第一章「聖者の漆黒」第二部「回顧」第3話
静かな夜。
虫の声も、木々の騒めきも聞こえない。
自らの足音も聞こえなかった。
最も、自室の襖に手を掛けるまで、そこまでの記憶が麻紀世には無かった。
あの後、御簾世の部屋からここまで歩いて来た記憶が無い。
恐ろしいものを見た。
そうとしか表現出来ない。
今まで妹だと思っていた者は、人では無かった。少なくとも麻紀世にはそうとしか思えなかった。
──…………あれは人の〝目〟では無い…………
──……人の心を操る力の正体は……あれか…………
──……ともすればやはり母上も…………このままでは御陵院は…………
手を掛けた襖の先、部屋の中に気配を感じる。
──……よもや別の〝物の怪〟か…………
しかし、やがて麻紀世の視界に現れたのは亥蘇世の後ろ姿。
以前と同じ、白い浴衣に身を包み、やはり以前と同じように襖に背を向けて布団の上に腰を降ろしている。
麻紀世は胸を撫で下ろし、大きく息を吐いてから後ろ手で襖を閉めた。
「……亥蘇世……ここに来てはならぬと申したはず」
亥蘇世は何も応えない。僅かに頭を下げたその背中からは何も感じられなかった。
先程の御簾世の部屋での恐怖感がやっと薄らいできたせいか、亥蘇世の存在に気持ちが安らいだのは事実。明日は代替わりの催事。亥蘇世にも色々と思う所はあるのだろう。
どこまで付け離していいものか、その距離感に麻紀世が思案していると、やっと亥蘇世の声がする。
「……御簾世の…………所ですか…………」
何かを見透かされているようで、そんな感覚に先程の恐怖感が再び僅かに再燃する。
「姉様も……操られておりますか…………」
──……まさか…………私はまだ…………
「私は……姉様のもの…………共に清国会へ…………」
☆
やはり、その夜はおかしな夜だった。
亥蘇世が御簾世の部屋の襖を開けた時、まだ御簾世は布団も敷かず、畳の上に正座をしたまま。
流れた空気が蝋燭の炎を大きく揺らした。
しかしその淡い灯火だけの中で、御簾世の表情は伺えない。
声だけ。
「声もかけずに襖を開けるとは、亥蘇世姉様ともあろう御方が…………」
「黙れ……気が付いておったくせに」
亥蘇世のそんな低い声を、御簾世は初めて聞いた気がした。
その声が続く。
「母上を惑わしたな…………姉様も惑わした…………これ以上は御主の好きなようになど────」
「では…………」
相対する柔らかい口調のままの御簾世が繋げた。
「……如何なさるおつもりですか?」
顔を上げた御簾世の目が、蝋燭の炎に揺れる。
その赤い輝きに、亥蘇世は顔を歪めた。
そして言葉を溢れさせる。
「御陵院を継ぐのは麻紀世姉様、唯御一人────! 我らは真の神を見ているだけぞ!」
「清国会ですか…………それが御陵院の先の未来を決めると────何故に分からぬのですか⁉︎」
声を荒げた御簾世の耳に、薄暗闇の中で、畳に何かが落ちる音。
硬い物が落ちる音。
そして、亥蘇世の手の内に何かが光る。
それは蝋燭の灯りを照らしながら、細長い。
それを両手で掴んだ亥蘇世が畳を蹴る直前、その動きは御簾世によって阻まれる。
御簾世は右腕を真っ直ぐに伸ばし、指を広げ、その掌を亥蘇世へ。
亥蘇世は体を動かせなかった。
眉間に皺を寄せて顔を歪ませるだけの亥蘇世に、御簾世の声が飛ぶ。
「先程……麻紀世姉様がいらっしゃいました…………御本人です。亥蘇世姉様のように〝幻〟ではありません。失礼極まりない…………私に…………勝てるおつもりか?」
そして、亥蘇世の姿が消える。
──……よもや私を騙せると思ったか…………
──………………違う………………
☆
麻紀世は未だ亥蘇世の背中を見続けていた。
以前のように亥蘇世の正面に回っては、おそらく自分を抑えることは出来ないだろうと感じていたから。
麻紀世も亥蘇世が欲しかった。
その亥蘇世の声がする。
「……明日は催事です…………御準備は宜しいですか?」
──…………準備?
〝 ……麻紀世姉様…… 〟
──……? ……御簾世……?
〝 亥蘇世姉様の幻惑です……こちらにも来ました 〟
──……馬鹿なことを…………亥蘇世が私を惑わすとでも…………
しかし、その背中は、今はどこにも無い。
麻紀世の頭の中に、御簾世の声が続く。
〝 気付かれたか……すでに遅いか…… 〟
そして、廊下にけたたましい足音。
襖の向こうから聞こえるのは御簾世の声。
「麻紀世姉様! 母上の所です!」
しかし、遅かった。
広い蓮世の居室。
その中央。
布団の上。
そこから赤黒く広がる血溜まり。
その中に沈むようにして横たわる蓮世の目に、すでに光は無かった。
その横で片手に短刀を握ったまま倒れているのは、亥蘇世だった。
首を大きく切り裂いた直後なのか、まだそこからは黒い液体が流れ続けたまま。
障子からの僅かな月灯り。
それが総てを照らし出す。
「すでに……命は見えません……」
御簾世は呟くように口にしていた。その声が僅かに震える。
もちろん麻紀世にも分かっていた。
──……どうする…………御陵院は終わるのか…………
麻紀世の口から出るのは、自分の意思とは、違うもの。
「……御簾世…………逃げなさい……御陵院は終わりです……」
「姉様…………」
「貴女を嫁がせようと思っていた御武家なら受け入れてくれるはず…………」
「しかし姉様……このままでは御陵院は────」
「私のせいです……私が亥蘇世を〝惑わした〟…………行きなさい……貴女には逃げられる所がある…………御陵院は……私が終わらせます…………」
──…………明日は代替わりの催事…………
「それが私の〝想い描く未来〟です…………行きなさい! 〝楢見崎家〟へ!」
──……明日の催事…………
──……私は……御陵院神社を継承する…………
──…………それが……亥蘇世が見た未来…………
☆
御陵院神社。
本殿。
外から見える一番大きな本祭壇のある板間は、本殿の中でも一番の広さを誇る所だ。
まさに神社の中心と言ってもいい。
基本的な神事はこの本祭壇で行われる。その裏に密かに設置されている準祭壇は滅多に使用されることはない。主に〝密儀〟に使用されてきた所だ。それでも、だからこそなのか、完全に松明の火を絶やすことの許されない祭壇でもある。
現在の大きな本殿に建て替えをした時、当時の当主────御陵院麻紀世によって設計され、その仕来たりが作られた。その火は、ひっそりと本祭壇の裏で御陵院神社を護り続けているとされてきた。
それは、現在でも継承され続けている。
一度神社を出た西沙は、それ以来準祭壇のある部屋には入っていない。
その日も、西沙が呼ばれたのは本祭壇前。
もちろん、呼んだ相手は母の咲。しかしその理由までは西沙も聞いていない。西沙といえど、簡単に心を読み取れるような相手ではなかった。
本殿の正面及び横の板戸を開け放つと、その開放感は大きな神社ならではだ。風が通るというより、外と何も変わらない。巨大な東屋のようなものだと西沙は思ってきた。しかも周囲には林が広がり、空気は明らかに街中の蒸し暑さとは違う。
「さすがに今年は暑いですね」
そう言いながら咲が板間に足袋を擦らせ、祭壇前の座布団に腰を降ろした。自然と西沙に背中を向ける形になる。
「だったらエアコンでも付けたらいいのに」
そう言う西沙に咲が即答した。
「情緒がありません」
「まあ……ねえ……」
広すぎだしね、と言いかけて西沙は言葉を止める。母とはいえ、少し感覚がズレた人であることはよく知っていた。普通の会話にならないことは目に見える。
西沙が楢見崎家に行ってから数日。現在の所、特別動きはない。西沙は杏奈からの連絡を待っていた。
そんな状態での咲からの呼び出しは西沙に不安を抱かせるには充分なもの。少し感性のズレた浮世離れした咲とはいえ、その能力はやはり鋭い。西沙でも身構えることが何度もあった。
──……何かを勘付かれたとしても……楢見崎家に何かあるっていうの……?
「最近……〝風鈴の館〟に行きましたね?」
──…………そっち?
予想外な咲の言葉に、西沙は言葉が出ない。
咲が続けた。
「……あそこは…………良くありません」
「良くないって……なんで知ってるの? ゴシップなんて興味ないでしょ? テレビも見ないくせに」
「あなたが危険だから言っているのです」
咲は滅多に感情を表には出さない。
常に冷静な印象があった。だからこそ、西沙にとっては時に〝恐れ〟の対象であり、同時に〝畏れ〟の対象ともなる。
──……どうして知ってるのか…………
「説明はあるの? 説明も無しにただ危険って言われてもさ…………私も仕事だからね」
西沙も簡単に引き下がる気はない。
謎が膨れ上がる。杏奈は確かに西沙だけでなく咲との繋がりも持っていた。基本的に現在は西沙との絡みしかないが、もちろん何かあれば咲が直接杏奈と連絡を取り合うことは出来る。しかし最近の西沙の動きを杏奈が簡単に漏らすとも思えない。そんなことがあれば、むしろ西沙が察知するだろう。
分かることは、咲は〝風鈴の館〟を知っていて、かつ、その詳細についても〝何か〟を知っている。
だからこそ西沙に〝関わるな〟と釘を刺している。
関わってはいけない理由を知っている。
──……御陵院が関係してる?
──…………じゃあ楢見崎家って…………
西沙も御陵院神社の歴史の総てを知っているわけではない。むしろ知らないことのほうが多いだろう。その血筋を継承し、そこに暮らしたことがあっても、御陵院神社は決して多くを見せようとはしてこなかった。まるで何かに阻まれているかのようだと、西沙自身も感じたことがあったほど。
文献は確かに多く残っている。しかしそれに目を通したからといって歴史の一部を掻い摘むことが出来るだけ。感じられるわけではない。
二人の姉がそれをどう感じているのか聞いたことはない。西沙と違って神社を継ぐ立場。外に出た西沙だからそう思うのか、もしくは御陵院神社そのものに疑念を持つ西沙だからそう考えるのか。
──……やっぱり……あそこにはもう一度行くことになる…………
「説明ですか……」
咲はそう言いながら、それでも依然西沙には背を向けたまま続ける。
「西沙……あなたは、あそこで何を感じました?」
「質問に質問で返して誤魔化さないでよ。恋愛で嫌われるタイプの女だよ」
「私は独身ではありませんよ」
「誤魔化さないでって言ってるでしょ? 何かあそこの廃墟が御陵院と関係あるの? だとしたら、むしろ何もしないほうが私に疑念を持たれることもなかったのに…………そんな話をして、いかにも気が付いてくれと言わんばかり…………気になるなあ」
「このまま気付かずに関わり続ければ……危険だと言っているのです…………手を引きなさい。関わってはいけません」
「つまり……説明は無しか…………」
少しだけ強めの風が、祭壇の前を流れていった。
その風を感じると、なぜか西沙の頭には楢見崎家で聞いた風鈴の音が蘇る。
涼やかな時を感じるはずなのに、西沙の気持ちは曇っていくばかり。
──……めんどくさいなあ…………
「西沙」
咲の少し強目な声が、離れ掛けた西沙の気持ちを押さえ付けた。
「事は簡単ではありません。私にも……言えることと言えないことがある…………あの屋敷は、確かにあなたが言うように御陵院家と関係があります。言えるのはここまで…………だからこそ、あなたに関わってもらうわけにはいかないのです」
「分かんないなあ。そこまで言っておいて私に手を引けと?」
「……西沙…………風がなければ…………埃も舞い上がりはしませんよ…………」
──……時間のムダか…………
西沙が吐いた溜息は、止まった空気に広がることもなく時間に飲み込まれるだけ。
西沙が何も知らずに〝風鈴の館〟に関わり続ければ、いずれは何かに辿り着く。咲はそう考えた。だからこそ〝関係がある〟ということを知られたとしても、ここで遮っておきたかった。
しかし、西沙がそれに反発する可能性があることも、母親として予想してはいたこと。
そして、そのリスクは咲の予想に反し、大きく広がる。
口を開く西沙にも、決して余裕はなかった。
「誰かが風を吹かせたら…………」
──…………誰か……?
そう思った咲の目付きが変わる。
そして西沙が咲の背中からそれを感じ、続けた。
「…………私は約束したんだよね…………」
その言葉に、背中を向けたままの咲は祭壇に向けて目を見開く。
──…………約束……?
「……またあそこに行くって、私は約束したから…………」
──……誰と…………
「だから、必ずまた行くよ…………〝あの人〟が待ってる…………」
その西沙の声に振り返った咲の両目は、無意識の内に見開かれていた。
やっと合わせた西沙の目は、強く、自信に満ちる。
──…………だれだ………………
「よもや……〝呼ばれた〟とでも…………」
その咲の小さな声は、僅かに震える。
しかし、その真意までは西沙にも見えない。
──……お母さんも…………総ては知らないのか…………
「まさか〝ウチ〟が絡んでくるとはね」
西沙は吐き捨てるようにそう言って立ち上がった。
ゴスロリの生地が擦れる音は、その生地の厚さのせいもあってか巫女服のそれとは違う。空気を重く揺らした。
まるで何かを見透かされまいとするかのように、咲が祭壇に顔を戻す。その背中に何かを感じながらも、西沙も背中を向けた。
本殿の木の階段を降りると、幅の広い石畳の参道が大きな鳥居まで続く。周囲は広く玉砂利が敷き詰められ、その整備された印象だけでも神社の大きさを物語る。
西沙が黒いローファーに足を通し、その靴底は石畳で緩い足音を響かせた。
その音はやがて大きな鳥居へ。
何度も塗り替えられたであろう鳥居の朱色はだいぶ綻びも見える。古くに木で作られたためか、材質の収縮で割れが出来るのは仕方のないこと。それでも何百年もここに立ったまま。御陵院麻紀世が本殿を建て替えるよりも古くからここにあるという。
西沙はその前で立ち止まると、その鳥居を見上げていた。
──……この鳥居は……何を見てきたんだろう…………
そして、やっと気が付いた。
反射的に声を漏らす。
「相変わらず上手いね……気配消すの」
その声に応えるかのように、草履の音が石畳に乗った。
「あなたの作り出す〝幻〟ほどではありませんよ……」
そう言いながら鳥居の柱の影から姿を現したのは、巫女姿の長女の綾芽。
西沙とは違い、母の咲と同じくらいの身長の高さがあった。涼沙もそうだったが、それだけを考えたら西沙が姉妹とは思えないほど。
そして、西沙にとっても掴みにくい性格だった。表情から感情を読み解くことは難しい。しかも簡単に西沙に真意を見せるようなこともしない。元々無口な印象があった。それだけに未知数な部分は多い。
そして、西沙は決して侮ってはいなかった。
──……お珍しいことで…………
「お姉ちゃんから私に直接なんて珍しいじゃない。いつも裏でコソコソしてたくせに」
西沙のそんな言葉にも綾芽は動じない。
僅かに視線を下げたまま、ゆっくりと口を開いた。
「母上から聞きました……〝風鈴の館〟に行ったそうですね」
「監視カメラでも付けてたの? さすがは御陵院の情報網だこと…………それとも……〝清国会〟?」
西沙のその言葉に、初めて綾芽の目尻が僅かに上がる。
──……でも、本筋は清国会絡みじゃなさそうけど…………
お互いに出方を伺いながら、自分を隠して隙を狙う。
しかし綾芽にも聞きたいことはあった。
「……あなたがどこまで清国会を知っているのかは知りません。しかしながら────」
「ああ、それね」
綾芽の言葉を遮った西沙が続ける。
「私は〝ヒルコ〟の産まれ代わりなんだって……小さい頃にお母さんに言われた…………」
日本書紀の神話では、天照大神の前にイザナギとイザナミの間に産まれた子供がいたとされている。その〝ヒルコ〟と言う名前は、現在でも〝蛭子〟の字を〝えびす〟と呼ぶことで痕跡が残っている。
いわば、もう一人の〝神〟。
西沙はその産まれ代わりとして育てられた。
そう最初に言ったのは咲ではない。
清国会の中心である〝雄滝神社〟。
──……私は……お母さんの子供じゃないの…………?
西沙が子供の頃に最初に感じたその感情は、未だに西沙の中から消えない。
──……神社から追い出されたらなくなる〝産まれ代わり〟なんて…………
「ヒルコの産まれ代わりだから……お姉ちゃんは私を排除したかったんでしょ? 神話と同じように…………」
そう言いながら西沙は綾芽の横を通り過ぎ、そのローファーの音がなぜか綾芽には大きく響いた。
石の階段を一歩降りながら、再び口を開くのは西沙。
「怖かった?」
ローファーの靴底が、階段を一歩ずつ踏みしめていった。
綾芽は、その背中に顔を向けることも出来ないまま。
しかし小さく、やっと口を開く。
「知らないほうがいいことも…………あるのですよ…………西沙……」
小さくなるその声に、西沙は振り向きもしなかった。
☆
参道から駐車場まではそう距離はない。
駐車場自体も車五台分だけ。元々が普通の神社ではない。通常の参拝客が来るような所でもないためか、それほど駐車場の広さも必要ないのだろう。
今日も西沙のデザインだけで選んだ小さく真っ赤な軽自動車のみ。
その駐車場に着くなり、スマートフォンに杏奈からの着信。
「そっちの進展はどう?」
『だいぶありました』
スピーカーから返ってくる杏奈の声は決して明るいものではなかった。
『最初にもう一度確認したいんですけど、長男がいるんですよね? しかも一年もせずに亡くなってる……』
「そう。どうしたの?」
『いないんです』
「いない?」
『戸籍に残ってません。出生記録も死亡記録も』
「は?」
その杏奈は馴染みの雑誌社の資料室にいた。
そこはフリーになる前からよく出入りしていた所でもあるが、現在はメインに仕事を回してもらっている雑誌社でもある。オカルトライターの仕事をさせてくれてもいた杏奈にとってはありがたい所だ。
そして、西沙との切っ掛けを作ってくれた昨年の〝悪魔祓い事件〟を杏奈に依頼した雑誌社。
杏奈は西沙に電話しながら、その事件の資料を開いていた。元々は自分でまとめた資料でもあるが、改めて目を通すのは事件の直後以来。
「もう一つ、面白いことが分かりまして…………」
杏奈は薄暗い資料室で紙の束をめくりながら続けた。
「去年の〝悪魔祓い事件〟なんですけどね……」
『ああ……あの事件が何よ』
杏奈からの予想外の言葉のせいか、スピーカーから聞こえる西沙の声もどことなく驚いたものに聞こえる。
「楢見崎って苗字がなんだか引っかかって……そしたらありました……〝悪魔祓い事件〟の資料に」
『どういうことよ』
その西沙の声は反射的に、しかも低い。そこに混ざって車のドアが閉まる音。
「〝浅間美津子〟……覚えてますか? あの事件の中心にいた人物です。産まれてすぐに養子に出されてました。その旧姓が〝楢見崎〟です……同じ家でしたよ」
☆
石の階段は十段程。
そこを登り切ると大きな鳥居。
太い木で作られ、朱色に塗られた古い鳥居。
あちこちの塗装が剥げたまま、色の鮮やかさよりも古めかしさのほうが目立つ。
そんな鳥居の下。
黒い和服。
朱色の帯。
日除けの黒い和傘。
しかし長い黒髪は背中で一つに束ねただけ。この時代、しかも御武家に嫁いだ女性としては珍しいだろう。
夏の始まりの頃。
御陵院神社────。
鳥居から真っ直ぐ、石畳の参道。鳥居に対してその幅は狭い。おおよそ人一人分。本殿までの距離も決して長くはない。
その周囲は剥き出しの土。しかし相変わらず管理は行き届いているのか、雑草は無い。
参道の石畳に、低い下駄の音。
小さな歩幅。
その音は本殿の階段の手前で止まる。
そこに、本殿の奥からの声。
「……元気そうで何よりです」
その声は、祭壇に向かって座る麻紀世の背中から。
返る声は石畳の参道から。
「姉様も…………御忙しいようで…………」
傘を少しだけ上げ、そこから〝赤い目〟を見せたのは御簾世だった。
一年前のあの夜────。
使用人たちが集められ、蓮世と亥蘇世の亡骸を裏の山に埋めた時は、すでに朝方。小さな神社とはいえ、使用人は常に十名程。
麻紀世にとってもう一人邪魔な存在は、蓮世の夫であり、同時に麻紀世にとっては父親。しかし幼い頃から父親に育てられた記憶は無い。親子の繋がりなど皆無な間柄。
麻紀世が別邸の扉を開けると、そこには父親とその妾の亡骸。亥蘇世であろうと思われた。蓮世と同じように、二人とも首筋から胸にかけて何度も抉られるように短刀を刺された跡がある。
それだけの時間を稼ぐ為、亥蘇世は麻紀世と御簾世の所へ〝幻〟となって現れた。
その御簾世は、まだ暗い内に二人の女性使用人を引き連れて楢見崎家へ。
御陵院神社での惨劇は、確かに御簾世にとっては悲劇だった。
道中もやはり穏やかになどなれるはずもない。
まだ暗い森の中。前後を使用人に挟まれながら、守られるように御簾世は先を急いでいた。
亥蘇世は御簾世も殺そうとしていたのか、それが気になっていた。〝幻〟の姿のまま確かに亥蘇世は短刀を持っていた。しかし幻の姿のままで相手を殺すことなど出来るのかまでは分からないまま。
──……もし殺せたとしたら……麻紀世姉様と二人で清国会へ行くつもりだったか…………
──…………だったらどうして……自決した…………?
途端に、御簾世の中で疑問と同時に不安が湧き上がった。
──……何か……おかしい…………
聞こえる音は、背後。
御簾世は素早く右腕を伸ばして後ろに体を翻す。
そこで、使用人は短刀を持ったまま動けなくなっていた。
震える目。
──……麻紀世姉様に惑わされたか……
──…………さすがだ……私ほどでなくとも見事……
そして、使用人は本人の意思とは関係無く自らに短刀を向け始める。
そのまま自らの首にゆっくりと切先を差し込んだ。
震えながら首から溢れ出す赤黒い血が、着物を染めていく。
御簾世は鋭い〝目〟で、右手の掌を向けたまま。
そして、御簾世の前を歩いていたはずの使用人が腰を落としていた。片手に掴んだ短刀の刃先が大きく震え、上下の歯が音を立てたまま、何も言葉が出てこない。目の前の光景に、恐怖だけに包まれていた。
その姿に顔を振った御簾世が口を開く。
「死ぬか、戻るか、自分で決めなさい」
そして、短刀が地面に落ちた。
〝……私のせいです……私が亥蘇世を〝惑わせた〟……〟
麻紀世の言葉が頭に浮かぶ。
──……本当に…………亥蘇世姉様を惑わせた…………
──……亥蘇世姉様を利用して……母上を…………
──………………やられた……
──……あの人は…………御陵院を終わらせる気など最初から無かった…………
──…………私を追い出す為に…………
「如何ですか? 清国会は…………」
あれから一年後の御簾世の言葉は、重い。
それでも背中を向けたままの麻紀世には、あくまで冷静な口調に感じられた。相変わらずの御簾世と言うべきか、決して感情を表には出さない。強い陽差しがその口元の小さな動きを照らし出していた。
むしろ冷静でいようと努めていたのは麻紀世。
「清国会ですか……」
麻紀世はあの後、すぐに動いていた。しかし未だに清国会での立場は小さいもの。立ち上げ初期の頃とは違い、すでに多くの社が参加してからとなれば、余程の貢献をしなくては上に行くのは難しいだろうと思われた。
麻紀世は完全に焦っていた。それでもそれを御簾世に見透かされまいと言葉を繋ぐ。
「〝亥蘇世の願った未来〟でした……」
しかし、返す御簾世の口角は上がっていた。
「……嘘…………」
まるで麻紀世の言葉を遮るかのような御簾世の声は、途端に妖艶な怪しさを伴う。
その艶のある声色に、麻紀世は背中が冷たくなるのを感じた。
御簾世が続ける。
「その亥蘇世姉様を殺してまで私を追い出して…………一石二鳥ですね…………晴れてここは姉様の物…………姉様の〝想い〟そのまま……」
麻紀世は背を向けたまま、何も応えなかった。
まるで分かっていたかのように御簾世が言葉を繋げる。
「……亥蘇世姉様は…………重過ぎましたか?」
「やめなさい御簾世……」
一言だけ返す麻紀世の真意は、御簾世でも読めないまま。
どこからが麻紀世の計画だったのか。
最初からか、亥蘇世の計画を麻紀世が利用したのか。
事実を知るのは今となっては難しい。
一つはっきりしているのは、麻紀世が御簾世を騙して御陵院神社を継承したこと。
「姉様の方が上手でしたね……見事でしたよ…………しかし────」
間を空ける御簾世の声に、麻紀世は僅かに首を動かす。
「────このままというわけにも…………いきませんね…………」
「どうすると……」
返す麻紀世の声は弱い。無意識の内に弱さを見せた自分を麻紀世は悔いた。
しかし、その隙間を御簾世が見逃すわけがない。
「……今度こそ……私が…………御陵院を終わらせます…………」
──…………ならぬ…………
「あの時……私を殺めておけば良かったものを…………」
──…………それが出来たなら…………
「……姉様に……跡継ぎは産まれません…………私が生きている限り…………」
──……我に…………〝呪い〟を掛けるというのか…………
「それとも…………私に…………勝てるおつもりですか…………」
〜 あずさみこの慟哭 第一章「聖者の漆黒」
第二部「回顧」終
第三部「回天」第1話へつづく 〜