御陵院家最後の〝血〟。
その麻紀世は目の前の板間に落としていた視線をゆっくりと上げた。御簾世と目を合わせれば心を操られるやも知れぬという気持ちは僅かにあった。それでも麻紀世は視線を上げていた。負けるつもりは無いという気持ちの現れとも違う、と麻紀世自身感じる。
麻紀世にとっての〝想い〟から出る行動だった。
自分は御簾世を恨んでいるのか。
未だに御簾世を憎んでいるのか。
麻紀世も亥蘇世の〝幻〟を見るようになってから、気持ちが揺れ動いていた。もはや自分がどんな未来に想いを馳せたのか、今となってはそれはまるで霧に包まれたかのように見えない。
──……私が願ってきたものは…………何だ…………
──…………望んだものは…………失ったものは…………
お互いに口を開くことのないまま、二人の間を時が流れていった。
やがて、麻紀世の目が、僅かに潤む。
そして、その口角が微かに上がった。
小さく開く。
「…………元気そうですね…………」
その声に、御簾世は体を大きく折り曲げ、板間に両の指を着き、深々と頭を下げていた。
自然と体が動き、そして口を開く。
「……御無沙汰しておりました…………麻紀世姉様…………」
僅かに震えるその声を、御簾世は隠そうとはしなかった。
時は残酷だと言われる。
その意味を、人はあまり考える理由へと至ることは無い。それでも、二人にとってはどうなのか、それは二人にとっても分からないこと。分かろうとする必要も無かった。
時は残酷などではない。
時は事実を重ねるだけ。
そして二人の間には、総てがあった。
過去ではない。
今があった。
お互いに次の言葉が見付からない。
やがて聞こえる声は、柔らかく、優しい。
〝 同じですよ 〟
それは、間違いなく亥蘇世のもの。
二人とも、ただ耳を傾ける。
〝 我々には同じ血が流れております 〟
〝 それは母上から受け継がれたもの 〟
「その血を別つようにして…………私たちはお互いの〝想い〟をぶつけ合って参りました」
亥蘇世の言葉に繋げたのは、御簾世だった。
御簾世は頭を上げ、更に言葉を紡ぐ。
「今…………その〝血〟は……戻されるべきと、感じております…………」
麻紀世の唇が僅かに震えていた。やがて大きく開いた目は、御簾世の赤い目を見つめる。その柔らかい目元は、麻紀世の初めて見るものだった。
大きく広がる目尻の皺。その皺ですら今は愛おしい。
しかし、同時にそのことの難しさに目を閉じることは出来ない。
「しかし…………」
やっと声を絞り出した麻紀世が続けた。
「無様なもの…………あの時はあれほど清国会に憧れを持ち、清国会を欲し……それなのに後少しの所で掴み損なった…………今では金櫻家の所在すら分からぬ始末…………清国会も今や存在そのものが朽ちています…………」
様々な内紛が起こり得ることは以前から取り沙汰されていた。組織は大きくなればなるほどその管理が難しい。しかも大きくする時には時間は掛かるが、縮小する時は簡単に崩れていく。清国会もその流れには逆らえなかった。
御簾世は金櫻鈴京の行方が分からなくなっていることまでは知らなかったが、京の都で清国会の力が弱まっていることは伝え聞いていた。
もはや呪いを掛け合った根源すらも揺らいでいる現実。
その中で、御簾世は亥蘇世に気持ちを揺さぶられた。
何が正しいのか、何が正しかったのか、後悔だけが自分を苦しめていくのを感じる度に、頭に浮かぶのは麻紀世のことばかり。
その麻紀世が言葉を繋いだ。
「終わらせられるのですか……〝今〟を終わらせねば……また同じことを繰り返す…………」
「亥蘇世姉様もおります」
応えた御簾世の声は凛として清々しい。
──……今日ここに来たことは……絶対に、間違いではない…………
麻紀世は声を震わせて返していた。
「亥蘇世に……私は恨まれてはおるまいか…………」
「亥蘇世姉様は〝幻〟では御座いませんよ……姉様…………」
麻紀世は常々、自らが作り出した亥蘇世の幻影に囚われていると感じていた。時を重ねると同時に積み重なっていく罪の意識なのか、それもまた自分に課せられた〝代償〟だとも思ってきた生き方。
「今…………私たちの間におります」
その御簾世の声に、麻紀世は背中に熱を感じた。
──……暖かい…………
それは決して〝負の念〟ではなかった。
言葉に出来るものでもない。
ただ、亥蘇世の存在を感じた。
そして言葉を紡ぐ。
「我等の〝罪〟を終わらせられるのは…………この御陵院神社しかあるまいな…………」
「古くより……祓い事に長けた我等の血なら…………」
その御簾世の返しに、亥蘇世の声が重なった。
〝 すでに、呪いは形を持ち始めております 〟
「〝形〟? それは────」
反射的に口を開いていた麻紀世に、尚も亥蘇世の声。
〝 もはや御二人の想いだけでは御座いません 〟
〝 御二人の手を離れようとしております 〟
「御簾世」
言葉だけではない。
そこには皺に包まれた鋭い目の麻紀世がいた。
「準祭壇へ」
☆
音を立てて燃え上がる松明の灯りが、準祭壇のある部屋の中を照らし出していた。
他に明かりと呼べるものは無い。本祭壇とは違い、閉鎖的な空間。比べても広さもそれほど無かった。ただ、煙を吸い上げる天井だけは高い。排気用の空間が天井裏を代えし、外へと繋がっていた。
松明の炎が作り出すものは光源だけに非ず、まるで目に見えるかのような熱。空気を歪ませる畝りが、幾重にもなって麻紀世と御簾世の体に絡み付いていた。
二人は並んで祭壇の前。
顔を上げたまま目を閉じ、両手の指を胸の前で交わらせる。
麻紀世の呪禁に、御簾世が応え続けていく。
言葉に〝想い〟を乗せ、再び、二人の中で気持ちがぶつかり合う。
それを亥蘇世が支え続けた。
どれだけの時が経ったのか、三人の誰も気になど留めないまま、そこにあるのは〝望むべき想い〟だけ。
繰り返し繰り返し、松明が炎を上げる。
それは、まるで意思を感じさせるものだった。
しかし二人は臆さない。
気持ちが引くことなどあるはずがない。
そこには間違いなく、御陵院神社の未来があった。
やがて、炎が松明を燃やし尽くす。
二人の呪禁が止み、しばらくぶりの静けさが辺りに漂っていく。
音の静まりと共に、僅かばかりの煙が辺りに溶け始めていた。
──…………抑えたか…………
麻紀世の頭に浮かんだその言葉を、亥蘇世の声が否定する。
〝 否 〟
再び気持ちが張り詰める。
〝 押さえ込んだだけのこと 〟
〝 終わってはおりません 〟
〝 ここは御社……この祭壇がある限りは抑えておけます 〟
〝 残る懸念は………… 〟
「…………楢見崎……」
反射的に御簾世が呟いていた。
ゆっくりと、何時間かぶりに重い瞼を開く。
そこに映るのは、暗闇の中に淡く光る埋み火の頼り無げな灯火だけ。
〝 楢見崎家の祭壇へ 〟
「祭壇?」
その麻紀世の言葉に、御簾世はすぐに応えていた。
「小さな物ですが……私が作りました…………総てはあの祭壇から始まりしこと…………」
事実だった。それは御簾世が楢見崎家に嫁いですぐに作った物。もちろん神社ほどの大きさを誇る物などではない。座敷の一つに隠されるようにして作られた物だった。
そして、そこで御簾世は〝呪い〟を紡ぎ続けた。
「……どうすれば…………」
〝 行きますよ……御簾世………… 〟
〝 待っている人がいます 〟
「……待っている人とは……それは────」
その御簾世の言葉を遮ったのは麻紀世だった。
「────私も行く」
しかし、それに返すように今度は御簾世が遮る。
「なりません……麻紀世姉様の御体で半日の道のりは御命を縮めるようなもの。籠でも同じことでしょう」
「しかし────」
「麻紀世姉様は…………」
御簾世は大きく唾を飲み込むと、続けた。
「ここで、御陵院の為に祈り続けて下さい…………後は私と亥蘇世姉様で…………」
すると、麻紀世が僅かに掠れた声を張り上げる。
「憂紀世」
すぐに板戸が開き、そこには巫女姿の憂紀世が膝を降ろし、麻紀世の言葉を待つ。
「急いで籠を────従者も三人付けなさい……すぐに楢見崎家へ────」
☆
籠でもやはり時間は掛かった。
楢見崎家は小さな山を一つ超えた先。
御簾世の乗った籠の後ろには御陵院神社の従者の乗った籠が三つ並ぶ。
懐かしい感覚だった。
あの時は、御陵院神社から逃げるように同じ道を歩いていた。
しかもあの時と同じ深い夜。
今回はどうなのだろう。ふとそんな想いが頭の片隅を過ぎる。
〝 私も一緒ですから 〟
亥蘇世の声に、細やかながらも御簾世に笑みが浮かんだ。少なくとも肩は軽い。あの時は不安だけに囚われていた。未来など見ようともしなかった。
しかし今は違う。何かが解き放たれたかのような不思議な感覚。
そして、一人ではない。
〝 御簾世の側だけではなく、麻紀世姉様の側にも私はおりますよ 〟
〝 御心配無く 〟
「流石です姉様」
小さく御簾世は応えていた。
〝 御簾世には敵いませんけどね 〟
その亥蘇世の気持ちまでは御簾世にはもちろん見えない。亥蘇世は総てを見透かしているのだろうとは思っていた。
あの時、亥蘇世がどんな気持ちで最期を迎えたのか、もはや御簾世には想像するしかない。しかし何故か聞こうとは思わなかった。それは聞くことが怖かったからとも違う。少なくとも違う感覚を御簾世は感じていた。
過去は変えられないもの。
事実とは曲げられないもの。行ったこと、終わったこと、いずれも受け入れるだけ。
──……だから私は…………未来を選んだ…………未来を望んだ…………
やがて楢見崎家に到着すると、御簾世は籠を飛び降りる。
玄関から上がるなり、驚く使用人に向かって叫んでいた。
「火を! 祭壇の間へ!」
迷いは無い。
真っ直ぐと祭壇へ向かった。
しかし、その祭壇に先客がいるなど、それはまるで想定していないこと。
暗い座敷の祭壇の前。
小さな後ろ姿。
小さな白い装飾が施された、黒い服。
首筋の見える長さで切り揃えられた黒髪。
その人物は祭壇に向かって座り、その服の裾が板間に丸く広がる。
小さな背中だった。
そして、御簾世は動けない。
動けなかった。
今まで誰からも感じたことのない〝強さ〟────。
その小さな存在は、あまりにも大きい。
そこにあるものは〝畏れ〟そのもの。
──……この方は…………
御簾世は廊下から板間に一歩だけ進み入り、膝を着くと両の指を着いて頭を下げていた。
深々と落とした口を開く。
「御陵院家の御血筋の方と……御見受け致します」
そこに、返るのは軽い声。
しかし、伝わるものは重い。
「……嫌だね……血筋ってさ…………どうにも私を離してくれないんだ…………」
御簾世が何も応えられないまま、その声は続いた。
「私をここに呼んだのは……あなただよね…………御簾世さん…………」
──……そうか…………
「私は御陵院西沙…………御陵院の歴史の中で、一番の能力者…………御簾世さんの、三姉妹の能力は総て私が継承してる。そしてあなたは…………この時を待っていたはず…………」
──…………私が………………
「御簾世さんと同じ沙智子さんの目の色…………この屋敷の存在を私が知ること…………そして何より、私を上回る能力者…………その総てが交わる時…………やっと終わらせられると…………」
その言葉に、御簾世の目に涙が浮かんでいた。
──……ありがとう御座います……亥蘇世姉様…………
☆
「一体どこに行くんですか⁉︎」
杏奈の車が明らかな山道に入ったところで、さすがに助手席の美由紀も不安を隠せずに声を上げていた。
しかも辺りはすでに夜の闇。厚く黒い雲で月灯りも感じられない。不安を押し上げるには充分な時間。
それは確かに西沙からの電話での指示でもあったが、自分如きが西沙の力になれるなどとは微塵も思っていないからこその不安。西沙からは〝杏奈が迎えに行くから風鈴の館まで来てほしい〟とだけ。
確かに風鈴の館の話は聞いていた。まだ解決していない依頼であることも事務員としてはもちろん知っている。しかしそれに自分が関わる必要性だけはどう考えても理解出来ないまま。
その美由紀を風鈴の館まで連れてくるように指示された杏奈の中も疑問だらけ。どうして美由紀が現場に行く必要があるのかの説明はなかった。
よって、杏奈が返せる言葉は一つだけ。
「風鈴の館って覚えてます? 前に私が依頼した────」
「もちろんです。依頼料がまだ決まってませんのでファイルの一番上のままです。早く西沙と決めてくださいね。西沙ってお金に関してはホントに────」
「あ、オッケー分かった分かった」
──……安い仕事じゃなさそうな展開だなあ…………
「で? その風鈴の館がなんですか?」
美由紀が畳み掛ける。極度の人見知りではあるが、杏奈はなぜか西沙が認めた相手。いつの間にか美由紀も普通に話せる間柄になっていた。
「えっとね、何やらその風鈴の館に美由紀ちゃんを連れてきて欲しいって、西沙さんから頼まれて…………」
「それだけですか?」
「うん、それだけ」
「私も電話でただ来て欲しいって言われただけで…………」
「いつも濁すんですよねえ、西沙さんって」
「ホントですよ。ハッキリしないし…………」
何も解決しない会話だけを繰り返したまま、車はさらに山の中へと入っていく。
その日の午前中、西沙が楢見崎家に自分の車で向かったことまでは美由紀も把握していた。午後になっても珍しく連絡がないことで不安は確かにあった。時間と共に退社をしようとしていたタイミングで西沙からの電話を受けていた。
すでに夜。
──……今夜のご飯どうするかも聞いてない…………
自分の能力に自覚のない美由紀にとっては頭に浮かぶのはそんなことばかり。むしろそんなことを思わなくては冷静さを保てなかったとも言える。
西沙が仕事の現場に美由紀を関わらせるのは初めてのこと。当然、美由紀は現場での西沙の姿を見たことはない。〝西沙の世界〟に触れたことがなかったし、同時に自分では関わることが出来ないものだと思っていた。今回の西沙の行動の真意など想像すら出来るはずがない。
「でも見付けられるのかなあ」
ふと杏奈が口にしたそんな言葉が、なぜか美由紀の気持ちを突く。
「? どうしてですか? 前回行ってるんですよね」
「そうなんだけど……普通に探しても見付からないんですよねえ。だからオカルト的に盛り上がってるところもあるとは思うんですけど…………」
──…………あれ……?
美由紀の頭に浮かぶ光景。
林の中の開けた場所。
大きな平家の日本家屋。
その中を埋め尽くすような無数の風鈴。
その音までが聞こえた。
それが、頭の中を埋め尽くす。
無意識だった。
美由紀は両手で耳を塞いでいた。しかし頭の中に響き渡る音を遮れるはずがない。
全身を何かが走り抜ける。
「どうしました?」
美由紀の変化に気が付いた杏奈が声をかけるが、その声は美由紀の耳には届かない。
無意識に瞳孔が揺れる。
──…………気持ち……悪い…………
全身を何かが駆け巡った。
体の中を誰かに掻き混ぜられる感覚。
前後も上下も分からない。
不安を隠せない杏奈が怯えた目をした頃、車は目的地へ到着した。
遊歩道の入り口。
そこにはすでに、ヘッドライトを点けたままの西沙の小さな車。
側には黒いゴスロリの西沙と、和服の女性。その二人を杏奈の車のヘッドライトが照らし出し、やがて光源を二人からズラしたところでブレーキを踏み込んだ。
杏奈はハンドルを握ったまま、振り返った西沙に不安に包まれた視線を向ける。すると西沙も気が付いたのか予想していたのか、近付いて助手席のドアを開けた。
エアコンで冷やされた車内の空気が漏れる。
そこには両耳を手で塞いで体を震わせる美由紀の姿。体を大きく折り曲げて蹲ったまま。誰が見てもまともな状況でないことはすぐに分かるだろう。
西沙はその背中に右手を当てる。
熱かった。
──…………ごめん…………
西沙は美由紀の背中越しに杏奈に声を掛けていた。
「美由紀は大丈夫。この子は強いよ」
西沙の目は真剣だった。杏奈の好きな、信じられる目。それでも今まで見たことのない美由紀の姿に不安を完全には拭えなかった。もはや西沙を信じるしかない。
杏奈は美由紀の本当の姿を知らない。西沙も何も話してはいなかった。事実として西沙も今までその必要性を感じなかったし、出来るだけ誰にも話すまいと考えてきた。決して杏奈を信用していなかったわけではない。美由紀が〝西沙の世界〟に関わる余地を作り出したくなかっただけ。
西沙が美由紀を側に置いていたのは〝守るため〟。決して自分の世界に引きこみたいわけではない。しかし今回、美由紀を求めたのは西沙ではなかった。
エンジンを止めて車を降りた杏奈の表情は未だに不安なまま。それでも西沙の近くにいる和服の女性が気になる。
すかさず西沙が口を開いた。
「杏奈は初めてだよね。楢見崎沙智子さん。一緒に風鈴の館に行くから」
沙智子が頭を下げるが、暗い中でもやはりその立ち振る舞いには美しさが伴う。日常的にこんな和装の女性と関わることはない。杏奈にも少しながら緊張が生まれていた。
「あ、どうも……水月です」
こんな言葉しか返せない自分を少し恥ずかしくも感じたが、現場の緊張感はそれを凌いだ。それは西沙と沙智子の表情から来るものだけではないだろう。
その緊張感を西沙が繋ぐ。
「ジャーナリストだけど、信じられるパートナーだから安心して下さい」
西沙は沙智子に柔らかい笑みを向けた。
そして再び杏奈に厳しい表情を振る。
「入り口はここじゃないから……少し歩くよ」
「違うんですか?」
反射的に返していた杏奈に、西沙はすぐに応えた。
「沙智子さんのお母さんに聞いたの。目印は無いけど……後は私が感じた情報だけで大丈夫」
西沙はそれだけ言うと車から美由紀を降ろし、頭から首、肩から腕、背中を摩り始める。
やがてまだ少し息は荒いが、まるでそれに応えるように美由紀の体の震えが落ち着き始めた。
「だいぶ楽になったね」
西沙がそう言って美由紀の顔を覗き込む。
しかし返すように目を合わせた美由紀の目は未だ怯えたまま。
無理もなかった。美由紀にとっては初めての感覚。
何かが自分の〝中〟に入り込む。
その感覚を、西沙は美由紀に味わわせたくなかった。そのために関わらせないようにしてきた。
西沙は悩み続ける。
──……どうすればいい…………これから…………
──…………守り切れるの…………?
それでも今の現実へと振り切った。
──……もう引き返せない…………
西沙は車に戻るとヘッドライトを消してエンジンを切る。小さな懐中電灯を取り出すと小走りで美由紀の元へ。
「こっち」
西沙はそれだけで美由紀の手を引いて歩き始めた。
杏奈も車から懐中電灯を取り出してスイッチを入れる。
その杏奈と沙智子が西沙たちの後へ続く。
西沙は遊歩道の入り口から道路沿いの森の縁を歩き始めた。通常なら森の入り口は遊歩道の入り口だけ。他には車を停められるようなスペースすらない。歩いてこんな山の中まで来る人もいないだろう。森の中に踏み込むなら遊歩道の入り口しかないはずだった。
そしてやはり、杏奈の中には不安と疑問だけではなく、どこか恐怖心も生まれていた。西沙の表情からはずっと緊張感しか感じられなかったからだ。しかも美由紀を連れてくるように頼まれただけ。しかもそこには西沙から聞いていた楢見崎家の人間。
〝風鈴の館〟に何があるのか。おそらく先が見えているのは西沙だけだろう。
弱々しい二つの懐中電灯の灯りだけが足元を照らす中、西沙と美由紀の背中を追いかけながら、口を開いたのは杏奈だった。
「西沙さんから話は伺ってましたけど…………実は私も少し調べさせてもらってました。西沙さんからの依頼で」
「……そうですか……」
沙智子は小さく言葉を返していた。
しかしその沙智子の声に顔を振った杏奈は驚く。
そこにはまっすぐと前を見据える沙智子の横顔。しかもその目は力強い。
──……何かあったんだ…………
杏奈は確信した。
〝風鈴の館〟と〝楢見崎家〟、そしてそこには〝御陵院神社〟も絡んでいる。つまりは、今回の一件は西沙自身にとっても他人事ではなかった。
──……でも…………美由紀さんは…………?
──…………何者なの…………?
そこに前を歩く西沙の声。
「ここ」
「え?」
驚いた杏奈が無意識に返していた。
無理もないだろう。他の所と何も変わらない。無数に並ぶ太い木と地面を隠す草の群れ。
しかも西沙は相変わらずのゴスロリ衣装。沙智子も和装。西沙から服装の指定のなかった美由紀もロングスカートに低目のヒール。三人とも、とても深い森の中に足を踏み入れられる服装ではない。
しかも夜。懐中電灯の小さな灯りは足元の総てを照らし出すことすら出来ていない。
「無理ですよ西沙さん、そんな所────」
その杏奈の声を無視し、美由紀の手を引いた西沙が足を踏み入れた。
二人とも、普通に入っていく。
「西沙さん、ちょっと────」
「大丈夫です」
杏奈の言葉を遮ったのは沙智子だった。
その声が続く。
「母の言っていた通りでした……私も来るのは初めてですが…………」
沙智子も二人の後に続く。
──……どういうこと…………?
そして、沙智子の後に続いた杏奈はただ驚いた。
それまでは地面すら見えなかったはず。しかし今、杏奈のアウトドア用のハイカットブーツは平らな石の上。
──…………道がある…………
しかもそれは目の前を長く続く石畳。明らかに人工的な道。間違いなくさっきまでは見えてなどいなかった。それなのに今は目の前にある。
半ば呆然としながらも、杏奈は三人の後ろに続くしかなかった。
そこに聞こえてきた声は西沙のもの。
「元々住んでた人がいるってことは、どんなに古くても道はある。そう思ってた。でも今は普通の人には見付けられない道になってる…………〝御陵院の血〟を持ってないとね」
「……御陵院の血…………」
「楢見崎家の人たちにも流れてる…………」
──…………親戚…………
杏奈の頭にその言葉が浮かび、西沙が繋げた。
「終わったら……全部説明してあげる。でもごめん杏奈……杏奈の仕事にはなりそうないけど…………」
その言葉に、やっと杏奈の顔に笑みが浮かぶ。
そして口を開いた。
「ま、いつも安くしてもらってるんで」
すると、西沙の口にも笑みが浮かんだ。
「今回は格安になるかも」
そう言った西沙の表情が、なんとなく杏奈には想像出来た。
知り合って一年近く。
杏奈はオカルト的な事象を何度も西沙に相談してきた。もちろんそれは仕事のため。ただの興味本位からだけではない。言わば西沙に助けられてきた。
今まで科学では割り切れないような事象をこの目で直接見たのは、せいぜいが西沙が誰かの内面を読み取るような場面だけ。そしてそれに恐怖を感じたことはない。
しかし、今は、怖かった。
普通に生きてきた人間が言葉で説明の出来るものではない。
昔と違い、近代になって科学的に説明されたオカルトの事象も確かに多い。それは杏奈も勉強して知っている。西沙もそういうことには明るい。ただの能力者ではない。だからこそ杏奈も信頼してきた。
それでも、未だ世の中には理解の出来ないことがある。
それを今、杏奈は自分の目で見せられた。
──……これが…………西沙さんの世界………………
ただ不思議なだけではない。
そこに恐怖が伴うことを実感した。
──…………覚悟がいる………………
そして、聞こえる音。
小さく風に乗っていた。
木々の騒めきに紛れる音。
しだいに増える、音の粒が空気に流れた。
それがゆっくりと周囲に広がっていく。
──……あの時と同じ…………風鈴の音だ…………
すでに後戻りなど出来ないことを、杏奈は感じていた。
〜 あずさみこの慟哭 第一章「聖者の漆黒」
第四部「回帰」第3話(第一章最終話)へつづく 〜