第一章「聖者の漆黒」第一部「回起」第2話
杏奈がオカルトライターの仕事を請け負い始めたのは年が明けてから。
まだ半年程度。
よく仕事を回してくれる雑誌社からの話が最初だった。フリーになる前、他の雑誌社に勤めていた頃からよく出入りしていた所でもある。
オカルト系への知識も元々はほとんどなかった。せいぜい地元で有名な心霊スポットくらいはさすがに聞いたことがあるという程度。むしろ戦場ジャーナリストだった父親の影響か、目に見えないものよりも目の前の現実をどうファインダーの中に描くかのほうに興味があった。
西沙との出会いで興味を持って調べ始めると自然と知識も溜まる。あからさまに怪しげな都市伝説よりも、実話怪談的なもののほうが興味が湧いた。加えて全国の心霊スポットにも詳しくなっていく。今ではちょっとしたオカルトマニア。
そういった話を集め始める中で、やがて辿り着いた噂。
〝風鈴の館〟────。
最初にネット上でその話が出回り始めたのは一年近く前のこと。
発端の事件のすぐ後。
その事件は小さなものだった。地元の新聞でのみ見付けることが出来たほど。そういう情報を集めるのは杏奈の仕事柄難しくはない。
しかも地元ネタ。取り上げない理由はない。
事件とは言っても、警察の最終的な発表は〝自殺〟。しかしその最終発表前の状況の説明が不可解だった。そのためか、未だ警察も他殺の可能性を捨てきれてはいない。
元々その場所は古くから〝自殺の名所〟としても有名な深い森。一応古くに整備された遊歩道はあったが、以前から悪い噂ばかりが先行し、今では山歩きを楽しむような人もいなかった。オカルト好きにとっては恰好の〝心霊スポット〟。森に入る人は自殺者か肝試しの若者。最近では動画配信者も加わった。
年間を通して五名前後の自殺者が見付かる場所。
地元の消防団を交えた捜索隊にもルーティーンが出来ていた。
特別、自殺を防止するために地元が大きな対策をしているわけでもない。自殺者向けの看板はあるが、むしろ黒い噂に拍車をかけるだけ。森の周りは幹線道路。古いとは言っても柵が森の周りを巡り、遊歩道の入り口が森の入り口ということになってはいたが、入ろうと思えばどこからでも入ることは出来た。
自殺希望者を監視するために一応の監視カメラがやっと設置されたのは二〇年ほど前の事。それでも入り口だけ。歩いてこれるような場所でもない事に加え、車を停められる場所がそこしかなかったからでもある。
とはいえ、どこからでも森に入ることは出来る。
それなのに、自ら命を絶とうとする者はなぜか入り口から森に入った。
遊歩道に沿って歩けば、やがては同じ入り口に辿り着く。入った人が出て来なけば、警察に捜索願が出されていなくても捜索隊が作られる。最初は警察に監視カメラの報告。しかし決して大人数の編成ではない。
そして、そのほとんどの場合、事実として自殺者が見付かる。
その森は、そんな場所だった。
それでも、一年前の自殺者の発見は不可解だった。
捜索隊が辿り着いた場所は、突然の開けた場所。何度も森の中に入っている捜索隊でも、誰一人としてそんな場所を知っていた者はいなかった。
そしてそこにあるのは古い屋敷。
立派な日本家屋。
その場の全員が唖然とした。森の中にそんな屋敷があるなど、誰も想像してはいない。
さらには、その場に似つかわしくない〝音〟。
小さく、波のような〝音〟が空気を震わしていた。
捜索隊の一人が気付く。
風鈴の音────。
夥しい数の、風鈴の音────。
屋敷の中、総ての部屋、総ての天井から大量の風鈴が吊るされていた。
その音から逃げられる所はどこにもない。
そして、一階の大広間と思しき広い板間の部屋で、行方不明者の首吊り遺体が見付かる。
しかし、その遺体は何者かによって紐を解かれ、床に綺麗に横たえられ、穏やかな表情をしていた。
☆
「その警察からの情報、信用出来るの?」
そう言うと、いつの間にか美由紀がテーブルの上に置いたガラスの冷茶用ポットから、西沙は空になった自分のグラスに麦茶を注いだ。ポットをテーブルに戻すと再び杏奈に目を向ける。
その目に応えるように杏奈が口を開いた。
「嘘はつかないと思いますよ。元々、まあ、もう何年にもなる間柄なので」
言いながら杏奈の目が泳ぐ。
「へー、杏奈にもそういうことあるんだ」
西沙は軽く返したつもりだった。決して知り合いとはいえ人のプライベートに深く関わる趣味はない。もっとも、自分自身が他人に詮索されるのを嫌っていたからというのもあるだろう。
それでも、無意識にアンテナを張ってしまう。本来なら誰に対しても無闇に相手の内面が見えるわけではない。さらに言うなら、意識することで見えるようになることのほうがほとんど。もちろんそれは自分の〝力〟をコントロール出来るようになってからのこと。今では当たり前のように扱っていた能力だったが、杏奈の予想だにしていない言葉に、西沙もつい、コントロールを失う。
少しだけ、見えた。
〝男〟であるということと、その〝関係性〟。
「あります。というより、ありました」
杏奈も西沙に隠せないことは分かっていた。反射的に視線をズラす。
それはまだ、杏奈が会社員として雑誌社に勤めていた頃。
仕事の関係で東京方面に行くことが多くなっていたことが、総ての始まりだった。
杏奈にとっては嫌な過去。
決して気持ちのいい過去ではない。
相手の男────佐々岡亮一。
警察庁勤務。警視総監の孫として、いわばエリート組。
二人はとある事件をきっかけに不倫関係になって二年ほど。もちろん杏奈は分かっての関係だった。決して家庭のある佐々岡に結婚を求めるわけでもなく、いつまでもというわけではないことは理解しながらも続いていた関係。
そんな頃に杏奈に回ってきた情報は雑誌社でも議論がされたものだった。しかもマスコミ各社の中でもその扱いは慎重にならざるを得ないネタ。
それは警察庁内部での、誤認逮捕の揉み消しの事実。
よりによって、と杏奈が思ったのも無理はなかった。しかし杏奈の中にそれを記事にしないという選択肢はない。会社が決めたことでもあるが、何より杏奈自身が記事にしたかった。
雑誌社も決して杏奈と佐々岡の関係を知っていたわけではない。杏奈も佐々岡を巻き込むべきか悩んだ。しかし、現実的に佐々岡はもっとも内部の情報に切り込める存在。佐々岡からの情報は間違いなくスクープに繋がるだろう。
そして、警察庁の内側に入り込むことは今も昔も簡単ではない。
「バレたら俺は終わるぞ」
当然、佐々岡にはそう返される。
いつもの密会の後、佐々岡は車を運転しながらも珍しく声を荒げた。
「俺が誰の孫で誰の息子か知ってるだろ⁉︎ ウチは警察一家だ…………バレたら俺だけの問題じゃなくなるんだぞ」
もちろんそんなことは杏奈も分かっている。しかし気持ちが動く。いくら自分の所に回ってきた仕事とはいえ、このまま見過ごすことは出来なかった。しかも問題になっている冤罪事件は複数の県に跨った連続殺人事件。それゆえ警察庁が直々に出張っての結果。そしてこのままでは無実の人間を国家機関が裁くことになる。
それでも佐々岡の珍しい態度に、杏奈は僅かに萎縮して応えていた。
「じゃあ…………知らないフリをすればいいの?」
「俺を絡ませないなら好きにしろ。内部に入り込むのは難しいとは思うが…………」
「だから頼んでるんでしょ⁉︎」
反射的に杏奈が声を上げる。
「自分に火の粉が降り掛からなきゃそれでいいなんて…………あなたは冤罪の犠牲者より自分の保身のほうが大切なの⁉︎」
──……これは言っちゃダメなやつだ…………
杏奈の世界では嫌われるものの一つ────〝感情から来る言葉〟。しかしそれはどんな人間関係でも同じこと。
それでも佐々岡は冷静に応えた。
「……それが組織ってものだ」
「大した警察庁ね。あなたに警察官の資格はないわ」
一度溢れ出した言葉は簡単には止まらない。
やがて、車が杏奈のアパートの近くで停まる。いつもアパートの前までは行かない。秘密の関係ではそのくらいが丁度いい。
何かを言いたくても、お互いに口を開けない時間が続く。
そして、最初にその口を開いたのは佐々岡だった。
「……どこまで情報を流せるか分からないぞ…………」
その佐々岡の言葉に、杏奈の目の前が僅かに明るくなっていく。
「可能な範囲で…………後は自分で何とかするから……」
「一週間、時間をくれ……いつも通りこっちから連絡する」
やがて、その情報を元に書かれた記事は世間を騒がした。
警察庁幹部数名の辞任に発展するが、内部で佐々岡から情報が流れたことが発覚したことは報道にならないまま。そのまま佐々岡は地方県警の盗犯課への移動を命じられる。
そして、二人は距離を取り始めた。
杏奈は、自分がまっすぐ過ぎることを自覚しながらも、同時にそれを変えられない自分を恨んだ。
それから数年。
自分も変わったと感じながら、やはりあの頃の感覚が捨てられない自分もいた。
無意識の内に過去が浮かび上がる。出来るだけそんな感情を西沙に見られまいと、杏奈は視線を外し続けていた。
西沙もそれを感じ取ったのか、出来るだけ話を進めようと言葉を繋ぐ。
「でも物的証拠が無さすぎるよ。ネットにその屋敷の動画でもあれば別だけど」
杏奈も平静を装うように即答した。
「そうなんですよ…………事実として遺体は見付かったのにその屋敷の写真や動画はネット上に存在しないなんて、ただの作り話って言われても仕方ないですよね。なぜか誰もその屋敷に辿り着けないなんて……」
事実、多くの人間がオカルトネタに乗じて屋敷を探しに森の中に入っていたが、誰も、なぜかそこには辿り着けないまま。しかし皮肉にも、それが噂を大きくしていた。
「でも捜索隊は実際に屋敷で何度も遺体を見付けてるんです。ちなみにそこの動画って言われてネットに上がってるのはどれも偽物でした。さっきの警察の知り合いが言うには。本当に風鈴だらけだそうですよ。どの部屋の天井も。耳がおかしくなりそうだったって聞いてるそうです。もちろん知り合いが直接見たわけじゃないですけど、県警でもちょっとしたオカルト話になってるそうですよ」
「つまり警察と捜索隊にとっては、その〝風鈴の館〟ってのは実在する所なわけだ」
「間違いないですね。作り話をするメリットがありませんよ。でも〝風鈴の館〟を探しに行くと見付けられないって感じです」
その杏奈の言葉に、西沙の目が無意識に鋭くなっていた。何かが繋がり始める。それまでバラバラだった情報が、少しずつ纏まり始めていた。
その西沙が口を開く。
「どの部屋の天井も風鈴だらけなの? じゃあどこで首吊るのよ」
最初に見付けた穴を、一つずつ杏奈からの情報で埋めていく。
「今でいうリビングみたいな所かもって言ってましたけど、広い板間があるんだそうです。そこに何本か太い梁があってそこで紐とか……いろんな紐だそうですけど……って感じだそうです。でもその後に誰かに降ろされたとしか考えられないんだそうです」
「つまり、検死解剖の結果は間違いなく首吊り自殺だっていうのね?」
「です」
「死亡した後に紐が解けて落ちた可能性は?」
「紐は誰かに解かれた形跡があるそうです。しかも自然と落ちたなら、あんなに綺麗な寝姿はありえないと」
「だから警察としては事件性を捨て切れないわけか」
「殺人を自殺に見せかけようとするなら分かるんですよ。でもこの場合、第三者がいると仮定すると、自殺させた後にわざわざ紐を解いて床に寝かせてるところが不思議なんです。第三者の介在の形跡をワザと残してる。意味も目的も分かりません」
「だねえ……」
西沙は小さくそれだけ応えると、目の前の水滴だらけのグラスを見つめていた。
そして続ける。
「つまり、その屋敷は……屋敷を探すだけの人には見付けられないのに、自殺者の遺体を探す人には見付けられるわけか…………優しいオカルトだ…………いいね」
しかし、西沙の表情は決して明るくはない。
自分で霊能力者の道を選んだ。体質的、周囲の環境的にそれしかないと思っていた。そして何度もオカルト的な事象に関わってきた。
そして思う。
──……嫌だな……リアルタイムに誰かが死んでる話は…………
西沙の表情の静けさに、杏奈も変化を感じていた。しかし西沙の心の内は見えない。何も返せないまま。
そして、言葉を繋いだのは西沙自身。
「で、いつもなら不思議なオカルトネタで終わるのに、警察の知り合いに話を振ってみたらリアルな部分が多くて興味が沸いてここに来たってこと?」
西沙の視線と口角が上がる。
杏奈の目が、それを捕まえた。すかさず、少し前のめりに杏奈が言葉を返していく。
「どう考えたって後は西沙さんの分野じゃないですか」
しかし杏奈とは逆に背を引いた西沙の反応はあくまで現実的。
「どうだろうなあ……不思議な話も既成事実を淡々と並べていくと不思議でもなんでもないことって実際あるよ。ここに持ち込まれる依頼だって心霊現象と関係ないことだってあるし……」
「そうなんですか?」
「オカルトライターだったらそこら辺も押さえておきなさいよ。森の中でラップ音だとか言われてもさあ、何も音のしない森のほうがおかしいよ……マンションでラップ音が酷いって調べてみたらウォーターハンマー現象だったり……オーブなんて海外の霊能力者が昔のテレビ番組で言ったのが最初なんでしょ? それまで日本の霊能力者は光を反射した埃を幽霊だなんて言ってなかったわけだしさ……カメラにしか写らない時点で分かるようなもんなのに…………オーブなんて言葉を口にしてる霊能力者はみんな偽物。〝私たちの世界〟を知りもしないで…………」
いつの間にか西沙の口調が変化していた。月に一度ほど、杏奈が来た時に始まる愚痴タイムのもの。
「はあ……西沙さんにも色々あるんですねえ」
杏奈もいつも同様に応えながら、懸命に話題のズラし先を探る。
しかし収束させたのは西沙自身。
「さすがにあんな依頼じゃお金もらえないしね…………それに比べたら、今回の話って確かに興味はある。とは言っても、そもそもどうやってそこに行くのよ。自殺希望者かその捜索隊でもなきゃ見付けられないってことになってるんでしょ?」
杏奈の応えは早い。
「はい。今日もその捜索隊が警察と動いてます」
「今日⁉︎ だから今日来たの?」
目を見開いた西沙に対して、杏奈は口元に笑みを浮かべて返した。
「今日が捜索二日目です。まだ発見の報告は入ってません。森の中に入ったまま一週間以上だそうです。もちろん遊歩道から逸れた可能性は否定出来ませんけど────」
「それとも……監視カメラ見てる人も〝勘〟ってあるんじゃない? 自殺する人の雰囲気って……やっぱり違うからさ…………」
「なんとなくってヤツですか?」
「まあね」
「元々あの森は、自殺者が多いことで有名でしたからね。そこに一年くらいまえから〝風鈴の館〟の噂がプラスされて…………」
そこに、西沙が疑問の一つを杏奈に向ける。
「最初の情報って、やっぱり捜索隊の誰かから?」
「みたいですね。地元の消防団とかボランティアとかですから、情報はいくらでも流れると思います。あんな森の中に誰も知らなかった屋敷が見付かれば確かに不思議だったんでしょうね。誰かに喋りたくもなりますよ。でも警察じゃないから写真は無い。さすがに私でも警察の捜査資料の写真までは入手出来ませんし…………」
「それなのにそこを探しに行っても見付からないから話が膨らんだってことか。今まで、その屋敷で見付かった自殺者の遺体は何人?」
「一五人です。今回見付かれば一六……」
「いつもは何人なの?」
「毎年五人前後だって聞いてます」
「確かに多いな…………で、これは正式な依頼? お金掛かるけど」
「友人価格の後払いでお願いします」
応える杏奈は覚悟していた表情。実際に警察も絡んでいる案件だけに杏奈も小さな話で終わるとは思っていなかった。今まで西沙に振った話とは規模が違うと、なんとなくだが杏奈も感じてはいた。
そしてそれは西沙も同じ。
その西沙が立ち上がり、杏奈を見降ろして口を開いた。
「まあ払えない時は体で払ってもらえばいいし、早速連れてってよ。捜索隊に合流するんでしょ?」
「……? …………からだ……?」
☆
地元とはいえ、その森は中心の街から車で一時間以上は掛かる場所。
辛うじてまだ昼前。
外の気温がどんどんと上がる中、エアコンを全開に回した杏奈の車が爆音を響かせて急いでいた。
すでに街中からはだいぶ離れていたが、道路がまだ舗装道路であることが救いだろう。杏奈の話では山を一つ超えた先にあるとのこと。それでも決して大きな山ではない。格段に山道というわけでもなかった。
「それにしたって…………」
杏奈が運転の合間にそう呟き、横目でチラチラと助手席の西沙に視線を送った。
そして何度目かの同じ言葉を投げ掛ける。
「ホントにそんな格好で大丈夫なんですか? 山ですよ。森ですよ」
「派手な格好のほうが宣伝になるでしょ。警察のほうにも合流するって連絡したならジャージなんてカッコ悪い格好で行ったら失礼ってもんだし」
応えた西沙は相変わらずの黒いゴスロリ姿。とても山の中の森を目指している人間の服装には見えないだろう。
溜息を吐いた杏奈が言葉を繋げる。
「とは言っても……森の中歩くのにフリフリのゴスロリって…ボロボロになりますよ。足だってそんな白いストッキングだけじゃ傷だらけになるし────」
「……ま、まあ、とりあえずその廃墟が見付かるまでは任せるわ」
西沙が応えながら外に視線を逸らした。
「それじゃ意味ないですって。だから途中で何度もジャージ買おうって言ったじゃないですか」
その言葉に杏奈の再びの溜息が続く。道中で買ったのはコンビニのコーヒーとスナック菓子だけ。
その溜息に西沙が応えた。
「私はジャージで出歩くようなセンスのない人間にはなりたくない」
「それは同意しますけど、知りませんよ。山ですよ。森ですからね」
やがて到着したのは遊歩道の入り口。
すでにパトカーが一台。その他は消防団のメンバーの物と思しきワンボックス車が三台。今回は捜索願いが出されての動きではない。決して大規模な捜索活動ではなかった。遺体が見付からない限りはまだ救急車を呼ぶわけにもいかない。
パトカーの側に群がっているのは一〇人程度。
運よく捜索の開始前に合流することが出来たが、問題は別にあった。
「待て待て、なんだアンタらは」
突然入ってきた部外者の車に、若い警官の一人が慌てて駆け寄る。
杏奈がそつ無く対応していく。
「石塚巡査長にお話は通ってるはずですが……こういう者です」
話しながら車のドアの窓を開けて名刺を手渡した。纏わりつくような重たい空気が車内に入り込む。
警官は怪訝な表情でその名刺に目を通すが、すぐに声を張り上げていた。
「フリーか……巡査長!」
警官が顔を向けた先、パトカーのボンネットに紙の地図を広げていた一人の中年警官が振り返る。インターネットの時代とは言え、未だ紙の地図にも需要はあるようだ。そしてさらに、少し離れていても、その声色にいい印象はない。
「ああ、県警から電話あったヤツだろ。なんだってマスコミなんか……」
この森の捜索隊の隊長を勤めてすでに一〇年以上。石塚巡査長と言えば、地元の小さな町の中で知らない者はいないだろう。
その石塚が近付いてくるのに合わせて杏奈が運転席を降りた。
それに釣られるように西沙が助手席を降りると、付近の全員が西沙の服装に反応する。すぐに声を上げたのは石塚だった。
「おい待て。そんなチャラチャラした格好で山の中に入れるわけないだろ」
無理もない。捜索隊の全員が短くても足が完全に隠れる長さの長靴。ツナギのようなものを着ている隊員もいる。そんな中でフリルに包まれた黒いゴスロリの西沙の存在は違和感しかない。スカートであるだけでなく白いストッキングに黒いローファー。森の中を歩く捜索隊としては何一つ許せるところはないだろう。
「二人とは聞いてたが……そんな格好でどこに行くつもりなんだ」
呆れ顔の石塚が大きな溜息を吐くと、それに合わせるのは杏奈だった。
「ほらやっぱり」
「だって」
そんな小さな西沙の声を再び杏奈が潰す。
「だってじゃないです」
そんな二人のやりとりを無視し、石塚が声を張り上げた。
「誰か消防の……松戸さん! この姉ちゃんに着せる服、なんかねえかな」
石塚が視線を向けた先。
数人の消防団員の塊から声。
「最近のマスコミにはそんなのもいるのか」
返ってきた声は消防団員の松戸。大柄の体にいかつい顔が西沙と杏奈に大きな威圧感を与える。そしてその威圧感が二人に近付いた。
「わざわざ服装まで指示してやらなきゃねえとはな」
続く松戸の声。
しかし西沙も口では負けない。
「そんなのって言わないでよ。私は霊能力者です! マスコミと一緒にしないで!」
「そのマスコミと一緒に来たじゃねえか」
そう返した松戸の顔が少し緩んだ。
杏奈は誰から見ても典型的なマスコミの人間。Tシャツにジーンズ、アウトドア用のハイカットブーツに大きなカメラバッグ。確認するまでもない。
松戸の雰囲気の変化か、途端に空気の威圧感が和らぐ。僅かな目元の表情だけで人間の印象は大きく変化する。特に目元は顕著だ。感情に左右されやすい。
「それはそれでしょ」
西沙がそう返すと、松戸の口元までが緩み始めた。見た目の割に印象は悪くない。ついさっきとはまるで違う。
その松戸は口調までが変化していた。嘘の付けないタイプだろう。少なくとも西沙と杏奈はそう感じた。
「にしたってその格好で山に入ると足手纏いにしかならねえ。担架がもう一つ必要になるしな」
そう言いながら松戸が車まで戻るが、次に振り返った時には満面の笑みを浮かべていた。両手で、全身が隠れそうな、いわゆる〝ゴム長〟を持ち上げ、楽しそうに西沙に近付く。
その松戸が口を開くよりも早く西沙が声を張り上げていた。
「ちょっと! ウソでしょ⁉︎」
松戸の笑顔は収まりそうにない。
「足を傷だらけにしたくなかったら諦めな。俺のお古だけどよ」
「臭いでしょ⁉︎ 絶対臭いからダメ!」
数分後、杏奈に説得されて着替えた西沙に、その杏奈は背中を向け続けていた。
絶望感にも似た西沙の声が低く響く。
「……にしたってこれはないでしょ⁉︎ 大き過ぎてブカブカだし!」
「そのフリフリの服の上に被せるには上等じゃねえか。ここには更衣室なんかねえしな。丁度いいのがあって良かったぜ」
すでに西沙は松戸に言い返す気にもなれないまま、杏奈の背中に声を投げた。
「ちょっと杏奈。背中向けて笑い堪えるのやめてくれる?」
☆
森に入ってすでに一時間も経っただろうか。
気温も時間経過に合わせて上がってはいたが、唯一の救いは森の木々に囲まれていたことだろう。木々の作り出す影と水分の染み込んだ土のお陰か、体感温度は間違いなく街中よりも低い。そうは言っても快適とは言い難かった。整備もされず、ほとんど人が歩くことのなくなった遊歩道は歩きにくく、全員の疲労を蓄積させていく。
しかも湿度は高いまま。
その遊歩道を起点としてさらに森の深い所へと入っていくが、もちろん足元は草木で見えないほどに深い。左右に広がるようにして隊員が歩き続け、捜索が続いていく。誰かが足を進めるたびに広がる土の匂い。空気と共に前日までの雨が地面から押し出され、その匂いが草木の香りを広めていった。
広がり続ける太い木々の羅列。規則性の無いその自然の作り出す光景からは、とても開けた場所があるようには思えなかった。視界の先には遥か先まで様々な太さの木々が立ち並ぶだけ。
遊歩道を外れるとどこにも道と言える所はない。
一人一本ずつペットボトルの水が渡されてはいたが、初めて参加する西沙と杏奈にとって難しいのはその配分だ。どのくらいの時間が掛かるのかも分からない。ハイカットブーツにジーンズの杏奈ならいざ知らず、ゴスロリ衣装の上に胸までゴムで覆われた西沙にとって暑さと動きにくさは不快そのもの。
──……ゴム臭いし…………
中に汗が溜まっていくのが分かる。
──……絶対にゴム以外の匂いもするし…………
汗の量に比例するように、飲み水の消費量は人一倍だった。
しかし疲労が解消されるわけではない。そんな西沙が足を止め掛けた時だった。
小さく。
何かが西沙の耳を掠める。
空気を震わせる、音。
小さく。
まるで波のようにその音は繰り返し西沙の耳をくすぐる。
次いで耳に届いたのは、西沙の前を歩いていた松戸の声。
「出てきたぜ」
疲れよりも、西沙はその言葉の真意に気持ちが揺らいだ。
松戸の声が続く。
「アンタらのお目当てはあの廃墟なんだろ? 行方不明者がそこにいる保証はないがな」
顔を上げると同時に西沙は駆け出していた。草に足を取られながらも、目の前の木々の先が開けているのが見え始めると、もはや気持ちだけが逸る。
草の匂いが広がる。
そうしている間も小さな音は響き続けた。
西沙の横を歩いていた杏奈も同じ気持ち。
噂だけだった〝風鈴の館〟がもう少し。オカルトライターとしてこれほど嬉しいことはない。しかもオカルト関係者では初めてだろう。撮影が出来ればスクープであることは間違いない。
やがてそんな杏奈の目の前には、仁王立ちするかのような西沙の背中。その肩が大きく上下に動いていた。
鼻をくすぐる匂いが僅かに変わる。
森の匂いに混じる、小さな、人の営みの香り。
確かに、そこは開けていた。
誰かが管理しているとしか思えない、短く刈られた草が広く続き、そして、その〝屋敷〟があった。
平家のように見えるが、何より大きい。
立派な日本家屋。
想像していた物よりも明らかに大きなその御屋敷に、しばらく杏奈も口を開けたまま言葉が出ない。
その横で、西沙が乱暴にゴム長を脱ぎ始めていた。
その音に我に返った杏奈がやっと口を開く。
「西沙さん! それは帰りも使うんですから────」
その言葉を遮るように西沙が一歩地面を蹴ろうとした時、その肩を押さえたのは松戸だった。
「待ちな姉ちゃん。こういう廃墟ってのは野生動物が入り込むってこともある。俺たちが調べるまでは待ってろ」
ここ一年ほど、必ずこの屋敷で遺体が見付かっている現実。誰もが遺体を見付けたいわけではない。しかし確かにここで見付かる。
またここだろう、という諦めにも近い感情。
その感情が、周囲を埋め尽くす〝風鈴の音〟に掻き消されていく。
何人もが屋敷に上がっていく。屋敷の板戸はあちこちが開け放たれたままだった。雨風に晒されているにも関わらず、崩壊している様子もない。
──……やっぱり……誰か管理してる?
そう感じるためか、誰もが靴を脱いで屋敷に上がっていた。
「いました!」
屋敷の奥からの声。
「いいぜ。やっぱり見付かったようだ…………」
横からの松戸の言葉に、西沙は反射的に返していた。
明らかに西沙の態度────口調が変わる。
「……探してたのに……見付かれば嫌なものね…………」
「きっといつもの部屋だ……」
松戸はそう言って一歩だけ進むが、足を前に進めない西沙に顔を振る。
少し考えるように間を空け、続けた。
「……俺は霊能力者の知り合いなんていたことがねえが、みんなアンタみたいに派手好きなのか?」
すると、西沙が途端に口元に笑みを浮かべて応える。
「まさか……目立ってていいでしょ」
西沙がゆっくりと歩き始めると、少し強めに風が舞った。
それに呼応するかのように大きくなる風鈴の音。
辺りを包むその音に、その光景を見ていた杏奈は不思議な感覚を感じずにはいられなかった。
松戸に続いて西沙と杏奈は真っ直ぐ大広間へ。
板戸も襖も開け放たれているためか、埃の匂いは僅かしか感じない。
古い日本家屋は風の通りがいい。とは言え想像以上に綺麗だった。
捜索隊にとってはいつもの同じ部屋。
話には聞いていたが、それは確かに不思議な事実。
廊下の天井にも夥しい風鈴が下がる。
そして当然のように、その音も無数。
しかし西沙は、なぜかうるさくは感じなかった。
心地良いというのとも違う。
建物中を埋め尽くす風鈴など見たこともないし、そんな環境での無数の風鈴の音など聞いたことがない。しかし、なぜか受け入れている自分がいる。不思議と嫌ではない。
やがて辿り着いた大広間。
広く開けられた板戸のせいか、陽が差し込み、風が渡り、さらに広く見えるほど。
畳で言うと何畳分の広さになるのだろう。かなり広いことだけは間違いない。そんな大広間の一角に石塚を中心に数名の警察官。その内の一人の警官はカメラを手にしていた。
松戸が廊下で足を止め、西沙と杏奈が中へ。
それに気が付いた石塚の声が届く。
「霊能力者の姉ちゃん、死体を見たことは? まあ、こいつは綺麗なもんだがな。しかもいつもだ……」
西沙は舐められまいとするかのようにすぐに返していた。
「これでも神社の娘ですので色々と見てきましたけど……」
「霊能力者が死人を怖がってるんじゃ仕事にならんか」
神社の産まれだからといって遺体に慣れているわけではない。現代の日本で神式の葬儀をする人はほとんどいないだろう。まして西沙の産まれ育った御陵院神社は〝憑きもの〟や〝祓い事〟専門。神事の最中に気が触れたようになった人は何度も見てきたが、死人と触れる機会はない。
まして自殺者の遺体となれば、普通に生活する中で目にする機会はほとんどの人がないだろう。それは西沙も同じ。
しかし、西沙は別の形で幼い頃から〝見えない人々〟と関わってきた。
恐れる理由はない。
むしろこういった光景に慣れているのは杏奈のほうかもしれない。最近でこそなくなったが、会社勤めの頃は様々な事故現場に行かされた。
それでも、不思議と杏奈の気持ちは沈み始める。やっと見付けられた〝風鈴の館〟。しかも総てが話に聞いていた通り。天井には大きな梁。しだいに近付く遺体は、確かに綺麗に横たわっている。
それでも〝事故〟と〝自殺〟は違う────それを杏奈はまざまざと感じていた。
──……こっちの気持ちまで沈む…………
杏奈はカメラバッグからカメラを取り出すことすら出来ずにいた。それが自分の〝弱さ〟であることは杏奈自身も自覚するところ。
そんな中で、二人の背後から聞こえるのは松戸の声。
「死人でも遺体でもねえよ。見付かったら〝仏さん〟さ……最近は多い時で月に二人から三人……慣れないようにしてるつもりだが、つい気持ちが緩んじまう……姉ちゃん、もしも何かが分かるなら、俺たちも知りたいのは事実だ。確かにここには不思議なことが多過ぎる」
その言葉に、西沙は天井を見上げた。
確かに風鈴が下がっていないのは二本の太い梁だけ。
「杏奈」
西沙はそう言うと、天井を見上げたまま続けた。
「この屋敷の写真を資料として記録してくれる? 〝仏様〟以外ね」
「そうですね。分かりました」
杏奈はやっとカメラを取り出す。
西沙は松戸に振り返った。
「廃墟っていうわりには綺麗ね……何度も来てる内に皆さんで?」
「何度も仏の搬送をしてる内に自然とな。元々家具らしい物もなかったが……大き目の神棚みたいなのはあったか…………」
「神棚?」
「最初は仏壇かと思ったよ。普通は神棚って上の方に棚作って置いてあるだろ? 違うんだ。板間の部屋に〝祭壇〟みたいに置いてあってよ」
──…………祭壇?
「どこ? 案内して」
松戸の案内で辿り着いた部屋は、決して大きな部屋ではなかった。それでもそこに鎮座する物を見た西沙はすぐに結論付ける。
煤の染み付いた匂い。
左右の小さな燭台と、中央にある大きな燭台。
その燭台の向こうにある大きな祠。
その中にある丸い鏡は、今は燻んだまま、何も映し出してはいない。
──……小さいけど間違いない……祭壇だ…………
神社で産まれ育った西沙に分からないはずがなかった。
──…………ここって………………
「西沙さん」
背後からの杏奈の声に、西沙は不意を突かれたように現実に戻される。
「そろそろ御遺体の搬送だそうですよ」
杏奈はそれだけ言うと廊下に足音を響かせた。
軽く溜息を吐いた西沙は無言で松戸に続いて部屋を出るが、やはり祭壇のことが気に掛かる。
──……どういうこと…………?
前を歩く松戸に、西沙は言葉を掛けていた。
「最初にここが見付かってから一年でしょ? どうしてそれまで誰も存在を知らなかったの?」
「さあな、元々が深い森だ。遊歩道って言ったって満足に整備もされちゃいない。山登りのためにここに来る人なんか何十年もいないってのに、それでも入って行くのは帰るつもりのない連中ばかりだったってことなんじゃないのか」
元の部屋に入りつつ、松戸の声が続く。
「地元の年寄り連中も誰もここを知らなかったしな」
どこから聞こえていたのか、そこに挟まったのは先に戻っていた杏奈だった。
「でも衛星写真でもこの屋敷は見付からないんですよ。こんなに周りが開けてるのに」
それを松戸が拾う。
「ってことはやっぱり……霊能力者の出番ってことなのかもな」
すると、担架に乗せられる遺体を見下ろしながらの石塚の声が届いた。
「……何かは……あるんだろうな……意味なのか理由なのか…………」
半ば呆然とした石塚のその声に、西沙は担架に近付く。驚く石塚をよそに、担架の横で膝を落とした。
「ごめんなさい。仏様のお顔を見せてもらってもいいですか?」
遺体はすでに担架の上で白い布を被せられていた。消防隊員の一人が石塚に視線を送ると、石塚は小さく頷く。
そして白い布が捲られた。
首筋に紐の跡はある。
しかしその表情は穏やかだった。
目元、口元、決してそういった知識に詳しくない西沙からしても、とても苦しんで死んだ遺体には見えない。
──……よかった…………
西沙はそう思いながら手を合わせていた。
すぐその横に膝を下ろした杏奈も同様に手を合わせる。西沙は杏奈のそんなところが好きだった。ジャーナリストでありながら完全に一歩引くことが出来ない。ジャーナリストとしては失格なのだと、杏奈自身が言っていたのを西沙は忘れていない。だからこそ杏奈を見放せずにいた。本来ならジャーナリストに向いている性格ではないのかもしれない。
それでも、遺体を見て手を合わせるよりもシャッターを切るようなジャーナリストだったら、きっと西沙は杏奈と付き合ってはいなかっただろう。
西沙は再び白い布をかけた。
そして立ち上がる。
誰も何も言わないまま、担架が運ばれていく。
「霊能力者の姉ちゃん……」
それは背後からの石塚の声。
なんとなくそれまでとは声色の変化した石塚が続けていた。
「……さっき松戸さんも言ってたが、何か感じたりするのか? 俺は幽霊なんか真剣に信じたことはねえしそんな経験もねえ。でも……明らかにこれはおかしいだろ…………誰もこんな屋敷なんか知らなかったしな…………遊歩道の入り口からだって大した距離じゃねえ…………どうして突然現れた…………」
すると、杏奈も西沙の顔に視線を振る。
西沙は再び天井を仰いだ。
呼応するかのように風鈴の音が風に大きく響く。
西沙の小さな口が開いた。
「……この風鈴…………魔除け……?」
その単語に杏奈が目を見開いた。そして反射的に言葉を返す。
「魔除け⁉︎ 風鈴がですか⁉︎」
「うん……昔はそういう意味もあったみたい。風習みたいなものだから、みんながみんなじゃないとは思うけど…………って言っても、こんな風鈴だらけにするかな…………」
「何か……感じるんですか?」
そう聞いた杏奈の声は、不安もありつつ、やはり興味からの期待のほうが大きい。
しかし西沙は淡々と応えるだけ。
「……不安…………恐怖…………なんだろう……意味も理由も分からないけど…………誰か、いるね」
「誰か…………?」
「……うん…………」
〝 ようこそ 〟
──…………?
〝 風鈴の館へ 〟
──………………あなた……は…………?
「────西沙さん?」
杏奈の声が、西沙を現実に繋ぎ止める。
──…………誰の声?
次の刹那。
いつの間にか途切れていた周囲の音が再び耳に届いた。
西沙の意識を波のような風鈴の音が埋め尽くす。
──……誰の声なの…………?
外からは松戸の声。
「石さん、早目に降りよう。雲が広がってきたから一雨来るぜ。周辺じゃ今回も何も見付からんさ」
人が動く。
騒つきが広がる。
それに被さるのは杏奈の声。
「西沙さん? どうします? みんなもう────」
「いいよ」
遮った西沙が、天井の風鈴を見上げて続ける。
「────……また来る」
杏奈は、その言葉が誰に向けられているのか分からなかった。なぜか自分ではないような、そんな気がする。
──……誰と話してるの?
「…………必ず…………」
その西沙の声は、小さかった。
〜 あずさみこの慟哭 第一章「聖者の漆黒」
第一部「回起」終
第二部「回顧」第1話へつづく 〜