第一章「聖者の漆黒」第二部「回顧」第2話
産まれてから、常に沙智子は守られてきた。
小学校から高校を卒業するまでは、常に車での送迎。
同級生と遊びに行ったこともない。
少し体が怠いというだけで病院で精密検査。
買い物がしたくても好きに歩き回ることも許されず、常に使用人が数名。
そんな日々の中で、当然のように友達はいない。
同級生は沙智子の事情を知るなり離れていった。
高校を卒業してからは就職することもなく花嫁修行。
二〇歳で婿養子を迎え入れて結婚。
それが楢見崎沙智子の、強いては楢見崎家の女の人生。
結婚相手は五歳年上の銀行員だった。他県とは言え、それなりの財閥の家柄の四男だという。それでも間に県を二つも挟む遠くの家から。居場所が無かったのだろうか。
そして、あまり会話の上手なタイプではない。
程なくして男の子が産まれた。
名前は先の代が付ける仕来たりとなっていた。
沙智子の場合、母の由紀恵が名付け親となり、その由紀恵が出生届けを役所に提出する。
それが、楢見崎家だった。
☆
「あれからどうよ」
ぶっきらぼうな西沙の問いに、冷たい紅茶のカップを両手で持った杏奈が眉間に皺を寄せて応えた。
「たまにゆっくりと紅茶を楽しんでるのに……もう少し情緒のある言い方って出来ませんかね」
この日の冷たい飲み物が紅茶になったのは麦茶のパックを切らしたから美由紀がアパートの自室から紅茶を持ってきただけ。しかし西沙もそうは言わない。
「いつもコーヒーとビールばっかりの人が何言ってるのよ。たまには化粧くらいしてから言いなさい」
「ファンデーションくらいはしてますよ。一応口紅だってカバンに入れてますし」
「カバンの量増しに使ってどうすんのよ。化粧品って色々種類だってあるんだから」
「だって汗で崩れてくるし」
「安っぽいの使ってるからでしょ」
そんな、ある意味いつもの会話を、パソコン前の美由紀が遮る。
「情緒のない会話は止めてくださいね」
「そうだよ」
釘を刺したつもりのそんな西沙の言葉に、今度は美由紀が釘を刺す。
「西沙も。今日はあまり時間無いでしょ?」
「そうだった」
反射的に返した西沙に、今度は杏奈が釘を刺す。
「そうですよ。こんな朝に呼び出して……慣れない出勤ラッシュの時間なんか運転が疲れるだけなんですから……そもそもライターとかジャーナリストは夜型が多いし」
「ジャーナリズムに昼も夜もないでしょ?」
今回は珍しく西沙が杏奈を呼び出していた。
楢見崎家の迎えが来るのが一〇時。まだ時間はある。
とはいえ、今日は朝から汗の出る暑さ。陽差しも強く湿度も高い。排気ガスの巻き上がる出勤ラッシュの幹線道路は空気が揺らむほどだった。
それでも杏奈はコンビニの駐車場を使わせてもらってるためにいいほうだろう。昨日の沙智子は駐車場を探していたと言っていた。西沙もコンビニの駐車場を使うように伝えていなかったことを悔やんだ。
──……だったら、沙智子さんをここで降ろしてから駐車場を探せば…………
──…………ああ、そっか……分かった…………
「この間の〝風鈴の館〟って記事にするんでしょ? 何か進展はあったの?」
西沙の言葉に、杏奈は急に視線を外す。こういうのは大体良くない時。
「一応まとめてはいますよ」
応えながらも、杏奈の言葉は歯切れが悪い。
「何よ。私があんなカッコ悪い思いしてまで頑張ったのにお蔵じゃないでしょうね」
西沙はそう言いながら、自分のカップに側の冷茶用ポットから紅茶を注ぐ。さすがに麦茶と同じグラスではない。ガラス製の冷茶用カップ。味は変わらないと思いながらも、やはりそういうところは譲れない性分だった。というよりも、気持ち一つで味も変わるというのが西沙の主張でもある。そういう部分は美由紀と意見が分かれたことはない。
「実はですね……写真が……ちょっと……」
「ちょっと何よ」
「一枚しか撮れてなくて…………」
「は⁉︎」
「残りは全部真っ黒のデータばかりで────」
「何やってるのよ!」
叫びながら、西沙は立ち上がっていた。
咄嗟に体を引いた杏奈も驚きの表情を浮かべ、次の言葉が出てこない。
続けたのは西沙。
「あんたプロなんでしょ⁉︎」
元々杏奈の持ち込んだ依頼。いくら仕事とはいえ、決して西沙が最初に興味を持った案件ではない。それなのに、どうして自分がこんなに感情的になっているのか、なぜか西沙は感情を操れていない自分をもどかしく感じた。
杏奈も西沙の変化に触発されたのか、少しだけ感情が揺れる。
「……分かってますよそんなこと。私だってやっと行けたんですから無駄にしたくなんかありません。でも……こんなこと初めてで…………」
自分の失態。その事実が変わらないことは杏奈にも分かる。しかも、杏奈が一人で再び探したところで見付けられないであろう場所。
正直、悔しかった。
「一枚だけって言ったけど……」
杏奈の苛立ちを感じ取ったのか、西沙も声のトーンを落としながら腰を戻す。そしてカップを口へ運んだ。しかし気持ちが落ち着いてくることで杏奈への罪悪感は増す。
──……どうしてこんなに……気持ちが揺れる…………
「これです…………」
杏奈は横のカメラバッグからタブレットを取り出すと、カメラロールを開いて西沙の前へ。
そして続ける。
「風鈴の一つをアップで撮った写真です。いっぱいあったし、どれも高い位置ばかりだったし、近くで見てみたくてアップにしただけなんですけど…………」
望遠レンズで撮影したためか、中心となる一つの風鈴の周囲はピントが淡い。
「……家紋?」
「やっぱりそんな感じですよね。撮った時はただの模様だと思ってたんですが……」
二人はしばらくの間、テーブルの上のタブレットを覗き込んだ。
ガラスではなく、鉄製の風鈴の写真。
ただの模様ならその多くは全面に装飾が施されるのが一般的だが、そう思われるのは最低限に抑えられ、大きく〝家紋〟と思しき部分が目立つ。
しかし一般的な左右対称の家紋とは何かが違った。〝円〟の中に、同じく円を思わせる線が不規則に描かれている。
「調べてみた?」
液晶画面を見つめながら、西沙が口を開く。
「家紋と思って調べてますが……まだ見付かりません。家紋じゃないのかも……なんかちょっと違うし……」
応えた杏奈も画面を見続けている。
答えの出ないままの時間。
しかし、西沙の記憶のどこかに、何かが引っかかる。
──……どっかで……見てないかな…………これ……どっかで…………
記憶は深い霧の中のように手探りの西沙を邪魔した。
「何か分かったら教えて」
そう言った西沙が体を起こす。
杏奈も体を起こし、応える。
「分かりました」
「まだあそこの話は終わってないよ……何も解決してない…………分からないことばかりだ…………」
「そうなんですよね。やっと行くことが出来たのに…………まだ、それだけなんですよね」
「でも……また行くことになるよ。いつかは分からないけど」
そう言う西沙の口角が上がる。
いつものそんな西沙の表情に、やっと杏奈の気持ちも落ち着いていった。
「その時はまたお願いしますね」
「お洒落な登山用の服ってないの? そこが問題なんだけど」
「西沙さんのオシャレの基準がおかしいんですよ」
「じゃあ今度一緒に探してよ」
その西沙の言葉に反応したのは、意外にもパソコン前の美由紀だった。顔を向けた美由紀の表情に西沙が反射的に顔を向ける。
しかし咄嗟に美由紀は目線を外した。
そして聞こえてくるのは小さな声。
「……私が探しとく…………ネットで……」
「あ、うん……」
そんな微妙な雰囲気にも杏奈は相変わらず気が付かないまま。
「美由紀さんのセンスなら問題無いですね。西沙さんと違ってオシャレだし」
応えるのは溜息混じりの西沙。
「杏奈に言われたくないわ」
そして視界に入った壁掛けのアナログ時計を見ながら続けた。
「まあ、そんなことより時間もあまりないから本題に移るけど、仕事一つ受けてよ」
「えー、いそがし────」
「──いわけないでしょ。そんなに難しい仕事じゃないと思うよ。いつもながらどこの出版社よりも割のいい仕事だから安心してよ。ちょっと調べて欲しい〝家〟があるだけ」
「まあ私の情報網のほうが個人情報の問題も掻い潜れますけど……」
それは事実だった。
市役所に行ったところで他人の家の情報を調べられる時代ではない。しかしマスコミの情報網はネットの時代でも未だに強力だった。とはいえ、もちろんそれには危険も伴う。そうしなければ情報を得られなくなったのもネットの影響であることは事実だった。
そう言う点では、杏奈は昔気質なタイプなのかもしれなかった。ネットを批判しながらもそこに擦り寄るしかない現在のマスコミの世界に馴染めず、昔ながらの泥臭い仕事を好む。それは戦場カメラマンだった父親の影響も大きいのだろう。
それでも、だからこその強さを西沙は何度も見てきた。
「隣町に〝楢見崎〟って苗字の地主の旧家があるはず……戸籍から何から、集められる情報を集めて欲しい」
西沙の目付きが変わる。
この瞬間が杏奈は好きだった。
「地主ですか……また何か大きそうな仕事ですね」
「その家では何世代にも渡って一歳になる前の長男が亡くなっているってことらしいんだけど、過去に遡って死因とか諸々も知りたい…………お願い出来る?」
「一歳になる前…………そうですか……」
素早く鞄から取り出したメモ帳にペンを走らせながら杏奈がそう言った直後、途端に笑みを浮かべる。
「ま、西沙さんのためなら何とかしますよ」
向かいで同じように笑みを浮かべた西沙に、杏奈が続けた。
「お任せを。珍しい苗字ですし、調べるのはそんなに難しくは…………」
──……あれ? ……どっかで…………
「ならみざき……? どっかで見てますね……」
「まあ、珍しくはあるけど、どこかにはある苗字なんだろうね。杏奈だったら仕事で色々な所も行くだろうしさ」
「……そうですね」
それでも杏奈の中の何かが引っかかった。何か〝古い所〟を突かれたような感覚。
──…………だれだ…………
その杏奈とほぼ入れ替わる形で、楢見崎家の迎えが到着した。
昨日の運転手の男性だった。昨日はガラス越しに中年男性かと思ったが、直接会うと決してそんな年齢には見えない。三〇手前と言ったところだろうか。
「沙智子さんは、今日は……」
何気なく聞いた西沙の言葉に、男性は節目がちに応える。
「御屋敷のほうで、御陵院様をお待ちしております」
少し不思議に思いながらも、西沙はいつもの小さな黒いハンドバッグだけを肩から下げ、パソコン前で立ち上がっていた美由紀に顔を向けた。
「晩御飯よろしく。そんなに遅くならないよ。じゃ、行ってくる」
「うん……」
いつもの会話。
それでも美由紀は何か〝寂しさ〟のようなものを感じていた。
それが何かは分からない。
──……不安……なの……? どうして……?
──…………この感覚は、なに…………?
☆
車で一時間と少し。
街中からはだいぶ離れた場所。
奥に山並みが見える細い道路に沿うように長い壁が続いていた。
やがて、その壁の一角が大きな門に繋がる。
──……さすが旧家の大地主ってとこか…………
もはやどのくらい前から壁が続いていたかも覚えてはいなかった。それでも、ずっと敷地だったと言う事実だけは、どうやら変わらない。
門が開くと、左右には使用人が一人ずつ。深々と頭を下げている。一口に門と言っても上部の清掃をどうするのかと不思議に思う高さ。
──……神社なら鳥居か…………大事な部分だよね…………
入り口は敷地の出入りに使われる場所。
同時に人を迎え入れる所。
神社の産まれだからということもあるのだろうが、昔から大事にされてきたそんな考え方が西沙は好きだった。
家に招き入れる人を持て成す最初のスタート地点。外から入る人が最初に触れる所。だからこそ粗末には出来ない場所。
──……この家は、その意味を理解してる…………
さすがに大きな御屋敷だった。
そうとしか表現の出来ない立派さだ。門だけでなく屋敷自体も客を招き入れる準備が出来ている。
使用人の一人が車のドアを開けたが、初めて見たかもしれないゴスロリ姿にも臆することはない。仕事として、というよりも、理解した上で客人を持て成しているのを感じられた。
──……ただの地主じゃないな…………
玄関では使用人数名が頭を下げる中、すぐに沙智子が現れる。
「申し訳ございません。私がお迎えに上がりたかったのですが────」
綺麗な薄紫の和装。
茶色の帯が細かな装飾を落ち着かせる。
家を流れる風に合わせたかのような爽やかさ。
外の蒸し暑さに対して、どこかこの家の玄関先に嫌な湿度は感じなかった。エアコンの乾燥した冷たさとも違う。
総てのバランスが、適度だった。
「いえいえ」
笑顔で制した西沙が続ける。
「ここへお伺いすることは私からの要望です。お気遣いなく」
厳格な日々を護る神社の産まれ。今の生活とは格の違う雰囲気だからといって呑まれることはない。こういう時の西沙の立ち振る舞いも見事なものだった。
もっとも、それは使用人にとっても同じこと。例え使用人とはいえ、長くも短くもこの世界で生きている。順応するということは決して簡単なことではないだろう。
「御陵院様を、客間へ御案内差し上げて下さい」
沙智子が使用人の一人に柔らかい声で指示を出した。
その直後、大きく開け放たれた広い玄関から僅かに風が入り込む。
そして聞こえる、涼やかな、風鈴の音────。
西沙は反射的にその音を追いかけ、見上げていた。
小さな、甲高くも柔らかい音が空気に漂う。
玄関から上がる所の框板の上、小さな鉄製の風鈴が一つ。
「この時期にはいいですね。風鈴って」
西沙は見上げたまま言葉を繋ぐ。
「こちらでは常に下げていらっしゃるんですか?」
その光景が見えた。
「ええ、常に下げております」
応えた沙智子が続ける。
「楢見崎家では古くから、風鈴は〝魔除け〟になるからと…………」
「そうですね。そういう考えは地域によってもあるみたいですよ。かなり古くから、この国では身近な物だったんでしょうね…………」
──…………ふーん……面白い…………
通された座敷は大広間と言ってもいい広さだった。
きっとこんな部屋がこの屋敷にはいくつもあるのだろう、とそんなことを思っている内、運ばれてきたお茶を一口だけ。やはり安い味ではない。
座布団も厚く立派な物。しかし正座をする西沙の周囲はゴスロリのスカート部分が広がるせいか、その座布団をも隠した。
やがて、足袋で廊下の板を擦る音が微かに聞こえてくる。決して大きく音を立てるような歩き方ではない。
その音は畳の上の音へ。
沙智子と母親の由紀恵だった。
西沙の目の前、二メートルほどだろうか、二つ並んだ座布団の一つに、まずは母の由紀恵が腰を降ろした。
沙智子はその隣の座布団を少し後ろに引くと、由紀恵の斜め後ろへ。
どちらも衣擦れの音からして安い着物でないことが分かった。生地の違いだけではない。作りが違う。
沙智子の薄紫に対して、由紀恵の和装は年齢に合わせたのか落ち着いた濃い茶色。金色と思しき細かな装飾を、黒に近い赤い帯が引き締めていた。
沙智子の年齢から考えて四〇を少し過ぎた所だろうか。決して老け込んだ印象はなかった。立ち振る舞いから言っても冷たい印象でもない。
部屋という空間に不快感が少ないのもそう思わせる要因なのか、西沙は見事なまでの風の作り方に感心していた。障子や襖を開ける位置がしっかりと考えられている。元々古い日本家屋というものは風の通りがいいように作られてきたが、それでもこの家の徹底の仕方は脅威を覚えるほど。エアコンが無い状態で扇風機すらも回っていない。おそらくは天井にも空気の抜ける秘密がありそうだった。
さらには家の所々に配置された〝風鈴〟。
〝風鈴の館〟の一件があったからとはいえ、冷静に考えればそれ自体は何もおかしな光景ではない。
それでもその効果は絶大だった。
総てが考えられた上で、屋敷全体を空気が回っている。
──……なんだか……神社みたいだ…………
──…………後は祭壇があれば…………
そんな印象だった。
その空気に漂うかのように、由紀恵の声が柔らかく流れる。
「楢見崎家当主、由紀恵です。本日は御暑い中にも関わらず娘の沙智子のためにわざわざお越し頂きましてありがとうございます」
深々と頭を下げる由紀恵の長い髪が、僅かに横に滑る。低い位置で一つに束ねられた美しい黒髪。その髪を見るだけでも沙智子と親子なのが強く感じられた。
「いえ、こちらこそ強引にお願いしまして……今回の一件は娘さんからはお聞きですか?」
西沙のその言葉、さらには態度。西沙自身、それが相手に与える印象まで理解している。久しぶりの〝大口〟の客。無意識に態度を操っていた。
それでも由紀恵の些細な感情の変化は見逃さない。
いきなりの〝本筋〟の話に、由紀恵の眉が一瞬だけ寄る。
──……やっぱり強引に抜け出してきてたか…………
「お恥ずかしながら……」
由紀恵が微かに視線を下げ、西沙から目線を外しながら続けた。
「いつも勝手に出歩くなとは言い聞かせているのですが……しかも息子のこともありますので……何か用事があれば何人も使用人がおりますでしょうに……お恥ずかしい限りで……」
言いながら、由紀恵は僅かに首を斜め後ろの沙智子へ。決して振り返りはしないが、沙智子にとってはその動きだけで充分だった。
沙智子は合わせるように視線を下げる。
手に取れるかのような二人の微妙な緊張感を、西沙は感じていた。
──………………
「その息子さんのため……だからこそですよ」
その西沙の言葉に、意外にも由紀恵の返答は早い。
「話は一通りお聞きになられているご様子…………確かに沙智子が不安に思うのは無理もないでしょう……私にも息子がおりました。沙智子の兄に当たります。そうですね……確かにあの子も半年ほどだったかと記憶しております。しかしながら、私たちはすでに覚悟をしているのですよ」
「覚悟……」
西沙が言葉を漏らす。
そこに入り込むように、由紀恵が顔を上げた。
「はい……覚悟です……ですから……あの子もどうせ一年と経たずに────」
「────やめて下さい」
それは沙智子の声。
由紀恵の背後から、震える声で遮る。
「……お母様…………あの子は……幸成は…………まだ、生きています…………」
由紀恵は西沙と目を合わせたまま、微かに口元に笑みを携えた。
──…………え…………
由紀恵の〝目〟から何かを読み取った西沙が目を見開く。
続けて空気を震わせるのは、少し強くなった由紀恵の声。
「我が楢見崎家では、古くから男子は一年と持ちません。これは何代にも渡って続いてきたこと。しかし必ず産まれます。そんな誰かの〝呪い〟に、私たちは耐え続けてきたのです」
「それを……」
西沙の低い声が、由紀恵の声を散らした。
「……終わらせることが出来たら…………」
「私共も……皆そうでした…………あちこちの神社を渡り歩いて…………解決などしたことがありません。私もです…………お祓いなどとそんなもの…………」
──…………この家の血は……真っ黒だ………………
「御陵院様でしたら、終わらせることが出来るのでしょうか。聞けば神社のお産まれとか」
「ええ…………姉妹の中で一番に勘が鋭過ぎて…………神社を追い出されましたよ…………」
応える西沙の目の鋭さのせいか、由紀恵が歯を食いしばり、僅かに顔を歪ませる。
西沙は容赦無く続けた。
「〝呪い〟の出所は、本当に分からないのですか?」
「分かりません…………」
由紀恵は即答して続ける。
「私の母にも、その当時の祖母にも尋ねましたが、誰も分からないと…………文献があるわけでもありませんし…………」
「しかも過去にお祓いをした人たちは、誰もそこに辿り着けなかった…………」
「御陵院様でしたら…………」
──……この人だって……救われたいはずなのに…………
「出来ますよ」
その西沙の言葉に、しばし間を空け、由紀恵が目を見開いた。
小さくその唇が開き掛けた時、西沙がすかさず繋ぐ。
「出来なければ…………私はここにはいません。出来るだろうなんて言い方はしません。私が救うべきは娘さんだけではありません。これからの楢見崎家と、あなたです」
すると、由紀恵は目を細め、視線を畳に落とした。
諦め。
そこに辛うじてぶら下がる希望。
罪と罰。
──……私は……希望など持ってはいけない…………
何度も思ってきたそんな同じ言葉が、不意に由紀恵の脳裏を掠める。
それを包む西沙の声。
「あなたは何も嘘はついていません。あなたは本当に〝呪い〟の根源なんか知らない…………でも…………」
「元々楢見崎家は────」
そう言って西沙の言葉を遮った由紀恵が続けた。
「御武家だったと聞いております。なにぶん古い話で私も詳しくは分かりませんが、御侍の立場を捨てる時にこの辺りの土地を買い占めて地主になったとか…………戦後に幾らかは持ち土地も切り張りされたようですが…………しかし〝呪い〟はもっと前からだそうです。これが、私の知っている総てです」
言い終わっても、由紀恵は未だ顔を上げない。
──……そうだよね…………いいよ……大丈夫…………
そして、それは突然だった。
〝 お待ちしておりました 〟
──…………! ……だれ…………?
どこかで聞いた声。
しかし、その声は続かない。
──……誰? 応えて…………
その代わりか、西沙の頭に浮かぶ光景があった。
それがどこかは分からない。
板間の部屋。
丸い鏡を納めた小さな祠。
中心と、左右に配置された燭台。
一般家庭にある神棚にしては大きい。
──………………祭壇…………?
「一つ…………お伺いしても…………?」
西沙は無意識の内にそんな言葉を口にしていた。
その言葉が続く。
「……こちらに……もしかして祭壇がありませんか?」
なぜかそう思った。
そう感じた。そうとしか表現のしようがない。西沙自身、理解が追い付かない。
例えどんなに歴史の長い旧家の家柄とはいえ、神社でもない家に祭壇などあるはずがないことは西沙にも分かっていること。
それでも強く感じた。
──……ここには……祭壇がある…………
突然の想像だにしない西沙の言葉に、由紀恵も沙智子も反応を迷う。そして二人の頭に浮かぶものと、西沙の意識が一致した。
口を開いたのは由紀恵。
「……祭壇……と言えるものなのか…………大きな神棚のような物でしたら…………」
「どこ? 見せてください」
西沙は言いながら廊下に足を進めていた。自然と足がある方向へと向かう。
それを慌てて沙智子が追い掛けていた。
「御陵院様⁉︎」
やがて西沙が開けた襖の向こう、
そこにその〝祭壇〟はあった。
先ほど頭に浮かんだ光景。
──…………風鈴の館と同じだ…………
間違いない。あそこほどに古さを感じさせるわけではない。人の営みのある屋敷で管理された部屋。風鈴の館とは印象は違った。しかし構造的には意図していなければおかしなほどに似通っている。
「……これは…………何…………?」
背後に追い付いた沙智子に、西沙は背中を向けたまま問い掛けた。
「これは間違いなく祭壇ですよね…………聞かせてください…………この祭壇は何ですか?」
すると沙智子はゆっくりと応え始めた。
「古くからある物だそうで、大事な物ということで掃除はしておりますが…………どういった物なのかまでは…………今は何かに使うこともございませんし…………」
──……だから神社のようだって感じたんだ…………
──…………どう繋がる…………?
──……やっぱり玄関のアレは同じ〝風鈴〟か…………
玄関に下がる風鈴を見た時から、もしかしたらという気持ちはあった。あまりにもそっくりな風鈴。しかし高さのせいで間近で見ることも出来ずじまい。
それでも今、西沙は確信していた。
〝風鈴の館〟と同じ風鈴と祭壇。
昨日、沙智子に初めて会った時には感じなかった。しかし二つの件の繋がりを感じると同時に、偶然という言葉だけでは語れない〝意思〟を感じた。
西沙は常日頃から〝必然〟という言葉を嫌った。嫌っていると言えば大袈裟だが、あまり好きでなかったのは事実。総てが決められているという考えが苦手だった。
過去を見、未来が見えることもある。幼い頃からそれが当たり前の生活を送ってきた。それでも、むしろだからこそ、西沙は未来の不安定さを求めたのかもしれない。嫌な未来が見える度に、違う未来になって欲しいと思ったことが何度もあった。どうして自分の見る未来が一つだけなのか。それは今でも西沙を悩ませる。
時は進むだけ。しかし〝今〟がどこなのかは〝今〟の自分には分からない。もしかしたら、誰かにとっては〝過去〟なのではないかと、そう考えたこともあった。それでも答えは出ないまま。
だからこそ、今回のことも〝必然〟とは思いたくなかった。
決して杏奈が楢見崎家のことを知っていて風鈴の館の相談を西沙にしてきたわけではない。
沙智子も楢見崎家の呪いを解いて欲しかっただけのこと。
その総てを〝必然〟と言うには、あまりにも出来過ぎだ。しかもこのタイミング。その言葉を嫌う西沙ですら何かの〝意図〟を感じた。
そしてふと思い出す。
「……沙智子さん…………確か昨日、夢で私に相談するように言われたって…………」
西沙の確認するような問いに、沙智子はすぐに返していた。
「はい…………巫女に…………」
──……そういう……ことか…………
西沙は後ろの沙智子に顔を振り、応える。
「一度戻ります。色々と調べたいので」
そして西沙は沙智子と客間へ戻った。
そこには由紀恵が座ったまま。
西沙が由紀恵の前に座ると、心なしか由紀恵は神妙な顔付き。気持ちの奥底に住まう自らの蟠りに対峙しているかのようだった。その心中が見えていた西沙には、その痛みさえも感じられた。
しかし、今は時間が欲しい。
そして由紀恵の俯いた目を見ながら口を開いた。
「私が総てをお受けします……だから…………一つだけ、お願い出来ませんか?」
西沙はすぐに立ち上がって続ける。
「娘さんのことです」
由紀恵の斜め後ろに戻っていた沙智子が驚いた顔を上げた。
さらに続く西沙の声。
「たまには……自由にってわけにはいかなくても、外に出して上げて下さい。昨日の運転手さんでしたら、丁寧な運転でしたから大丈夫です。〝先の見える〟私が保証しますよ」
西沙を見る沙智子が目を見開いていた。
──……〝初めて〟好きになった人だもんね…………
──……旦那さんは親の決めた結婚相手でしかない…………
──…………父親が誰であれ、子供は子供……でも聞かれたくなかったよね…………
ゆっくりと、由紀恵が顔を上げる。
その瞳には、何かの〝覚悟〟が見えた。
☆
静かな夜になった。
夕食の時、御簾世は姿を現さないまま。
蓮世も、麻紀世も、亥蘇世も、誰も言葉を交わさないままの食事。
障子の隙間から入り込む風も無い。
空気と時間が澱む。
先に箸を置いたのは蓮世。
立ち上がる音が空気を切り裂いた。
そして、一言だけだった。
「麻紀世、食後に私の部屋へ」
麻紀世が蓮世の部屋に行っている間、亥蘇世は麻紀世の部屋で待ち続けた。
時間が異様に長く感じられる。いつもの白い浴衣姿のまま、今夜も亥蘇世は自分の部屋に戻る気は無かった。
気持ちは、あの時からずっと落ち着かない。
誰もが麻紀世が継ぐと考えている、と亥蘇世は思い込んでいた。
──……どうして……御簾世が…………
──……姉様が一番の能力者のはず…………
──……姉様と私で…………急いで清国会に参加しなくては…………
──…………姉様と……私で…………
麻紀世のことを頭に思い浮かべる度、体が疼く。
それでも、時間が止まったような感覚が亥蘇世の意識を埋め尽くしていた。
未だ麻紀世は戻らないまま。
どれだけの時間が経ったのか、やがて亥蘇世の背後、小さな足音の後、襖が開く音。
待っていたはずなのに、なぜか亥蘇世の背筋に悪寒が走った。
襖の閉まる音が、亥蘇世の鼓動を更に早くする。
──…………姉様と一緒に…………
「〝幻〟じゃないですよね…………亥蘇世…………」
背後からの麻紀世の声が、亥蘇世に絡み付いた。
続く、巫女服の帯が擦れる音。
衣擦れの音が、部屋の空気を包み込む。
そして、麻紀世の細い腕が、亥蘇世の背後から首筋に流れていく。
朝。
結局、何も聞けないままに身を任せただけ。
亥蘇世の中でもどかしい感情だけが渦巻く。
朝の神事、御簾世が現れたのは途中からだった。冷静な表情のまま。心の内を見せない御簾世に、亥蘇世は苛立った。
──……まさか……御簾世が母上を操ったのでは…………
それは御簾世の〝能力〟そのもの。御簾世にしか出来ないこと。
御簾世なら出来る。
──…………御簾世なら…………
夜、亥蘇世は麻紀世を準祭壇に呼び出した。
神事の後、夕食まではまだ少し時間がある。
祭壇の燭台の上からは未だ松明の燻る匂い。淡く煙が空気を濁らせていた。
今夜、亥蘇世は麻紀世を逃したくなかった。自分自身が待てないと感じていた。亥蘇世には麻紀世と共に御陵院神社を清国会に参加させる未来しか見えていなかった。
「御簾世です……御簾世が母上を惑わせたに違いありません」
その言葉は亥蘇世の感情そのもの。
正面に座る麻紀世は落ち着いた表情のまま、感情を隠しているように亥蘇世には見えた。
その声は決して怯えてはいない。
「……亥蘇世……そのような考えは────」
「姉様以外に誰がこの社を護れるのです! 清国会と共に……私と共に…………」
「冷静になりなさい……母上は御陵院のことを考えての決断をしたまでです。確かに母上は清国会を良く思ってはおりません…………それは御簾世も同じでしょう…………しかし時を待つのです。必ずその時は来ます。御簾世もいずれは理解してくれるはず……」
──……まさか姉様まで…………
「御簾世に…………御簾世は…………人の心を操ります…………自分の意のままに…………」
亥蘇世の口から言葉が漏れていた。
目を潤ませたまま、その感情を〝疑念〟だけが覆う。
「……操られてはなりません……姉様…………」
亥蘇世には、麻紀世しかいなかった。
麻紀世の為に生きていた。
麻紀世の為なら、喜んで死ねると思っていた。
「何を……私が操られるなど…………」
言葉を返しながらも、麻紀世の中にも不安が無いわけではない。もちろん麻紀世ほどの能力者となれば簡単に操られることは無いだろう。しかし麻紀世にとっても御簾世の力の強さに関しては未知数な部分が多い。それほど御簾世は自己を表現することが少ない。決して自分の能力をひけらかすような部分を持ち合わせてはいない。
今回のことで、改めて麻紀世が御簾世に少なからずの疑念を抱いていたのは事実。
それはもはや〝畏れ〟に近い。
その感覚が改めて麻紀世の中で膨れ上がる中、目の前の亥蘇世は涙と共に感情を零し続ける。
「…………私は…………姉様と一緒に…………」
愛おしくないわけではない。麻紀世にとっても亥蘇世は大事な存在だった。
共に社を継ぎ、清国会の中で登り詰め、真の神の元で日の本を護りたかった。
──……亥蘇世は…………弱すぎる…………
二人は、すでに〝金櫻鈴京〟に操られていたのかもしれない。
その夜から、麻紀世は亥蘇世を遠ざけ始めた。
当然、自分を一歩も部屋に入れようとしない麻紀世に、亥蘇世は寂しさを募らせるだけ。
──……時を待ちなさい…………亥蘇世…………
麻紀世の言葉を理解しながらも、感情では受け入れられないまま。
☆
それから一月の間、着々と代替わりの催事の準備が進められた。
亥蘇世の様子から、その中で現実を受け入れられずにいるのは麻紀世も分かっていた。日に日に変化していく亥蘇世の目付きに不安を募らせる日々。
「貴女は……何か感じませんか?」
その麻紀世の声は後ろ向きな感情に支配されていた。
少なくとも、その正面に座る御簾世にとってはそうとしか感じられなかった。
そして、麻紀世が御簾世の部屋に入るのはこれが初めてのこと。姉妹とは言え、二人の間には長女と三女という開き以上の距離があった。それでも明日の催事に合わせ、麻紀世はどうしても御簾世と二人で話をしておきたかった。
深夜。
部屋には一本の蝋燭の灯りだけ。
「……亥蘇世姉様のことですね……」
相変わらず御簾世は感情を表に出さない。そればかりか、相手の心を読み取ることの出来る麻紀世や亥蘇世ですら御簾世の意識を読み取ることは出来なかった。
「如何にも」
それだけ返し、御簾世からの返答を待つのが限界。
それに加え、麻紀世はいつもとは違い、焦りがあった。
「貴女にも未来は見えるはず……しかし……どういうわけか私は亥蘇世の未来が見えない…………」
「未来が……存在しないとしたら…………」
その冷静なままの御簾世の言葉に、麻紀世は目を見開く。
「何を申すか────」
「過ぎたことも……先のことも……そして今も…………総ては同じ所にあるもの…………しかし、どうして先のことばかりが不確定なのか…………私にはそれが不思議でした。定まっていないのではありません。存在しないのです。我々は先を見たつもりになっているだけ…………見たい未来を思い描いているに過ぎませぬ」
御簾世は、御陵院家の〝教義〟を否定した。
有り得ない事。
麻紀世はそう思うことしか出来ない。
それを〝受け入れる〟可能性を、無意識に排除した。
それなのに、麻紀世は何も返せないまま、御簾世の言葉が続く。
「私は元々、ここを継ぐつもりはありませんでした。正直、今も気持ちは定まっておりません。姉様が私の嫁ぎ先を見付けて下さった時、実は安心したのです。もちろん今となっては母上の決められたこと…………それは受け入れましょう…………しかし麻紀世姉様…………〝清国会〟は……私の〝想い描く未来〟には存在しません」
──…………負ける………………
そう感じた。
──……これが……母上の〝求めていた未来〟…………
麻紀世はこれまで〝畏敬〟という感覚を抱いたことがなかった。自分の師でもある母の蓮世に対してもそうだった。自分は母よりも能力が高いと信じて疑わなかった。
もしかしたら、それは今でも変わらないのかもしれない。
しかしその蓮世は、麻紀世が信じる〝清国会〟を否定し、麻紀世が見抜けなかった御簾世の〝力〟にも気が付いていた。
──……清国会の存在が無かったとしても……御陵院神社を継ぐのは…………
「麻紀世姉様…………亥蘇世姉様が…………お待ちですよ……」
──……これは〝畏敬の畏れ〟ではない…………〝恐怖の恐れ〟だ…………
怖かった。
そして麻紀世は初めて気が付いた。
淡い蝋燭の灯火の中で、それが〝見えた〟。
──……目の、色が…………
蝋燭の揺らぎの為か、いつからなのか、御簾世の両目が、赤い────。
しかも、右目より左目のほうが赤く見えた。
──……暗いからか……蝋燭の為か…………
──…………人では無い…………〝物の怪〟だとでも………………
〜 あずさみこの慟哭 第一章「聖者の漆黒」
第二部「回顧」第3話へつづく 〜