第一章「聖者の漆黒」第一部「回起」第1話
雨。
────雨の音が聞こえる。
嫌いではない。
外に出るとしたら傘を持たなければならない。荷物が増える。それは面倒。
遠くに行く必要があれば車。通常の運転より視界は悪くなる。いつもより神経を使う。
でも、雨の音は好きだった。
いつの間にか。
いつからかは覚えていない。
気持ちが落ち着くような気がした。
実際、特に夜の研ぎ澄まされた頃の雨が好きだった。
しかも、例え夜だとしても、雲の向こうから僅かに月の灯りが照らすはず。
いつもそれを願った。
しっとりと弱い雨。
窓を叩きつけるような強い雨。
何かに似たような、その音と匂いは、神経の張り詰めた私の毎日を少しだけ楽にしてくれたのかもしれない。
☆
しばらく続いた雨がやっと上がっても、その次の日はやはり湿度が酷かった。
それを強く感じ始める季節。
梅雨の終わりと夏の始まり。
少し前から、さすがに〝御陵院心霊相談所〟でもエアコンが動き始めていた。
元々が古い二階建ての小さなテナントビルの二階。エアコンそのものは古過ぎたので買い替えたが、外の室外機は予算的な問題で古いまま。音もうるさい。エアコン自体も買い替えたとはいえ中古。新品を買えるほど収支のバランスは理想的ではなかった。
唯一の従業員である事務員の久保美由紀に言わせると、パソコンにも暑さはよろしくないとのこと。蒸し暑いこの国の夏ではエアコンが望ましいということだった。
無機質な古い壁のいかにも事務所用のテナント。広い部屋の他には一畳程度の狭いシャワールームとトイレ。それに狭い給湯室代わりのスペースだけ。一応壁には小さな換気扇も備え付けられていることから、やはりそのための場所なのだろう。換気扇の下には一口だけのガスコンロ。元々残されていたものをそのまま流用している。小さな冷蔵庫には数日前から麦茶の冷茶用ポットが増えた。他には食べかけのチョコレートだけ。仕事で行った先からのお土産もすでに切らしている。
広い部屋の中央には小さな丸いカフェテーブルと、それを挟んだ二人がけのソファーが向かい合わせ。相談所の開設時にリサイクルショップで購入した物だ。それでも決してお洒落なタイプのソファーではない。どちらかというといかにもなビジネス向けの黒い合皮。
やはり無機質感は否めない。そのためか、床のカーペットから壁の装飾、カーペットまでがゴシック風の派手な飾り付けで埋め尽くされていた。
窓際には幾つもの小さな観葉植物のプランター。
室内の香りは月毎に変えていた。今月はジャスミン。日本語では茉莉花という種類らしい。
代表者である御陵院西沙の趣味だ。
その西沙はゴシックロリータの派手な黒い服に身を包んだままソファーの上に寝転がっていた。
入り口側の事務机からは、ソファーの肘掛けに乗せた西沙の両足しか見えない。その周りにスカートの黒と白のフリルがチラつく。そんな光景に向かって事務机のデスクトップパソコンを前にした美由紀は正反対に地味なほうだろう。少なくとも西沙にはそう見えた。しかし当の美由紀に言わせると〝派手ではない〟というだけ。背中まで伸びる長いストレートの黒髪の手入れを怠ったことはない。美由紀なりにお洒落にはうるさかった。ゴスロリを着せたい西沙との押し問答も一回や二回ではない。美由紀も興味が無いわけでなかったのは事実。
そんな美由紀がキーボードに指を滑らせながら声を掛けた。
「いつ電話が鳴るか分からないのに、そんなダラけた態度で大丈夫?」
すぐにソファーから返るのはダルそうな西沙の声。
「せっかくテレビに出たのにさあ……」
「愚痴は何度も聞いた」
美由紀の応えは淡々としたものだ。
西沙がテレビに出てからすでに半年以上。テレビと言っても西沙が霊能力者として関わった事件での記者会見の席。昨年の秋のことだ。西沙としては事件の解決の集大成としての記者会見というだけでなく、もちろん霊能力者としての顔を売りたいというのもあった。
もちろん全く反応が無かったわけではないが、それでも思ったほどの結果ではない。
「ゴスロリじゃダメだったかなあ……目立つと思ったんだけど…………」
「目立ったとしても、そもそもそんなに心霊現象で悩むような人が大勢いたら世も末でしょ。それだけだよ。幽霊信じてたって霊能力者を信じられない人だっているんだから」
美由紀は西沙とは高校時代からの友人。唯一の親友同士でもある。唯一遠慮なく話せる間柄。お互いに他はいない。それぞれがそれぞれの中で孤独に生きてきて、高校生という多感な年齢で出会った。惹きつけられた、ということとは違う。大事な存在であることは分かっていたが、少なくとも美由紀の中では、西沙はただの友人というだけでは言い表せない存在であることは間違いない。唯一、人生の中で自分を受け入れてくれたのが西沙だった。
それは西沙にとっても同じだったが、ただ一つ違うのは、西沙の中には明確に〝自分が美由紀を守らなければ〟という使命感があったことだろう。そのこと自体は美由紀自身は何も知らない。
「そうかもしれないけど…………」
相変わらず気怠そうに返した西沙が続けた。
「世の中には不思議なことっていっぱいあるんだけどなあ…………」
「それはまあ……確かにそうだけど……」
歯切れ悪く返した美由紀が口調を戻す。
「答えの分からないことだっても多いだろうし、人によって感じ方も違うってことだよ。目に見えないものだし……ただ感じるって言われてもね」
「またそういう懐疑的なこと言って────」
そう応えた西沙が上半身を起こした。
「まあ、見せろと言われて見せられるものばかりじゃないけどさ」
仕事柄か産まれのせいもあるのか、二〇歳にしては気難しい言葉を使う癖のようなところがある。
黒をベースに細かなフリルの装飾が施されたゴシックロリータに包まれたその見た目は小さい。西沙の身長は一五〇センチを少し越えたくらい。華奢な身体付きに小さな顔のせいで、服装しだいでは小学生に見られることもあった。それを誤魔化すためのゴスロリ衣装でもあったが、思うようにイメージの構築に結び付いてはいないのが現実。
〝うなじ〟が見えるほどに短く切り揃えられた短いストレートの黒髪が僅かに揺れると、やはり真っ直ぐに揃えられた前髪の下からは大きな目。
西沙は自分の、その〝目〟が嫌いだった。
以前は他人と目を合わせることが怖くて仕方のなかった頃がある。しかもそれは自分の〝力〟をコントロール出来るようになった今でもトラウマとして西沙を悩ませていた。
地元の大きな神社────御陵院神社の三女として産まれた。しかし中学の卒業間近に神社を追い出される。追い出されると聞くと無理矢理な表現だが、少なくとも西沙はそう感じていた。
真っ直ぐに前を見るその西沙の目に、美由紀が言葉を放る。
「それより、カラコンの在庫はまだ大丈夫?」
その言葉に、西沙の視線が向けられた。
美由紀は、その〝瞳〟が好きだった。
西沙の小さな口が開く。
「……んー……まだいいかなぁ…………」
「まだ……必要? やっぱり…………」
応えた美由紀の言葉が少し濁った。
人の目を見ることが出来なかったと同時に、慣れた人は別として、人に見られることも西沙は嫌う。それは今でも変わらない。ただの気休めとは思いながらも、初めてカラコンを付けた時の安心感は未だに西沙の気持ちを縛り付けていた。
「……嫌だね……こういうの……気持ちのどっかでは分かってるのにさ…………」
☆
────古い伝承があった。
その地方では一番の規模を誇る神社。
その社を護る一家の中で一番の〝力〟を持つ巫女がいた。
その巫女が新しい神社を作る。
理由は〝憑きもの〟もしくは〝祓い事〟専門の神社の立ち上げ。
そうして作られた御陵院神社は代々女系で引き継がれてきた。しかも必ず三姉妹。それが崩れたことはないという古い文献が残っている。
現在の代表である咲も、三姉妹の三女として神社を継いでいた。
二人の姉は別の神社へと嫁いだ。必ず一人が継がなければいけないというわけではなく、それまでは二人や三人で継ぐこともあった。
そして神社を継いだ咲も三人の娘を産んだ。
長女の綾芽、次女の涼沙、そして三女の西沙────一年違いで歳が近かったせいか、幼い頃は仲の良い姉妹だった。
咲の夫は婿養子。宮司ではなく、経営側の裏方として神社を支えていた。
過去の例に漏れず、咲の娘三人も幼い頃から勘の鋭いところがあった。その能力を維持させ、神社という特殊な環境でその能力を高めていくことが咲の仕事でもある。
ある時、一組の家族が神社を訪れた。
基本的に他の神社からの紹介がほとんどで、直接この神社にやってくる者は少ない。その家族も別の神社からの紹介だった。
お祓いではなく祈祷。家主が行方不明になったために探して欲しいとのことだった。嫁である妻と高校生の息子が二人。行方不明になっている夫の両親とで訪れる。警察に行方不明を届け出てすでに三ヶ月ほどが過ぎていた。
咲は出来るだけこういった神事には娘たちを付き添わせた。その日も小学生になったばかりの長女の綾芽を筆頭に、五歳の涼沙、四歳の西沙の三人は本殿の祭壇から少し離れた所で、少し大き目の子供用の巫女服に身を包んで一連の流れを見ていた。まだ三人とも巫女服を着慣れてはいない。それでも気持ちだけは集中を切らしている様子はない。
しかし祈祷を始める前の時点で、咲は疑念を抱いていた。
──……この奥さんは、何かを隠している…………
広い本殿の中心。本祭壇。
左右に大きな燭台を備え、その中では絶えず松明が火の粉を散らしていた。その光が夕陽に包まれた本殿に舞い続けていた。
一通りの祈祷を終わらせたが、咲の疑念は消えない。しかしその詳細は見えなかった。さらなる祈祷でより深い所を探る必要性を感じていた。
──……後二度の祈祷は欲しいというところか…………
咲は行方不明の夫の両親だけを別室に迎え入れて話を聞くことにした。
「お答え頂ける範囲で構わないのですが…………ご両親から見られた感想で構いません。ご夫婦仲のほうは……どのように見られておりましたでしょうか…………?」
いつもならこういうことを聞くことはない。先入観があることで〝見えなくなること〟があることを知っていた。しかし咲は、それ以上にその〝必要性〟を感じた。
そしてその咲の言葉に、母親のほうが目を逸らした。すると父親が意を決したように話し始める。
「……実は……あまり良くはありませんで…………お恥ずかしながら息子が何年か前に浮気をしまして…………それから夫婦仲は冷めていたようです。孫たちは何も知りません。そして行方不明になる少し前にも新しい浮気をしてたのがバレたらしくて…………」
父親は額の汗をハンカチで拭きながら視線を落とした。汗が首筋を流れ落ちていく。季節はまだ春。この日もやはり春らしい陽気。気温も湿度も決して高くはない。
すると横の母親が、弱々しく言葉を繋げていく。
「嫁が…………興信所に調べさせていたみたいで…………」
その言葉に、咲の中に何か嫌なものが過ぎり、すぐに遮る。
「結論部分は分かりませんが…………私の見えたイメージは大きな橋です。だいぶ山奥ですね。真っ赤な橋と、その両サイドにはお地蔵様が一体ずつ…………どちらも真っ赤な頭巾を被ったお地蔵様です。夜…………奥様と、もう一人の男性……おそらくですが…………私の名前を出して構いませんので、改めて警察のほうにお伝え下さい」
咲は二人を本殿に戻し、やがて家族が本殿を出ようとした時、立ち上がったのは西沙だった。
そしてその衣擦れの音に咲が気が付いた時には、遅かった。
西沙の声が本殿に木霊する。
「その人が殺したよ」
家族の足が止まり、空気が凍りつく。
西沙は右腕をまっすぐ上げて嫁を指差して続ける。
「橋から落として殺したの。まだ旦那さんはそこにいるよ」
翌日、妻が自ら警察に自首する。その日の内に夫の遺体が発見された。
浮気をしていたのは夫だけでなく、妻も同じ。その妻が浮気相手と共に行った犯行だった。やがて浮気相手も殺人教唆の疑いで事情聴取を受けることになる。
そしてその夜、咲は西沙を問い詰めた。
「何か、見えたのですか?」
出来るだけ穏やかに話しているつもりでも、咲は祭壇の蝋燭の灯りに照らされた自分の表情に自信がなかった。正面に小さく正座をする西沙に、無意識の内に何かを見透かされるような、なぜかそんな気がした。
そんな咲の気持ちを知ってか知らずか、西沙は平然と応える。
「うん」
「祈祷の時?」
「ちがうよ。その前」
──…………前……?
「西沙…………見えたからと言っても、すぐに口にしてはいけない時もあるのですよ」
あの時、高校生の息子が二人いたことを咲は危惧していた。その精神的な影響はどれほどだろうかと不安があった。
──……とは言え、結論は同じか…………
咲が続ける。
「これからは、私に先に伝えてくれますか?」
「うん。いいよ」
無垢なままそう応える西沙に、僅かながら咲は、胸の中の何かが疼いた。
──……この歳で…………この子は何もせずに見えている…………
咲も三姉妹の内で一番の能力を誇り、唯一、一人で神社を継いだ能力者。二人の姉との確執すら生まれなかった。姉のほうから継ぐことを勧められたほど。
それでも幼い頃から数々の修行を積んできた結果でもある。中学を卒業してからは荒業も経験させられる。その上で現在の能力を手に入れた。
幼い頃に特に勘の鋭い期間というものが存在することは往々にしてある。何もしなければその能力が薄れていくことはよくあること。咲のような立場の人間は修行でその力を維持、そして高めていく。
その咲でも西沙ほどの力を見たことはなかった。
逆に、修行をさせることでどこまで能力が高められるのか興味も沸く。
それから数年。
西沙は一〇歳。小学四年生になっていた。
修行の始まる年齢でもある。すでに二人の姉は日々を忙しくしていた。
しかし西沙は修行もせずに相手がどんな人物なのかを言い当てていた。その人の過去だけでなく未来も見える。咲は常々、小学校では出来るだけその能力を見せないように西沙に指示していた。それでも完全には隠し通すことは出来ず、西沙は完全に孤立。友達を作ることが出来ないままだった。
見えない〝誰か〟と突然会話を始め、時には見られたくない心の内を言い当てられる。そんな西沙に近付こうとする同級生は一人もいなかった。
誰からも気持ち悪がられ、やがて虐めの対象となっていく。
西沙はその能力の強さからか、気が付いた時にはいつも一人だった。子供にとって西沙の力は〝驚愕〟するものではなく〝脅威〟でしかない。〝恐れ〟が〝排除〟という概念を生み、それは〝気持ちの悪い〟ものへと変化し、そして〝虐め〟へと広がっていく。
そして西沙が、初めて明確に自分の力に恐怖したのもこの頃だった。
とある平日の午後、急遽小学校が休校になる。学校の連絡網をテレビ報道が補う。
四年生から六年生までの生徒五人が次々と二階の窓から飛び降りたという。全員が病院に運ばれて重症のまま。地元のマスコミは〝集団ヒステリー〟〝集団パニック〟として報道を始めていた。
綾芽、涼沙はすぐに帰宅したが、西沙が戻らないまま咲が学校に呼び出された。
生徒が飛び降りた時の目撃者として、西沙は数人の生徒と共に学校で警察の聴取を受けていた。
そしてその夜、話をしたがったのは咲よりも西沙のほうだった。
西沙は本殿に母の咲を呼び出す。
咲としては真相を知りたい気持ちももちろんあったが、西沙の怯えた表情に、一晩休ませようと考えていたほど。正直、西沙に呼び出された時は少し驚いた。
「今日のこと? 友達だったのですか?」
咲は西沙が学校でどういう境遇に置かれていたのかまでは知らない。それが今回のことで露呈したとはいえ、気付けずにいたことを申し訳なくも感じていた。しかも巫女という生業で生きていながら、一番身近にいるはずの娘の心の苦しみにすら気が付くことが出来なかった。
だからこそ、祭壇を背に座りながら、咲は俯く西沙に優しく声をかけた。
「とりあえずしばらくは学校もお休みになるみたいですから、三人でゆっくり休みなさい」
咲にも聞き出したいことは幾らでもあったが、今は過剰な刺激を与えることが得策とはやはり思えない。西沙が神経を昂らせていることを感じていたからだ。明らかに怯えも見える。
それでも、何か〝別の存在〟も感じていた。
──…………何を、した……
なぜか、そんな疑問が浮かぶ。
すると、西沙がゆっくりと口を開いた。
「…………あの五人…………私をイジめてた………………」
震える声。
そのか細い声に、咲は小さく息を吐いた。
しばらく考えてから口を開こうとした時、先に飛び出した西沙の言葉が咲の気持ちを突いた。
「────あの時もイジめられてた…………」
咲の中に嫌な感覚が湧き上がる。
そして西沙の声。
「…………死んでしまえばいいと思った………………」
その両目からは、大粒の涙が零れ落ちていた。
詳細を聞き出してから、初めて咲は、西沙が自覚していた事象を把握することになる。
「……私は…………目を見ただけなの…………そしたら自分で窓を開けて…………」
西沙は、目を合わせるだけで相手の意識を操ることが出来ていた。そのため、いつの間にか西沙は人と目を合わせないようにしていたという。
「……誰の目も見たくない…………みんな……私を怖がる…………」
大粒の涙を流しながら、空気を震わせる声で西沙がそう続けていた。
その西沙が行き着いたのは、コントロール出来ないのは母親の咲だけだということ。
綾芽と涼沙は薄々勘づいていた。
二人は西沙とは完全に距離を置き始めていた。仲の良かったはずの姉妹関係は、すでに過去。
今や西沙が目を合わせられるのは母親の咲だけ。
翌日、五人の生徒は一命を取り留める。
咲は西沙に、他人と目を合わせないように指示するしかなかった。
☆
咲はあれ以来、連日、西沙を交えて祈祷を続けていた。
そしてその過程で、西沙の中に〝負の念〟が蓄積していることには気が付いていた。しかしそれが西沙にどんな影響を及ぼしているのかまでは分からないまま。
──……この子は…………大き過ぎる…………
西沙も一〇歳という幼い年齢でありながら、自分が人と違うことは理解していた。しかしそれを受け入れるということは、普通に〝人間〟としては生きていけないことも意味する。
咲は祈祷中、背後で両手の指を絡ませる西沙からの圧力に恐怖した。
──……この圧力…………子供のものとは…………
日々その圧力は大きくなっていった。
同時に綾芽と涼沙の修行も続けなくてはならない。とはいえ、まだ小学生の内は荒業というわけではなく、精神的な集中と知識の集積に重きが置かれている。
「西沙は危険です」
本殿裏の準祭壇でその日の修行を終えたばかりの綾芽が、突然そんなことを口にした。
咲も口にこそしなかったが、その言葉の意味は綾芽の感情と共に理解出来る。それでも咲は優しく諭すように返した。
「綾芽……己が妹にそのような────」
「あの五人…………私と涼沙が介入していなければあの場で死んでいました」
咲の言葉を遮るかのような綾芽の口調は、低く、強い。
咲はすぐには返せなかった。
「…………二人が…………救ったと…………」
そう返すのがやっと。
──……私は…………とんでもない後継を産んだのか…………
次いで口を開いたのは綾芽の隣の涼沙。
「母上、私は……西沙が怖い…………」
すでに学校は再開されていた。
それでも一向に学校に来ない西沙のことで、噂話だけが先行する。
西沙の〝黒い噂〟。
あの場にいたことはすでに知れ渡っていた。しかもあの時、いつものように西沙が虐めに遭っていたことも周知の事実。しかし当然のことながら非科学的な〝黒い噂〟と五人の飛び降りを学校が結びつけるわけもないまま、小柄で華奢な西沙の噂話ばかりが蔓延していく。
まして神社の娘。オカルト好きな年齢の小学生が飛び付かないわけがなかった。
以前から自分は周囲に嫌悪されている存在だと感じていた西沙は、今回の件で自分の存在価値を見出すことが出来なくなっていた。
──……私は…………人を傷つける存在…………
西沙が学校に再び戻る決断をしたのは、決して自発的なものではない。もちろんそれは咲の進言だった。
西沙は常日頃から人と目を合わせないように、下を向いて歩く癖がついていた。それでも周囲の状況は、なぜか見えていた。それは無意識の内に発揮されていた西沙の能力の一つ。
いつもは周囲の状況が見えているとは言っても、やはり精神的な疲労と不安が西沙の能力を不安定なものにしていたのだろう。
それでも横断歩道の信号の色は、視界に入る周囲の人々の足の動きで判断することも出来る。
その時はたまたま周りに誰もいなかった、だけ。
顔を上げれば赤信号かどうかは確認できる。しかし西沙は止まることなく横断歩道の白線を辿る。
何も考えてはいなかった。
突如、横から聞こえるクラクション。
驚いて体を戻すも、その時、西沙は反射的に顔を上げていた。
道路の向かい、驚いて西沙を見る人と、目が合う。
スーツ姿の若い男性。
その男性はフラフラと車道に進み出た。周囲にクラクションが鳴り響き、その男性の直前で車が止まる。
西沙の目には見えていた。
その男性の体に謎の黒い影が絡みつく。
──…………なに……?
西沙は神社まで走り、咲の膝で崩れるように泣き続けた。
ただ、怖かった。
結局、学校に戻ったのはそれからおよそ一週間後。
もちろん生徒たちの間では〝黒い噂〟は収まってなどいない。むしろ膨れ上がっていたほど。西沙は以前にも増して空気の重さを感じていた。まるで学校自体が別の空間のようだ。
しかし当然のように、そんな噂に教師たちは辟易していた。
咲は他人と目を合わせられない西沙のことを、学校には病気だと説明していたが、それをただの〝人見知り〟だからと強引に強制しようとする教師もいた。自分が間違っているなどとは微塵も考えてはいない。しかも同じように考えていた教師は一人だけではなかった。
「では……御陵院さん、黒板のこれを読んでください」
五〇代の男性教師だった。
その教師は返事の無い西沙にさらに畳みかける。
「立ちなさい」
西沙はやっと立ち上がるも、顔を上げようとはしない。
「顔を上げなさい!」
教師の張り上げたその声に、西沙の中の何かが崩れた。
──………………やめて…………
ゆっくりと、西沙の顔が上がる。
やがてその目は、黒板ではなく、教師の目に向けられた。
途端に、教師の全身が黒い影に覆われて見えた。
教師の表情が変わる────怯え、全身に汗を吹き出させた教師は廊下に飛び出し、廊下の窓から身を乗り出す。
それをたまたま通りがかった別の教師が慌てて止めた。
それからは、教師も、さらには生徒も、誰とも目を合わせようとしない西沙に対して、腫れ物に触れるように接していった。
そして、総てが、西沙を追い詰めていく。
☆
西沙が中学校に入った年、綾芽は三年生、涼沙は二年生。
西沙は小学校も結局あまり通わないままに進学したが、付近の三つの小学校から生徒が集まるため、当然のように西沙の噂は引き継がれる。同じ小学校だった生徒は西沙を恐れて近付かなかったが、それがかえって西沙の噂に尾鰭を付け加えていく。
そしてこの頃になると、西沙は目を合わせるだけではなく、手をかざすほうが相手をコントロールしやすいことに気が付いていた。猫や犬でそれを確かめるも、それ以上踏み込むことも出来ないまま、膨れ上がるのは自分への〝恐怖〟だけ。
そして中学校でも虐めは継続された。
西沙の不登校が続く。
時だけが流れ、やがて三年生。
すでに中学を卒業した綾芽と涼沙は神社を継ぐことを決意し、高校には進学せずに本格的な修行の日々に移行していた。
ある日、久しぶりに西沙が登校した日。
廊下を歩くだけで、周りからの〝冷たい意識〟を感じる。視線を落としているにも関わらず、西沙の無意識の能力は西沙に周囲の状況を理解させた。
見たくない。
感じたくない。
西沙は自分で操ることの出来ない自らの能力に嫌悪感を感じ続ける。常にその感情は西沙の意識を覆い尽くしていた。
小さな声も聞こえてくる。
それは決して西沙が聞きたい言葉ではなかった。
〝 バケモノがきた 〟
〝 人間じゃない 〟
〝 近付いたら殺される 〟
〝 ── 人殺し ──── 〟
「あ、バケモノだ」
聞き慣れた声。
虐めグループの一人の声。同じ小学校の女の子の声。
聞き間違うはずもない。
「人殺しが来た」
その声に、西沙は足を止める。
無意識に顔を上げた。
首を回す。
声の主を見付けると、その目を見つめていた。
一人が、二階の窓から飛び降りる。
「人殺し────」
その声に振り返った西沙は、右手を後ろに振り払った。
一人が、壁に体を叩き付ける。
周囲から悲鳴が上がった。
そして、午後に咲が学校に呼ばれる。
もちろん、物理的な証拠があるわけではない。西沙が直接触れたわけではない。教育現場では心理的なものとして片付けるしかない。
しかし、その中心にいるのは間違いなく西沙。
咲は分かっていた。
もちろん自分の娘を疑いたくはない。
しかし感じたものは、母としての感情を崩していくだけ。
当然、綾芽と涼沙は西沙を疑う。
物理的な証拠はなくても、これまでの経緯を考えると二人からの疑いももっともと言えた。
深夜までの荒業を終えた日の夜、綾芽と涼沙は母の咲を捕まえる。本殿裏の準祭壇の前で最初に口を開いたのは綾芽だった。
「西沙には……〝蛇〟がついています…………」
「あなたは……それを見たのですか?」
咲は毅然とした態度を崩さない。
そこは本殿の中心となる本祭壇とは別の準祭壇。秘儀や密儀に使われる所。その準祭壇の松明の火が絶やされたことはない。それは代々に渡り何百年も続いてきたこと。その歴史のある灯りが、咲の強い目に反射していた。
二人が西沙に対して距離を置いていたことは咲ももちろん気が付いていた。それに対して仕方がないと判断することは簡単だろう。西沙のそれまでのことを考えれば当然とも思える。
しかし〝母としての自分〟もいる。
西沙に恐怖しながらも、遠ざけたくはなかった。
しかし綾芽も負けずに応える。
「……いえ…………何度も感じました」
「あなたの程度で感じたものなど────」
「いえ母上」
そう言って咲の言葉を遮った綾芽が続ける。
「西沙には何かが憑いています…………本殿に入れるべきではありません…………」
咲も気が付いていないわけではなかった。
西沙の中学校の卒業までは残り僅か。
事件から丸二日。
咲は一人、西沙だけを本殿裏の準祭壇前に座らせて祈祷を続けた。
絶対に綾芽と涼沙には関わらないように伝え、咲と西沙は睡眠も取らずにただただ祈り続けた。
どれだけの時間だったのだろう。
もはや咲にも時間の感覚は無い。
やがて、咲の背後で西沙が倒れる音。
そして、やっと咲は呪禁を止めた。
西沙が荒い息と共に呻き声を上げながら体を起こす。巫女服の衣擦れの音が、西沙の荒い息を僅かに隠した。
咲は未だ背中を向けたまま、大きく息を吐く。
その咲が口を開いた。
「西沙…………あなたの〝力〟を半分まで押さえました…………今までのように能力を発揮することは出来ないでしょう……もう人と目を合わせても今までのように操ることは出来ないはず…………それでも、あなたの力は強過ぎる…………しかしあなたに憑いたものが何者であっても、私の力には反発出来ない…………」
咲は体を後ろに回す。
西沙は苦しそうに両手を着いて肩で息をしていた。
その西沙の〝瞳〟が咲を見上げる。
元から咲だけは操られないはず。それでも咲の中に生まれたのは〝畏れ〟ではなく〝恐れ〟。
その咲が、続けた。
「西沙…………事実とは曲げられないものです…………行ったこと、終わったこと、いずれも受け入れるだけです…………そして、この世の中にはあなたを良く思わない者が多くいます。あなたをここに出入りしている税理士の立坂さんに預けます。そこから高校に通いなさい。これからあなたは、その力を使って人を助けることになるでしょう。そして…………あなたを助けてくれる人も必ず現れます」
そう言う咲の目を、西沙は見つめ続けていた。
☆
それから、およそ五年────。
高校卒業と同時に開設した心霊相談所も、すでに二年。
名義としては西沙の身元引受人の立坂が立ち上げた事業ということになっていた。
それと同時に、立坂は美由紀の身元引受人も引き受ける。これは西沙からの要望だった。美由紀が幼い頃から孤児院で生活してきたことと、西沙としては自分の近くに置くことで美由紀を〝守りやすく〟したかった。西沙は相談所の隣の古いアパートの一室で暮らしていたが、今は隣の部屋に美由紀を住まわせている。高校の卒業と同時だった。
立坂も事情を聞いて快く受け入れた。
その立坂の税理士という仕事について西沙は決して詳しくはなかったが、仮にも立坂自身も税理士事務所の経営者。それなりに様々な所に顔が広くなる職業なのだろうとは思っていた。そのお陰か、しばらくは立坂の斡旋での客がほとんど。
しかし去年の秋に関わった仕事は別だった。
西沙が初めて、自ら関わった。
当時マスコミが騒ぎ立て始めた〝悪魔祓い事件〟────宗教法人の設立したホスピス内で悪魔祓いが行われていたとするニュースは全国規模でマスコミの恰好のネタとなった。しかもその悪魔祓いによって入所者が死亡したとの家族からの訴えに、まるで飴に吸い寄せられる蟻のようにマスコミは群がる。
そして、西沙が関わった理由。それは母親の咲の存在だった。
咲がホスピスの母体である宗教法人に関わっていたことが、西沙を動かす。例え確執のある親子関係でも、西沙にとっては母親がマスコミの餌食になることは許せなかった。
もちろん記者会見に出ることで顔を売りたかったのも事実。
一時は全国規模でのニュースに取り上げられたが、それに比例するほど仕事が増えなかったのが現実。
マスコミが一気に興味を失ったせいもあるのだろう。記者会見で発表された内容は、マスコミが求めていた結果とは大きくかけ離れていたもの。結局は悪魔祓いのようなオカルト的な事象が入所者の死に関係していた事実など存在せず、あれ以来、西沙がマスコミに取り上げられることもほとんどなかった。
そして、季節はすでに夏の始まり。
そんな蒸し暑い朝の来客。
入り口のガラス戸が開くことでエアコンの涼しい空気が外に弾き出されることすら嫌になりそうな、そんな日だった。
「いいですねえ、エアコン」
そんな間の抜けた、それでいて嘘の無い声。
フリージャーナリスト────水月杏奈。
入り口側の美由紀が、その顔を見るなりすぐに声を掛けるのがいつもの流れ。
「お久しぶりです。今日は冷たいのにしますね」
そう言いながら椅子を降りる美由紀の背中に杏奈が声を返していた。
「ああ、ごめんなさい美由紀ちゃん」
杏奈は西沙と美由紀よりは少しだけ年上だったが、それでも二人には敬語を使う。仕事柄そうすることが慣れているというのもあったが、何より杏奈自身が霊能力者としての西沙に心酔していたからに他ならない。
出会いは去年の秋。
〝悪魔祓い事件〟を杏奈が追いかけていたことが切っ掛けだった。最終的にマスコミ向けの記者会見を開いたのは杏奈。西沙同様に顔を売りたかったというのは杏奈も同じ。雑誌社を辞め、フリーになって最初の大きな仕事だったからだ。
「車にだってエアコンくらいあるでしょ?」
そう言ってソファーの上で横になったままの西沙が顔だけを向ける。
「そうは言いますけど────」
すぐに返しながら西沙の向かいのソファーに腰を降ろした杏奈が続けた。
「燃費悪くなるじゃないですか。古い車なんでエアコンの効きも良くないし」
仕事柄なのか、自他共に認めるボーイッシュなタイプだ。毎朝念入りに化粧して隣の古いテナントビルに出勤してくる西沙とは正反対なタイプだろう。いつもノーメークに近いほど。常にジーンズとスニーカー。肩から下げているのは丈夫さだけが取り柄のような古いカメラバッグ。仕事道具とはいえ、少なくとも二〇代の女性が持ちたがるデザインではない。
「お互いに景気の悪いことで……杏奈が貧乏神に見えてきたわ」
西沙がそう返した時、二人の目の前に美由紀の運んできたグラスが並ぶ。すぐにグラスを取り囲む水滴がコースターに滑り落ちていく。
「あ、どうも」
反射的に応える杏奈に西沙が続けた。
「ウチは麦茶くらいしか出ないけど今日はどんなネタ? まさか涼みに来たわけじゃないでしょ?」
杏奈が濡れたグラスを手に取る。麦茶を一気に飲み干し、大きく息を吐いて応えた。
「いいじゃないですか。そんなに忙しくもないんですから」
「やっぱり貧乏神ねー。後で杏奈の車をお札で埋め尽くしておかなきゃ」
西沙の言葉を流すように、杏奈は濡れた手をグラス横に置かれたおしぼりで拭き、すぐにカメラバッグからタブレットを取り出して口を開く。
「まあまあ、一応オカルトネタ持ってきたんで」
「まだオカルトライターなんかやってるの? 稼げるならやめろとは言わないけどさ」
そう返しながら西沙が眉間に皺を寄せた。
西沙と出会ってから、杏奈は仕事の一つとして雑誌のオカルト記事を請け負っている。いつの時代も定期的にオカルトブームというのはやってくるものだが、決して無くなることのないジャンルでもあると言えるだろう。元々杏奈はその方面に明るかったわけではない。総ては西沙との出会いが切っ掛けだった。
「まあ……ちょっとだけ……ですけど」
杏奈はそう応えて笑顔で誤魔化すが、決して大きな収入になる仕事ではなかった。ネット用の記事もまとめていることを考えると割がいいとは言えないだろう。それでも、何より杏奈自身の興味が仕事を続けさせていた。
西沙にもなんとなくそれは想像がつく。だからこそ杏奈に何度も協力してきた。
その西沙が体を起こす。
ソファーの肘掛けから足を降ろして麦茶を一口だけ飲み込むと口を開いた。
「で? 今回は?」
そう言いながら、西沙の目付きが少しだけ変化したのを向かいの杏奈は見逃さない。
杏奈はその西沙の〝目付き〟が好きだった。
「実は一年くらい前から続いてる話なんですけどね……もちろん私が知ったのは最近ですが……〝風鈴の館〟って、知ってます?」
前のめりにそう応える杏奈に、西沙は上半身をソファーの背もたれに押し付け、足を組んで応える。
「へー……いいじゃない…………聞かせてよ」
西沙の目が、細くなる。
口角を少しだけ上げ、その涼しげな表情は、どことなく大人びて見えた。
〜 あずさみこの慟哭 第一章「聖者の漆黒」
第一部「回起」第2話へつづく 〜